劔岳 点の記(つるぎだけ てんのき)の紹介:2008年日本映画。この作品は、明治時代末期に日本地図を完成させるために、陸軍陸地測量部(現在の国土地理院)により実際に北アルプスの立山連峰で行われた山岳測量計画を、信念と勇気をもち多難な山岳測量に挑んだ男たちを描いた新田次郎の同名小説を原作とした感動のヒューマンドラマ映画です。第33回日本アカデミー賞最優秀監督賞、第52回ブルーリボン賞作品賞など多数の賞を受賞した作品でもあります。
監督:木村大作 出演:浅野忠信(柴崎芳太郎(陸軍参謀本部 陸地測量部測量手))、香川照之(宇治長次郎(測量隊案内人))、松田龍平(生田信(陸軍参謀本部 陸地測量部測夫))、宮崎あおい(柴崎葉津よ(柴崎芳太郎の妻))、小澤征悦(玉井要人(日本陸軍大尉))、石橋蓮司(岡田佐吉(立山温泉の宿の主人))、國村隼(矢口誠一郎(日本陸軍中佐))、役所広司(古田盛作(元陸軍参謀本部 陸地測量部測量手))、ほか
映画「劔岳 点の記」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「劔岳 点の記」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「劔岳 点の記」解説
この解説記事には映画「劔岳 点の記」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:1.プロローグ:“点の記”とは…
地図を作るときに基準となる場所に埋められた標石を三角点と言います。「点の記」とは、それを記録した日記です。三角点の距離・方位・高さを測量することで正確な地図を作ることができます。現在、その数は約10万6000箇所あります。その設置は全て、ただ地図を作るためだけに命をかけた測量士が先頭に立って道を開くことでなされました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:2.前人未踏の「劒岳」に初登頂せよ!
時は明治39年秋、日本は日露戦争で勝利を収めましたが、ロシアはフランスと手を組み、朝鮮半島への進行を画策していました。陸軍上層部は、このままでは日本にとって驚異が及びかねない事態となり、このような時期だからこそ、日本の国防のため、詳細な日本地図の完成が急務と判断しました。しかし、そのためには、最後の空白地点「越中劒岳(以下「剣岳」表記)」に初登頂し、三等三角網を完成させ、日本地図を完成させなければなりませんでした。陸軍省参謀本部の陸地測量部に赴いた陸地測量部所属測量手・柴崎芳太郎は、陸地測量部長・大久保徳明陸軍少将はじめとする陸地測量部上層部から、「陸軍の威信にかけて」前人未踏の「剣岳」に初登頂し三等三角網を完成させよとの至上命令を受けました。その頃、外国の山岳技術を取り入れ名誉と名声のための登頂を目的とした登山家集団「日本山岳会」の活躍が目立ってきていました。そのような素人集団に負けてはならない「失敗は許さん」と大久保陸軍少将は、柴崎に厳命しました。その日、奇しくも日本山岳会のリーダー・小島烏水も、前人未踏の剣岳の初登頂を目的に、陸地測量部の資料を調べに来ていました。柴崎はその日の夜、新婚の妻・葉津よに、立山連峰の剣岳に登るために22日間ほど家を空けるということを告げました。その翌日、柴崎は『二等三角點ノ記』の著者・古田盛作に会いに行き、立山連峰の剣岳に登ることを報告しました。古田は昔、陸地測量部の測量手で、今は隠居生活を送っていました。登頂には優秀な案内人が必要でした。古田は柴崎に、地元の山を知り尽くし山歩きの独特の勘を持つ優秀な案内人・宇治長次郎を紹介しました。古田は柴崎に「決して焦って無理をしてはいかん。あの山は生半可な覚悟では登れない山だよ」と忠告しました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:3.柴崎、立山連峰に下見へ行く
