武蔵-むさし-の紹介:2018年日本映画。伝説の剣豪・宮本武蔵の半生を、『蠢動 しゅんどう』の三上康雄監督が史実に基づいたオリジナルストーリーとして映像化した時代劇です。主人公・武蔵を『3年A組 今から皆さんは、人質です』の細田善彦が、宿命のライバル・佐々木小次郎を松平健が演じ、吉岡清十郎・伝七郎との試合、一乗寺下り松の決闘、鎖鎌の宍戸や十字槍の道栄との戦い、そして巌流島の決闘と続く武蔵の闘いの日々を描いていきます。
監督:三上康雄 出演者:細田善彦(新免武蔵玄信)、松平健(佐々木小次郎)、目黒祐樹(沢村大学吉重)、水野真紀(ユキ)、若林豪(太木慧道)、中原丈雄(板倉伊賀守勝重)、清水綋治(吉岡七左衛門)、原田龍二(吉岡清十郎)、遠藤久美子(吟)、武智健二(吉岡伝七郎)、半田健人(長岡式部興長)、木之元亮(大島直治)、須藤正裕(新免無二斎)、小林郁大(吉岡亦七郎)、黒木信二(後藤又三)、鈴木有生(平野義平)、秋月成美(倫)、真木仁(松尾十郎)、勝亦正(武田忠次)、太田聡(藤木浩助)、横山恒平(今屋三郎)、宗円章浩(奥蔵院道栄)、中川邦史郎(林泰正)、大岩匡(紀藤一元)、児玉純一(宍戸)、今井耕二(小林太郎左衛門)、瀬戸さおり(サエ)、篠田薫(五郎左)、三上康雄(細川忠興)、カズキ(新免武蔵(幼少期))、増田晋(ナレーション)ほか
映画「武蔵-むさし-」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「武蔵-むさし-」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
武蔵-むさし-の予告編 動画
映画「武蔵-むさし-」解説
この解説記事には映画「武蔵-むさし-」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
武蔵-むさし-のネタバレあらすじ:起・第一部 乱流(らんる)
徳川家康が将軍となり、徳川幕府を開いた直後の慶長9年(1604年)。21歳の浪人・新免武蔵玄信(細田善彦)は京を訪れました。幼き日の武蔵(カズキ)は父・無二斎(須藤正裕)から徹底的に剣術や武術を叩き込まれ、厳しく育てられてきました。
剣道の名家である兵法・京流宗家の吉岡家は代々足利将軍家の剣術師範を務めてきましたが、徳川将軍家が剣術師範に起用したのは柳生家でした。吉岡七左衛門(清水綋治)は甥で吉岡家当主の清十郎(原田龍二)に吉岡家再興の望みを託していました。
武蔵は腕試しをすべく吉岡家の門を叩きましたが、門弟の平野義平(鈴木有生)と後藤又三(黒木信二)から門前払いをくらいました。武蔵は平野と後藤を叩きのめすと、京の街中に「吉岡家も地に落ちたり。我に門弟二名を打ち負かされ、恐れをなし門を閉ざした。兵法宗家の名を捨てて然るべし。さもなくば我と速やかに勝敗を決すべし」との高札を立てて吉岡家を挑発しました。
挑発に乗った清十郎は自ら武蔵と闘う決意をし、浪人相手は清十郎の弟・伝七郎(武智健二)で十分だとする七左衛門の意見を一蹴しました。七左衛門は京都所司代の板倉伊賀守勝重(中原丈雄)に試合の届け出をしました。清十郎はまだ幼い嫡男・亦七郎(小林郁大)から「父上は強うございますか?」と尋ねられ、「明日の試合には必ず勝つ」と力強く宣言しました。
試合当日。神社の境内で木刀の手入れをしていた武蔵は、行儀見習いの倫(秋月成美)のために花を摘んでいる亦七郎の姿を見かけました。
時を同じくして、“巌流”こと佐々木小次郎(松平健)は修験者として修行の旅に出ていました。小次郎は京の愛宕山の山道で豊前小倉藩主・細川家の重臣である沢村大学吉重(目黒祐樹)と出会いました。小次郎は17年前の九州平定で豊臣秀吉軍に楯突いた佐々木家の者でした。
