いしゃ先生の紹介:2015年日本映画。いしゃ先生の本名は志田周子といいます。周子は東京の女子医大を出たあとに大学の医局に入りますが、その後は山形県大井沢村の故郷に帰り、生涯、村の診療所医として医務に携わりました。東京には恋人もいて、出世の道も拓かれていましたが、周子の選んだ道は寒村の暮らしであり、中央からは全く顧みられることのない診療所生活でした。映画では、「何故、彼女がその道を選んだのか」を解き明かします。主演に平山あや、昭和の戦前・戦後を竹のようにまっすぐに生きた女性の姿を演じます。
監督:永江二朗 出演者:平山あや(志田周子)、榎木孝明(父・志田荘次郎)、池田有希子(母・志田せい)、長谷川初範(高橋校長)、上野優華(幸子)、竹子(白崎映美)、鉄蔵(中本哲也)、友蔵(石澤智幸)ほか
映画「いしゃ先生」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「いしゃ先生」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
いしゃ先生の予告編 動画
映画「いしゃ先生」解説
この解説記事には映画「いしゃ先生」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
いしゃ先生のネタバレあらすじ:起
父から急な電報を受け取り、取るものも取りあえず帰省したのは、昭和10年のことでした。8年ぶりの故郷にくつろぐ私に、父はその晩、「村の診療所の医者になれ」と口を開きました。「3年間だけ」と条件つきでしたが、「いますぐに」です。私の名義で「診療所開設の予算も下りている」と、私の都合などお構いなしのはなしに唯々混乱したのを覚えています。
私の故郷は、山形県大井沢村です。山を越えた、山また山の山奥です。無医村のこの村に診療所を建てることが、村長である父のかねてからの夢でした。東京の病院で修行中の私には、あまりに急なはなしで、戸惑いましたが、女である私が医者になることを許してくれた父、私を育ててくれた村のために「3年間だけ」診療医になることを承諾したのでした。
都会生活と村の暮らしではまるで違います。当時ではあたり前のことでしたが、村の人たちが向ける目つきには、「女性蔑視」がありありと見てとれました。村長の子(長女)だとはいえ、村の人たちは、私を「女だから」「女だてらに」と見ていました。「女に大事な命さ、預けるわけにはいがねえ」と、こうなるわけです。
待てども、現れない患者さんに、父も私も「あにはからんや」と期待外れの毎日を過ごしていました。私は「診療所で待っていてもしかたがないわ」と考えて、村の1件々々を訪ね歩いてみることにしました。村を歩いてみて、分かりました。村の人たちは、私に要求されかねない過大な診療報酬に対して門戸を閉ざしていたのでした。
いしゃ先生のネタバレあらすじ:承
医療よりも呪(まじない)や祈祷が重んじられていた時代でした。私の診察を断ったあるお宅の病人が、祈祷師のお祓いの甲斐なく、亡くなったこともありました。それから幾日か過ぎた日のことでした。野良着を着た女性が老いたお母さんを背負って診療所を訪ねてきました。遠くの畦から私を呼ぶ大声で、私は振り返りました。
診察台に横たわった老母の心臓は止まっていました。すでに亡くなられていると思いましたが、私はかつて心臓マヒの患者さんに係わった経験がありました。そこで今度もまた、その時と同じように、患者さんの胸を思いっきり叩いてみました。ナタを打ち下ろすように何度も繰り返し女性の胸を拳骨で叩きました。すると女性の目がパッと見開きました。
その人は、三途の川を越えた人がもう1度、川を越えて戻ってきたみたいな、驚いた顔で私を見つめました。その人、ヨシさんが私の患者さん第1号でした。そして、ヨシさんが、「大井沢診療所」の広告塔として、私の評判を村中に知らせて歩いてくれたのでした。
翌日は、朝からお昼を食べる暇もないほどの忙しさで、患者さんがひっきりなしに診療所を訪ねてくれました。あれほど満ち足りた1日はありませんでしたが、ヨシさんの診察を終えた私には、いけない点もありました。「いしゃ先生のところさ、行くと、タダで診てもらえるぞ」と。診療所の運営に、のちのちまで尾を引く欠損を与えてしまったからです。
いしゃ先生のネタバレあらすじ:転
父は診療所を開くにあたり、議会で予算を通すなど奔走しましたが、私の故郷のような寒村では、診療所に割ける予算など、たかが知れていました。不足分は、すべて言い出しっぺである村長の持ち出しになっていたのです。そのことを知ってから、私も頂ける医療費は頂こうと。けれども、医療費を口にしはじめた途端、患者さんは去って行きました。
2年目の秋が過ぎ、厳しい冬を迎えた晩のことでした。村の診療医である私を誇りに思い、生真面目な私の心をいつも優しくほぐしてくれた母を病で亡くしてしまいました。両親の仲はすこぶる良く、私には4人の弟妹がいましたが、母の胎内では、さらにもうひとりの新しい弟妹が手足を伸ばしていました。私はふたりの身内を同時に喪うことになりました。
はたして私は最善を尽くしたでしょうか。いや違います。手を施せなかったのです。父と弟妹たちも深い嘆きと悲しみに陥りましたが、私の落胆には底知れないものがありました。私はこの時ほど、医者である自分に疑いを持ったことはありませんでした。だから、自分を戒めたのです。女であることの幸せに生きるよりも、医の道に身を捧げようと。
いしゃ先生の結末
じつは私、志田周子には、心から慕う男性がいました。同じ医局に勤務していたその方とは、東京から遠く隔った山形へ移ったあとも、縁を切らすことなく文通を続けてまいりました。そして、父との約束を終えた3年目の夏、「山形駅へ迎えに行く、駅にあなたが見つからなければ帰る」と、その方のお手紙を頂きました。
いま思えば、すでに私の思いは決まっていたのかもしれません。その方が山形駅へ到着する日の朝、診療所を閉じた私のもとへ急患を告げる男のひとが駆けこんで来ました。道行く私の挨拶さえ拒み続けていたそのひとが、私に頭を下げて懸命に往診を頼んでいるのでした。山形駅へ向かうはずだった私の足先は、その時、別の方向を目指しました。
このたび、私が栄えある『保険文化賞』を頂くにあたって、皆様にぜひお伝えしておきたいことがあります。日本では、まだまだ健全な医療を受けられない方々が数多くいます。その皆様方のためにも、一刻も早く医療制度を充実させて頂きたいと願う者のひとりです。なぜなら、(差別多い世の中にあって)命だけは平等であると思うからです。
・・・志田周子先生は、昭和37年に享年51歳で亡くなりました。国民皆保険制度が制定されたのが前年の昭和36年のことでした。いしゃ先生は、誰もが医療費の心配をせずに受診できる日が来たことに心から安堵し、しっかりとそのことを確認され、息を引き取られたのでした。
以上、映画「いしゃ先生」のあらすじと結末でした。
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