柴崎は、汽車で一路、富山県に旅立ちました。柴崎が富山駅に到着すると、宇治長次郎が独特の勘を働かせて顔を知らない柴崎を、迎えに来てくれていました。立山連峰の中でも最高峰・剣岳への登山であるため、柴崎は下見が必要であると考えました。冬山の危険性を知る長次郎は、礼儀正しく、謙虚な柴崎に改めて案内を頼まれ、案内する決心をしました。そして、長治郎は、立山連峰の自分のスケッチ画を、柴崎に下見の参考にと差し出しました。それはとても繊細にして美しく描かれていました。翌日、柴崎と長治郎は、立山山麓の集落・芦峅寺に行き、立山曼荼羅図を使って巡礼者たちに立山修験道を説く集落の総代・佐伯永丸に挨拶に行きました。柴崎は佐伯に、翌年の春、自分たち陸軍測量部が長治郎の案内で剣岳を登るための協力を求めました。佐伯は、昔からの慣習で長治郎の下で芦峅から人夫を出すことはできないが、資材の手配は出来るだけの協力はすることを約束してくれました。そのまま、長治郎の案内で、山に登った柴崎は、道中で自分の故郷・山形にもあるムシカリの赤い実を見つけました。二人は、多くの巡礼者にすれ違いながら、ひたすら登りました。二人は、室堂で天幕を張り、一泊することにしました。長次郎は山の幸で手早く美味しい“こけ汁”を作り、柴崎にふるまいました。長治郎は柴崎に、考えられる剣岳へ登る3つの道を教えました。一つ目は、雄山(立山)に登って、頂上から尾根伝いに剣沢へ降りて剣岳の東面から取りつく道、二つ目、剣御前へ登り、そこから尾根伝いに剣岳へ向かう道、三つ目は、室堂乗越を越え、剣岳から西へ張り出す尾根伝いに登る道でした。二人は、明日はとにかく剣沢に行き、そこから先は考えることにしました。翌朝、二人は室堂の日本海側から、太平洋側にある富士山を見ました。長治郎は登りながら、剣岳へのどの3つの道を選んでも、最終的には絶壁に阻まれる困難な道であると言いました。長次郎の案内で、さらに剣岳に近づいた柴崎は、そこで一人で念仏を唱える行者と出逢いました。剣岳は「死者の山」とも言われ、修行僧が登る山でもありました。長治郎は柴崎に、行者様は自分たちが知らないことを何でも知っていますと言うと、行者の方へ歩き、手を合わせてお辞儀をしました。柴崎は行者が念仏を唱える立山連峰を見て、「これは立山曼陀羅、そのものだな」と呟きました。その日、二人は、剣沢に天幕を張り、一泊しました。長治郎は、山で生きる自分に迷惑をかけていると謝る柴崎に、「わしは…山と共に生きてきました。…わしはこの山が好きなんです。…誰も行かなかったら道はできない。柴崎さんとわしらが登れば道はできます。剣岳は、きっと、いつか、誰かが登らないといけない山ではないでしょうか。わしは柴崎さんと同じ思いやと思っています」と語りました。次の日、二人は草鞋にアイゼンを付けて雪渓を登りましたが、冬の剣岳は厳しく、落石や落盤も起こりました。三ノ沢の雪渓に辿り着いた長治郎は柴崎に、芦峅の案内人からこの三ノ沢を登るのは足下に雪の割れ目(クレバス)がどこにあるか分からないため無理だと言われたこと、また、仮に三ノ沢を登れたとしても、これよりも急な雪面であり、その先は岸壁で人が近づけるかどうか分からないことを告げました。長治郎の案内で道無き道を登り、柴崎は長治郎が一番好きな場所に案内されました。柴崎はそこで「私がやっていることがちっぽけに思えてきます。古田さんも言っていました。悠久の自然。儚い人生」と長治郎に言いました。長治郎は柴崎に「人は寂しさに耐えながら生きているからな。何であれ、山に登ることは気持ちがいい」と答えました。立山連峰の下見に入って7日目、10月3日、柴崎は、初めて自然の美しさは厳しさの中にしかないことを思い知らされ、自分たちの来年の測量はどうなっていくのか、不安になってきました。長治郎の案内で、柴崎は剣岳の岸壁まで辿り着きました。長治郎の話ではこの先は誰も行ったことがないとのことでした。しかし、長治郎は草鞋を脱いで裸足になると、この絶壁の向こうを見てくると柴崎に言うと、軽々と登っていきました。柴崎は一人、長治郎の帰りを待っている間、測量のための機材をこの上まで上げることは非常に困難であろうと考えていました。ほどなくすると、長治郎が戻ってきました。やはり難しい絶壁が続いていたようでした。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:4.「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」