武蔵と清十郎の試合は板倉伊賀守や沢村大学の立ち合いのもとで行われることとなりました。沢村大学と共に細川家に仕える長岡式部興長(半田健人)の父・長岡佐渡守は武蔵の父・無二斎と面識があり、無二斎はかつて吉岡家の者と試合をしたことがありました。
そして遂に武蔵と清十郎の試合が始まりました。遠山の構えをする清十郎に対し、武蔵は左腕一本で上段に構え、相手を威嚇するかのように雄たけびを上げました。次の瞬間、武蔵の木刀は清十郎の肩を打ち砕いていました。武蔵は「勝負あり!」とその場を後にし、板倉伊賀守と沢村大学は「間違いなく無二斎の子」と武蔵を讃えました。
しかし、武蔵もまた清十郎の強烈な一撃を左胸に受けており、沢村大学は武蔵の戦いぶりを「肉を切らせて骨を断つ」と評しました。
打倒武蔵を誓う七左衛門は伝七郎を呼び寄せ、伝七郎は清十郎の無念を晴らすと誓いました。清十郎は武蔵の太刀筋を伝七郎に教え、伝七郎は清十郎や七左衛門と共に武蔵の攻略法について策をめぐらしました。
武蔵と伝七郎は夜の洛外蓮嶽寺跡で対決することになりました。吉岡家の威信をかけて臨んだ伝七郎でしたが、伝七郎が武蔵対策として長い木刀を持ってきたのを見た武蔵は「勝負はついた」と立ち去ろうとしました。それでも伝四郎は武蔵に勝負を挑み、「(清十郎の)敵討ちなら真剣勝負が筋」との武蔵の言葉に乗って両者は真剣での勝負に臨みました。
死闘の末、武蔵は伝七郎を斬り倒し、襲い掛かってきた門弟相手に“二刀流”を披露してその場から立ち去りました。伝七郎はそのまま息を引き取り、七左衛門は激しい怒りを露わにしました。清十郎は「わしのために…」と伝七郎の死を悼みました。
武蔵-むさし-のネタバレあらすじ:承
七左衛門は板倉伊賀守から「深追いはするな」と忠告され、復讐よりもお家再興の方が先決だと諭しました。武蔵は京の町に「吉岡を打ち負かしたり。相応の仕官を求むものなり」との高札を立てました。これを見た七左衛門は激怒し、亦七郎を名目人に据えて7日後に一乗寺下り松で武蔵と果し合いをする決断を下しました。
吉岡家は亦七郎名義で武蔵に果たし状を出し、武蔵の姉・吟(遠藤久美子)や旅の途中の小次郎も目にしました。吟は無二斎の具合が悪いので今すぐ実家に帰るよう告げましたが、武蔵は「父を超える。帰るのは果し合いを終えてから」と聞きませんでした。吟は刀とは人を斬り殺すものであり、そんなものに神仏が宿るなどおかしい話だと武蔵を非難しましたが、武蔵は「俺には師も後ろ盾もない。だから戦う」と決意が揺らぐことはありませんでした。
一方の七左衛門は武蔵を斬った者には30両と仕官の道を約束するとして刺客集めに奔走していました。七左衛門は「これは(伝七郎の)弔い。吉岡の名をかけた戦」と自らも打って出る決心をしました。
3月13日、一乗寺下り松の決闘の当日。吉岡家は亦七郎を総大将に、高弟の大島直治(木之元亮)以下数十人の門弟を引き連れて決闘の場に陣取り、七左衛門は「意地を見せよ!」と号令をかけました。小次郎は物陰から決闘の様子を見守ることにしました。まだ幼い亦七郎を斬るつもりのない武蔵は躊躇いましたが、意を決して敵陣に飛び込んでいきました。
武蔵は亦七郎を人質に取り、「勝負はついた! この子を連れて去れ!」と宣言しましたが、襲い掛かってきた七左衛門を斬った武蔵は誤って亦七郎を斬ってしまいました。まさかのことに衝撃を受けた武蔵でしたが、門弟たちは容赦なく斬りかかってきました。武蔵は二刀流で門弟を斬りながら逃げ、逃げては斬り、最終的に門弟全員を斬り倒しました。武蔵は半狂乱のままその場を去っていきました。亦七郎の死を知った清十郎は「亦七郎は大将だ。父より強い」と呟きました。