二人はその日、天幕を張っていた場所に戻ると、二人の青年が見慣れない天幕を張っていました。二人は「日本山岳会」の小島烏水と岡野金次郎でした。二人は剣岳登頂の下見のために3日前から来ていたそうでした。長治郎は、小島と岡野に会釈すると、食事の支度に行きました。小島は柴崎に、最新の外国製の自分たちの装備を見せました。それは柴崎も初めて見る優れたものでした。岡野は、通信手段の手旗信号を「口の聞きたくない相手にも使えますから、便利ですね」と柴崎に言いました。小島は柴崎から下見の情報を聞き出そうとしましたが、柴崎は「剣岳を登るのは余りにも危険な“遊び”だと思います」と答えると、岡野はその「遊び」という言葉に憤りを覚えたようでした。小島は柴崎に「人から見れば、私たちのしていることは“遊び”に見えるかもしれません。柴崎さん、私たちはあなた方より先に剣岳に登りますよ」とライバル心を表してきました。立山連峰の冬の訪れは予想よりも早かったので、柴崎は長治郎と、剣岳の登り口を発見できないまま、山を下り始めました。その途中、猛烈な風雪に遭いました。長治郎は「このままだと、雪に閉じ込められてしまう」と言って、洞穴で念仏を唱える行者を助けに行きました。行者は二人に「剣岳に登るのか?…“雪を背負って登り、雪を背負って降りよ”…生涯、修行を重ねてきた者に言い伝えられる言葉だ」と言うと、念仏を唱えながら、倒れてしまいました。風雪の中、長治郎は柴崎の荷物を持ち、柴崎が行者を背負って下山しました。行者は柴崎に「雪を背負って降りよ。剣岳の真に開山すれば、山は神となり、仏となる」と呟きました。下山し、宿に着いた二人を、行者が呼びました。行者は「なぜ助けた?」と二人に訊きました。柴崎は「あのままいれば、助からないと思いました」と答えました。行者は柴崎に「なぜ、そう決めつける。どんなことでも成せば成る。自信を持つことだ」と諭しました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:5.「登れるか、登れないかは、登ってみなければわからない」
翌日、柴崎は長次郎と、来年の春に再会する約束して、汽車に乗り、東京に戻りました。柴崎は、陸地測量部上層部に「登れるか、登れないかは、登ってみなければわからない」とありのまま感じた事実を報告書にまとめて提出しました。それを読んだ上層部は憤り、柴崎を叱咤しました。そして、上層部は、富山日報の記者・牛山明の「前人未踏の越中劒岳 陥落せしむるは陸軍か山岳会か」という見出しの記事を持ち出し、柴崎に「選択の余地はない。何としても初登頂するんだ」と改めて厳命しました。柴崎は古田の「君はあくまでも測量士という身分であるから、軍の命令を必ずしも聞く必要はない。断る勇気が必要なときもある」という言葉を思い出しながら、彼の所に行きました。古田は柴崎に「そう簡単に登頂路が発見できるものなら、とっくに私が登っているよ。…来年はなるべく早く、なるべく接近して観察することだ。そのうち、相手は隙を見せることだろう」とアドバイスをしてくれました。その頃、長治郎は来年春に剣岳を登るための草鞋をせっせと編んでいました。その様子を見ていた妻・佐和は彼に「なんだか楽しそうやね」と声をかけました。明治40年4月、桜の花が満開の頃、柴崎は陸地測量部の部屋で、機材の点検・準備をしていました。すると、陸軍測夫でも経験豊かで測量隊の精神的な支柱となる木山竹吉と、まだ若くて山の経験は浅そうですが新婚で血気盛んな生田信がやってきました。今回の剣岳の登頂はこの二人が同道することになりました。柴崎は家で、妻・葉津よの手を借りながら、荷物の準備と整理をしていました。葉津よは夫・柴崎のためにもっと準備を手伝いましょうかと言うと、柴崎は「あとは自分でやるよ。何がどこに入っているかわからないと、いざというとき、困るから」と答えました。葉津よは、夫の「いざというとき」と言う言葉に心配になりましたが、柴崎のリュックサックに密かにお守りを忍ばせました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:6.陸地測量部、いざ、出発!
柴崎、木山、生田たち陸地測量部は、富山県立山連峰に行きました。木山は、まず現地の人夫たちに地図を作るために必要なこと、今回の登山ではより精度の高い地図を作るために三角点を合計27か所に作る予定であることを説明しました。今回、荷物持ちの人夫は、宮本金作、岩本鶴次郎、山口久右衛門の3人でした。人夫たちは重く大きな荷物を持たされるので、日当の安さに愚痴をこぼしましたが、長治郎の一喝でその場は収まりました。いよいよ、陸地測量部の登山隊が出発しました。長治郎に柴崎は日当が安いことを謝りましたが、長治郎はそんなことはないと柴崎に気にしないように言いました。すると、長治郎の息子・幸助が突然現れ、父・長治郎に「剣岳に登るのか?あの山は登ったらダメや!」と諫めました。長治郎は、剣岳を登ることは掟破りと考える孝助にビンタをして、「わしは、山に登りたいという人を、登らせたいだけや!」と言い聞かせました。その様子を間近に見た柴崎は「やはり、無理なお願いをしているのでは…」と長治郎に言いましたが、長治郎は孝助を見て「いや。…こいつはこいつで生きていかないといけないんです」と答えると、柴崎を案内して行きました。4月と言っても、立山連峰には雪が残り、途中、吹雪にも見舞われ、厳しい登山でした。測量部の仕事は登ってから、命よりも大切な三等経緯儀を用いて、その地点を測量することが仕事でした。測量1日目が終わったその夜、天幕の中で、血気にはやる生田は、「明日、剣岳やっちゃいませんか。山岳会が来る前に」と柴崎に迫りました。柴崎はそんな生田に「俺たちの仕事は剣岳に登ることだけじゃないんだ」と諭しましたが、生田はブツクサと文句を言い始めました。柴崎は生田に「大人しくしてろ!」と一喝すると、ひとり大声で山男の歌を歌い始めました。天幕の外で食事を摂りながら、日当の安さに文句を言っていた人夫たちも、その歌声を聞き、文句を言うことを止めました。測量隊は、聞こえてくるのは自分たちの足音と雪面を渡る風の音だけの吹雪の中、進み続けました。柴崎は「ひれ伏してしまうほどの自然の厳しさと美しさの中で、生かされている自分たちを実感」していました。そして彼は「今まで人を拒み続けていた剣岳の登り口を、我々がどうやって探すべきだろう。必ずあるはずだ」と考えていました。測量隊は馬場島平に天幕場を設置し、沢に沿って行って、左から剣岳の稜線を探ることにしました。剣沢一帯の地理に詳しい鶴次郎の案内で測量隊は、雪面を慎重に歩いていました。血気にはやる生田は、思わずその歩調の遅さに苛立ち、「もっと速く歩けないのか」と言ってしまいました。その時、突然、測量隊を雪崩が襲ってきました。何とか全員無事でしたが、生田は三等経緯儀を抱えたまま埋もれ、一行は剣岳への登頂の厳しさを痛感したのでした。天幕場に帰った柴崎は、命がけで手伝ってくれている人夫たちに、労いの気持ちで牛肉の佃煮の缶詰を差し入れました。その夜、柴崎は馬場島平からの道は無理と判断し、室堂に戻ることにしました。そして、彼は木山には立山温泉に戻って、資材や人夫集めの見当がつかないので、それを指示、確認して来てほしいと頼みました。木山は若い生田を心配しましたが、生田はやる気満々でした。馬場島から室堂に移るにしても、厳しい自然が測量隊に試練を与えてきました。その厳しさにただひたすら耐えながら、目的地に進み、黙々と測量をする日が続きました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:7.日本山岳会、登場!