川で返り血を洗い流していた武蔵は、百姓の五郎左(篠田薫)とサエ(瀬戸さおり)の家に匿われました。武蔵は幼子を殺してしまったことを深く後悔し、心を閉ざしてしまっていました。サエの夫は戦に駆り出されて戦死していました。
その頃、豊前・小倉に戻った沢村大学は長岡式部と再会しました。小倉藩の先代藩主・細川忠興公(三上康雄)は足利将軍家・織田家・豊臣家・徳川家と時の権力者の下を渡り歩いており、現藩主に家督を譲る際に「流れに逆らわぬこと。流れが分かれたら天の声に耳を傾けよ」という言葉を贈りました。豊前ならびに九州は未だに土豪の勢力が根強く、沢村大学は土豪を抑え込むためにも藩の剣術指南として小次郎を迎え入れたい意向を示しました。その小次郎は越前で旧知の富田流・紀藤一元(大岩匡)の元を訪ね、剣の手合わせをしていました。
徳川家康は将軍の座を秀忠に譲り、大御所となった頃。清十郎は染物屋を興し、“憲法染”を編み出していました。憲法染の出来を絶賛した板倉伊賀守は清十郎の再出発を激励しました。小次郎は豊前に招かれ、正式に剣術指南として迎え入れられました。
武蔵は五郎左とサエの手伝いをしながら過ごし、静かで穏やかな日々を送るうちに心の落ち着きを取り戻しつつありました。サエは「武蔵様は悪くありません」と励まし、武蔵に抱かれました。しかしそんなある日、五郎左は突然現れた鎖鎌の宍戸(児玉純一)に殺され、サエは人質に取られました。宍戸は「武蔵の首を持ち帰る」と対決を挑み、刀を帯同していなかった武蔵は素手で対抗しました。サエは武蔵を庇って宍戸に刺されてしまい、怒りを爆発させた武蔵は鎖鎌を奪って宍戸を倒しました。サエの亡骸を目の当たりにした武蔵は思わず絶叫しました。
武蔵-むさし-のネタバレあらすじ:転・第二部 二天(にてん)
武蔵は播磨・永丈寺の禅僧・太木慧道(若林豪)の元に身を寄せていました。武蔵は慧道に「俺に関わる者は死んでいく。強い者を倒すことこそが剣の道と信じてきたが、実際は弱き者たちが死んでいる」と悩みを打ち明けると、慧道は「愚かなこと。剣の道を選んだ時から分かり切ったこと。死んだ者は弔うしかない。剣は人を殺す道具か否かは貴殿が決めること」と諭しました。武蔵は「何のために生まれてきたのか」と問うと、慧道は「授かった命、それを返すこと。人として貴殿は何を返した?」と返しました。何も答えられない武蔵に、慧道は「すがるな。甘えるな」と道を説きました。
時を同じくして、小次郎は小倉藩で藩士たちの指導にあたっていました。細川家や徳川将軍家の周囲には豊臣、黒田、毛利、そして一揆勢力という脅威が依然として残っており、小次郎は備えの必要性を再認識すると共に、今の藩の体制では難局を乗り越えられるのか不安視していました。
小次郎は黒田の脅威に対抗すべく、かつての佐々木一族の居城だった岩石城の再建を沢村大学に提案しましたが、沢村大学は「剣術指南としての筋目を超えている」と一喝しました。
その頃、武蔵は自らの剣の道を書物として残そうとしていました。そこに現れた慧道は、三木之助という少年が武蔵の弟子入りを志願していることを伝えました。武蔵は自分はまだ未熟者だと断りました。
小倉藩では長岡式部が筆頭家老に任じられ、沢村大学はその補佐をすることとなりました。沢村大学は小次郎を剣術指南に迎えたことを後悔しており、長岡式部は土豪を抑えるためにはやむを得なかったと沢村大学を庇いました。沢村大学は「わしなりに策を。その計らいのため、しばらく旅に」と長岡式部に願い出ました。
一方、小次郎は妻のユキ(水野真紀)に「わしは見えぬものを見えるように、聞こえぬものを聞こえるように鍛錬してきた。わしは英彦山で念力を得るため修験に励んできた。しかし、聞こえているのに聞き取れぬものがある」と胸中を明かしました。実はユキはキリシタンでした。その後、小次郎は今度は長岡式部に掛け合いました。長岡式部は沢村大学が旅から戻ったら話を取り次ぐとだけ答えました。