日本山岳会が立山剣岳の登頂のために、やって来ました。小島のもとに、富山日報記者の牛山が「ずいぶんのんびりと登場ですね」と取材に来ました。牛山は単刀直入に小島に「測量部が勝つとみんな噂してます。勝算はあるんですか」と尋ねてきました。小島は「勝算があるから来ているんですよ」と自信たっぷりに答えました。その頃、測量隊は長治郎の案内で、鷲岳に向かっていました。柴崎は、そこで人夫たちに立山温泉に戻ってもらって、木山と合流して、三角点の道標作りを手伝うように指示しました。また、彼らにここに天幕を張っておいてほしいと頼みました。人夫たちは柴崎の指示通りに動きました。柴崎、長治郎、生田の3人だけで、鷲岳で測量を終えた後、下山途中で猛烈な吹雪でホワイトアウト状態になり、長治郎は来た足跡を見失ってしまいました。長治郎は、柴崎と生田を待たせると、一人、路を探しに行きました。すると長治郎は雷鳥の鳴き声を聞き、方角が分かり、待たせていた柴崎と生田を天幕場まで案内しました。その夜、長治郎曰く「季節の変わり目の雨」でした。それは天幕を吹き飛ばすほどの風雨でした。長治郎は、柴崎と生田を天幕の中にいるように指示すると、「このままでは天幕ごと吹き飛ばされる。支柱をはずそう」と言って、支柱を外して天幕の下で何とか難を逃れました。この雨には、立山温泉にいた木山たちも遭っていました。木山たちと人夫たちは、翌日、柴崎たち3人を助けるために、天幕場にやって来ました。そして、彼らを救出すると、立山温泉に運びました。生田は帳簿を大切に油紙でくるみ、抱きかかえて守っていました。そのお陰で帳簿は大丈夫でした。柴崎の目が覚めると、長治郎がいました。横には生田が寝ていました。生田は少し熱を出していました。柴崎は枕元にお守りを見つけ、妻の葉津よがこっそりと入れたものだと気がつきました。一方、日本山岳会も剣岳を目指して、登り始めていました。途中、馬場島の測量隊のたき火の後を小島たちは見つけました。ここからは測量隊は登ることを諦めたと知り、岡野らは「我々がやってやろうじゃないか」と意気込みましたが、リーダーの小島は、室堂に行き剣御前の尾根を狙うルートをとることにしました。馬場島から室堂に行く途中で、彼らは2人のマタギに遭いました。マタギたちは「無理じゃ」と呟くと、自分たちの仕事をしました。そのマタギたちから山岳会のことを聞いた長治郎は、柴崎に「剣岳はいつ登りますか」と尋ねました。柴崎は「我々は作業を進めるだけです。…剣岳は今までの山と全く経験が違う」と答えました。資材の準備は整っていました。しかし、柴崎は、想定外の厳しい自然を相手にして、「どうして山に登るのか」また「地図を作る意味を考えさせられています」という正直な思いを、先輩の古田宛に手紙にしたためて出しました。また、妻の葉津よにも近況の報告の手紙を出しました。その頃、葉津よは、案内人の長治郎の妻・佐和宛にお礼と感謝の意味を込めて手紙を出しました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:8.測量隊、剣岳への挑戦
6月16日、柴崎たち測量隊は、ようやく新川郡立山村奥大日岳に1つ目の三角点の設置をしました。その頃、日本山岳会は室堂から剣岳の尾根を狙うルートを選びましたが、絶壁に阻まれて、剣沢に引き戻すことにしました。下山途中、山岳会は、測量部が剣沢から登っている姿を見つけました。山岳会は、測量部に手旗信号で「ここからは危険。本日は下山する」という報告をしました。その日、奇しくも測量隊と山岳会は、剣沢で天幕場を同じくしました。小島は「ただ地図を作るためだけに…いや、人にはそれぞれの生き方がある。その人の目指すもの次第だ。私は挑戦する心に勝るものはないと思っている」と山を見つめながら思いました。柴崎は剣岳を狙う決意をし、長治郎に「秋に行った岸壁にもう一度、行ってみましょう」と言いました。長治郎は苦い顔をしましたが、生田も「やってみなければ、いつまで経っても登れないですか」と言う言葉に押され、案内をしました。険しい雪の絶壁を登り、ようやく岸壁に辿り着きました。長治郎は天候、鳥の飛ぶ様子などを見て「やはり、ここは危険です。急に天気も悪くなりましたし…」と柴崎に注意をしましたが、生田は柴崎に「やらせてください」と進言しました。柴崎は生田の度胸を認め、登らせました。命綱をしっかり腰に巻いた生田は、岸壁を登り始めましたが、途中で足を踏み外し、命綱も岸壁の鋭い岩で切れて、下まで落ちてしまいました。それを見た人夫・久右衛門はすぐさま、生田の救出に向かいました。生田は幸いにも、右足の捻挫という軽傷で済みました。6月28日、測量隊は、右足を負傷した生田を連れ、立山温泉に下山するしかありませんでした。心配して駆けつけていた三角科班長・玉井に、柴崎は自分の判断ミスを謝りました。玉井は改めて「軍としても、私自身も、お前に登頂してほしいと思っている」と告げました。富山日報の牛山記者は、測量隊と山岳会の競争を煽るように、木山は「測量隊がここにいるということは、山岳会のほうが剣岳に近いということですか。山岳会は今、どの辺ですか」と取材にきました。木山はそんな牛島に「そんなに知りたければ、自分の目で確かめろ」と一喝しました。その頃、山岳会も剣岳を前にして、仲間の吉田が膝の古傷の痛みで登るのが困難になり、また登頂路が見つからず、苦戦を強いられていました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:9.柴崎、登頂ルートを定める
測量隊は、負傷した生田だけを残し、先に資材などを持ち室堂まで登り、生田の到着を待つことにしました。足の怪我も治った生田が、立山温泉を出立するとき、長治郎の息子・幸助がやって来ました。幸助は差し入れのふかし芋と父への手紙を、生田に預け立ち去りました。生田は測量隊の天幕場に到着すると、自分に娘ができたことを報告しました。みんな、自分のことのように喜びました。生田は、木山宛の妻からの手紙、柴崎宛の古田さんからの手紙、そして、長治郎宛の幸助からの手紙を渡しました。7月2日、測量隊が奥大日岳の三角点を剣御前から観測していると、山岳会がやって来ました。小島は柴崎に「私たちの山登りはやはり、ただの遊びなのかもしれませんね。我々は登ること自体が目的だが、あなた方は山に登ってからが本当の仕事だ」と言いました。そんな小島に、柴崎は「小島さんは何で山に登るのですか」と訊くと、困惑した小島は、逆に同じ問いを柴崎にしました。柴崎は古田からの手紙の言葉を思い出しましたが、小島にはそれはまだ告げませんでした。柴崎が思いだした古田からの手紙の言葉、それは「改めて地図を作るということが、どういうことか考えてみました。人は誰もが生まれた場所、生きている場所が、日本の中で、あるいは世界の中で、どんな所に位置しているのか知りたいのではないでしょうか。それは自分自身が何者であるのかを、知ることに繋がるからです。地図とは国家のためではなく、そこに生きている人たちのために必要とされているのではないでしょうか。人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事です。悔いなくやり遂げることが大事だと思います」というものでした。柴崎はその言葉を胸に刻み込みました。長治郎は皆が寝静まった夜、一人、息子・幸助からの手紙を読みました。そこには、幸助がまだ幼い頃、長治郎に連れられ雄山に登ったときのことが書かれていました。幸助は「道中、父ちゃんの背中だけを見て…苦しかったが、やっと頂上に近づいたとき、父ちゃんが先に行けと言って、わしが頂上に立って振り返って、父ちゃんの顔を見たとき、笑っていたように見えた。今回、わしを殴って山に入る父ちゃんの背中は、あの時の背中と同じやった。あの時、わしに言いたかったこと、辛いこと、苦しいこと、悲しいことを乗り越えて、喜びを味あうんやね。…今は測量部と無事登ることを祈っている」と書いていました。長治郎は涙しながら、それを読みました。長治郎は柴崎と剣岳を見ながら、「倅がどんなことがあっても登れと。…柴崎さん、あなたも同じことを考えてましたね。あの雪渓…」と言うと、柴崎は行者から聞いた「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」を考え、雪渓を登っていくルートで剣岳登頂を目指すことを決意しました。
劔岳 点の記のネタバレあらすじ:10.明治40年7月13日、測量隊、剣岳に登頂!