武蔵は書物を書き上げました。慧道は旧知の奈良・奥蔵院の槍術の使い手である十字槍の道栄(宗円章浩)と手合わせすることを勧めました。武蔵は道栄と手合わせし、あえて相手の懐に飛び込む大胆さを見せました。その手合わせを見た沢村大学は武蔵に小次郎との試合を持ち掛け、勝てば仕官の道を約束するとしました。
この頃、豊臣家は各地の寺社に寄進を行っており、京の方広寺の梵鐘も寄贈していました。大御所・徳川家康は二条城で19歳になった豊臣秀頼と対面し、その聡明さを危惧した家康は「秀でる者は世を乱す」と豊臣家を滅ぼす決意を固めました。板倉伊賀守も、沢村大学も、明らかに「秀でる者」である小次郎を危険視していました。
武蔵-むさし-の結末
武蔵は沢村大学への返答の書状を慧道に託しました。長岡式部も沢村大学も、今や小次郎に対抗できるのは武蔵しかいないと感じており、小次郎は負けた場合には小倉藩から去ってもらう意向を示しました。沢村大学は武蔵の二刀流と小次郎の秘剣・燕返しはほぼ互角とみており、雌雄を決するのはどちらかが自分の力量以上の技量を見せた時だと予測しました。
武蔵は二刀流に磨きをかけ、慧道に世話になったと伝えて決戦の地に向かいました。小次郎は燕返しに磨きをかけ、忠興に必ず勝つと宣言しました。長岡式部は所司代ひいては公儀の意向が示された以上、武蔵の勝利以外にはないと考えていました。清十郎も武蔵と小次郎の決着を確かめるべく、倫を伴って出発しました。
決闘の地は関門海峡に浮かぶ小島・舟島に決まりました。船島は細川家の小倉と毛利家の長州の中間地点にあり、両家の支配が行き届かぬ中立地帯でした。小次郎は一族の者数名を立ち会わせてほしいと懇願しましたが、沢村大学は武蔵は一人であり、小次郎ならば戦う場所など選ばぬはずだと一蹴しました。
忠興の命により、両者の決闘は非公開で行われることとなり、一般の者の観戦は固く禁じられました。立会人も小倉藩の者数名に限定されました。吟もユキも、清十郎も二人の対決を見ることは叶いませんでした。
決闘の日が近づき、小次郎は密かに舟島の下見に訪れました。武蔵も小次郎と入れ違いで舟島を訪れていました。帰宅した小次郎はユキに「わしが戦うのは武蔵だけではない」と告げ、自分はあくまでも細川家のため、民のために動いているのだと伝えました。ユキは小次郎はたった一人で戦わねばならぬのか問いました。小次郎は必勝祈願の祈祷を行い、武蔵は黙々と小舟の櫂を削り始めました。
そして慶長17年(1612年)4月13日、決闘の当日。白装束に身を包んだ小次郎はユキに十字架を渡して舟島に向かいました。武蔵も櫂で作った木刀を携えて出発しました。吟、そしてもはや遺恨のない清十郎が武蔵を見送り、必ず勝てと背中を押しました。
舟島では小次郎、立会人の長岡式部や沢村大学らが武蔵の到着を待っていました。小舟で舟島に辿り着いた武蔵は刀を抜き、小次郎も愛刀の長い野太刀を抜いて武蔵と対峙しました。互いに間合いを見計らったのち、武蔵は刀をしまうと櫂で作った木刀を手にしました。武蔵は小次郎の燕返しをかわすと、木刀を小次郎の脳天に直撃させました。武蔵は一礼し、まだ息のあった小次郎は小倉藩士にとどめを刺されました。小倉藩士たちは沢村大学の制止も聞かずに武蔵にも襲い掛かり、藩士たちを二刀流で切り捨てた武蔵は雄たけびをあげました。
長岡式部と沢村大学から報告を受けた板倉伊賀守は「都合よき成り行き」と語り、舟島の呼び名を“巌流島”と改めることにしました。板倉伊賀守は徳川と豊臣の最終決戦が近いことを予見しており、刀の時代は終わり、これからは武や力ではなく才智の時代であると告げました。その頃、武蔵はひとり洞窟で座禅を組んでいました。
以上、映画「武蔵-むさし-」のあらすじと結末でした。
この映画の感想を投稿する