測量隊は、人夫の宮本と岩本を2人、天幕場に残して、三ノ沢から雪渓を登って剣岳登頂に挑んでいきました。山岳会のメンバーはそれを知り口々に危険、無理と言いましたが、小島だけは「そんなことは彼らだって分かっているさ。人が自然を相手にするときには、自然に対する勘が必要なんだよ」と言いました。測量隊は、長治郎の今の三ノ沢には割れ目はないという勘のもと、雪渓を登りました。長治郎を先頭に、測量隊は一歩一歩、剣岳に近づいていきました。雪渓を登りきると、問題の岸壁にぶち当たりました。長治郎は全員の腰に命綱をつけて、岸壁を無事、全員登らせることに成功しました。そして、あともう少しで剣岳の頂上の所で、長治郎は「ここまで来れば」と腰のロープを外し、柴崎に先頭を譲ろうとしました。柴崎はそんな長治郎に「私はあなたの案内でなければ、頂上へは行きません。…我々はもう立派な仲間です。私はあなたがいなければ、ここまで来れなかった。この先も仲間と一緒でなければ、意味がないんですよ。長治郎さん、最後まで案内お願いします」と言いました。長治郎が他の仲間を見ると、みんな、柴崎と同じ気持ちであるようでした。長治郎は遠慮がちに腰に再びロープを巻くと、頂上目指して、測量隊を案内しました。測量隊はついに剣岳登頂に成功しました。明治40年7月13日、剣岳の頂上に柴崎たち陸軍陸地測量部が到達し、27番目の四等三角点を建てました。それは、絶壁のために標石ではなく、「景 第二十七號 四等三角點」と記した木の棒でした。ちょうどそれを建て終わったとき、長次郎が岩の間の苔の上に、修験者の錫杖を見つけました。剣岳は「前人未踏」と言われていましたが、そうではなく、誰か修験者が先に登頂していたのでした。
劔岳 点の記の結末「あなたたちは、私たちのかけがえのない仲間です」
柴崎からこの剣岳登頂の急伝を読んだ陸軍上層部は、「これでは何の意味もない!柴崎たちは初登頂ではなかったということだ」「軍にとっては何の役にも立たない」と言い、柴崎たち測量隊の功績に対して否定的評価を下しました。この事は、柴崎に急伝で耳に入りました。柴崎は7月24日付の富山日報で「初登頂ではなかった測量隊」という見出しで「四等三角点では記録に残らず」と、緑青色の修験者の錫杖の頭のことが記事になりました。また、その後の錫杖の鑑定で、「剣岳初登頂は千年前」という記事が全国紙にも載りました。古田、そして妻・葉津よもこの記事を目にしましたが、柴崎の「人は何をしたかではなく。何のためにしたかが大事なんだ」と言う言葉を思い出していました。富山日報の牛山記者から、柴崎は行者が亡くなったことを知りました。行者は最期に「あの者たちは剣岳に登れたのか」と言い残したそうでした。それを聞いた柴崎の心に、「何ものにも囚われず、何ものも恐れず、心のままに」という行者の言葉が蘇ってきました。遅れて8月3日、測量隊が別山から剣岳を測量していると、日本山岳会が剣岳に登頂した姿を目にしました。小島と柴崎は、遠く離れた向かいの山頂でお互いを見つけました。日本山岳会の小島は陸地測量部に手旗信号で「剣岳、初登頂おめでとうございます。この歴史的登頂は、日本登山史に後世まで語り継がれるでしょう。生田信、木山竹吉、宮本金作、岩本鶴次郎、山口久右衛門、宇治長次郎、柴崎芳太郎。剣岳を開山したのは、あなた方です。ただ地図を作るためだけに、自らの仕事を成し遂げられたことを、心より尊敬します」と送りました。それを見た生田は、日本山岳会に手旗信号で、「剣岳、登頂成功おめでとうございます。小島烏水と山岳会のみなさんの栄誉を讃えます。あなたたちは、私たちのかけがえのない仲間です」と返しました。長治郎は山岳会に笑顔で軽く会釈しました。
劔岳 点の記:12.エピローグ:“点の記”とは…
柴崎芳太郎はじめ、多くの名もなき仲間たちの点の記によって、日本地図は作り上げられました。それは彼らを支え続けた家族たちの記録でもあるのでした。
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