美女と液体人間の紹介:1958年日本映画。本作を遡ること4年前(1954)に映画『ゴジラ』を誕生させた男たち。製作・田中友幸、監督・本多猪四郎、特技・円谷英二の特撮映画トリオが世に送りだしたキワモノ作品です。公開時、プログラムピクチャーとして、子供から大人まで幅広い年齢層に映画館へ足を運んでもらえるよう工夫が凝らされています。子供たちは液体人間の登場に、大人は美人でグラマラスな白川由美の姿態に胸をワクワクさせたことでしょう。共に見せ場を設け、東宝エンターティメントの底力を見せつけます。
監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二 出演者:白川由美(新井千加子)、佐原健二(政田)、平田昭彦(富永捜査一課長)、佐藤允(内田)、小沢栄太郎(宮下刑事部長)、千田是也(真木博士)ほか
映画「美女と液体人間」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「美女と液体人間」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
美女と液体人間の予告編 動画
映画「美女と液体人間」解説
この解説記事には映画「美女と液体人間」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
美女と液体人間のネタバレあらすじ:起
本当に恐ろしい事件でした。液体人間は、床や壁、道路を、どこからともなく這ってきて、突然人間を襲います。ゼリー状の液体がじわりじわり、足元からまといつくと、襲われた人の身体は瞬く間に溶けてしまいます。あとに残るのは、衣服や靴、装身具だけでした。
激しい雨が降る夜に都心で起きたできごとです。ギャング団のひとりが液体人間に襲われます。走行中のタクシーの運転手が男を目撃していました。しかし気が付くと、男の姿はなく、男のものと思われる衣服と遺留品だけが雨に叩きつけられていました。男は身ぐるみ捨てて立ち去ったのでしょうか。寒い晩でした。そんなわけはありません。
消えた男を追って警視庁の刑事たちが動きはじめました。バー「ホムラ」の専属歌手、新井千加子(白川由美)は消えた男の情婦です。警視庁の富永課長(平田昭彦)以下捜査一課の刑事たちは、千加子の身辺から男のゆくえをつかもうとします。
しかし、男はまるで透明人間にでもなったかのように行方が知れなくなりました。そこへ割って入ってきたのが、城東大学で生物化学を研究している政田(佐原健二)という男でした。政田は新聞報道で事件を知ると、液体人間の存在を立証する絶好の機会だと踏んで新井千加子に近づいてきました。
美女と液体人間のネタバレあらすじ:承
政田が男の失踪と関連づけたのは、第二竜神丸事件でした。漁に出ていた船の乗組員が、ある夜、太平洋上で幽霊船に遭遇します。船内を捜索しますが、(人の気配は感じるものの)人影が見あたりません。操舵室、船員の控室、船長室に、それぞれ脱ぎ置かれた着衣がへばりついていました。
第二竜神丸にその夜、捜索に行った乗組員のある者は帰らず、船には戻ったものの、帰港した乗組員は、その後重い原爆病に苦しめられています。政田は、船員たちの証言と事件報道との奇妙な一致に興味を抱いたのでした。
政田が所属する城東大学の研究室では、密閉された空間内で強い放射能を浴びたカエルが液状化する現象が確認されていました。その液体を別のカエルに注ぐと、液体を浴びたカエルは、また見る見るうちに液状化する現象も確認されています。
美女と液体人間のネタバレあらすじ:転
歌手の新井千加子が勤めるバー「ホムラ」は、東京の東の突端に位置する築地町にありました。警視庁の富永は、このバー「ホムラ」を舞台にギャング団一味が麻薬の売買に暗躍していることを突きとめます。バー「ホムラ」を刑事と警官が一斉に包囲した日でした。あたかもその日を待っていたかのように、液体人間が海から陸へ這い上がってきました。
ゼリー状の液体人間は、バー「ホムラ」目がけて道路を一直線に進んできます。検挙の手を逃れようと外に出たギャングのひとりが、まずは襲われます。実験室で見たカエルのように、容赦なく溶け、液体人間とギャングは同化してしまいました。さらに楽屋から化粧室、廊下へと進み、傍らにいる者たちをのべつ呑みこんでいきました。
新井千加子は液体人間から逃れますが、ギャング団の幹部、内田に人質として捕えられてしまいます。内田に腕をつかまれた千加子は、地下の下水道へ連れこまれ、逃走の盾にされます。しかも液体人間がバー「ホムラ」から地下水道へ入りこんで都心へ向かおうとしています。
美女と液体人間の結末
警視庁では、緊急事態と化した東京を救うため、作戦会議の最中にありました。地下水道に紛れこんだ液体人間をどのように処分するか。地下水道にガソリンを流しこみ、火炎放射器で火を点けて焼き殺すという作戦です。
しかし、地下水道には内田と千加子がいます。千加子の前に炎が拡がってきました。美しい千加子も、穢らわしい内田も、液体人間と一緒に焼かれてしまうのでしょうか。そこへ千加子のゆくえを探して政田が現われます。ギャングの内田は液体人間の餌食になりました。千加子と政田は命からがら逃げだします。炎に包まれた液体人間は死に絶えます。
こうして東京は、液体人間の襲撃から回避され、千加子と政田も警視庁の富永に助けられました。第二竜神丸は、大国が行った水爆実験の日、近くの海を航行していたことが分かっています。死の灰(放射能)を浴びたあと、乗組員を失った船は、まさに幽霊船となって洋上を漂流し続けていたのでした。
城東大学の真木博士は説明します。「第二竜神丸の乗組員は全員液状化しましたが、各員の意識だけはそのまま液体にとどまったものと推測されます」と。すると、液体人間は、悪を懲らしめるために、わざわざ日本へ帰国の途に就いてくれたのかもしれません。
以上、映画「美女と液体人間」のあらすじと結末でした。
「理屈抜きで楽しめる醍醐味」こそが娯楽映画の真骨頂であるとすれば、「東宝の特撮」シリーズや「新東宝のエログロ」路線は、まさに「娯楽映画の王者」なのかも知れない。 「美女と液体人間」もこのカテゴリーの中心に位置するとても「貴重な作品」である。 この映画は「暗黒街のギャング」が跋扈する「フィルムノワール」であり、「犯罪者やヤクザ」がしのぎを削る「クライムサスペンス」であり、「美女が度々登場」する「ユニークな特撮映画」でもある。 それで余りにも「欲張りすぎて消化不良」になったのが勿体なかった。 但しこの年代の映画を語る時「作品の完成度や品位」などに過度に拘る必要はない。 それよりも、「ユニーク」とか「オリジナリティ」などの「先鋭的で斬新」なアイデアを評価すべきなのである。 前述した通りの消化不良で「ところどころ」「デコボコ」があったり、「ポンコツ」であったりもするが、それも「またヨシ」なのである。 何と言っても私は 誰よりも「この映画を愛している」からだ。 第一に「美女と液体人間」と言う題名からして、最高に「魅惑的」で「官能的」(セクシー)で「扇情的」(エロティック)である。 そもそもこんな「珍妙な」題名の映画は なかなか見当たらない。 如何にも昭和中期(20年代~30年代)の「見世物小屋」の雰囲気「匂いがぷんぷん」とする。 「熟した果実と蒸れた肉塊」は「デカダンス」(背徳と耽美)の「毒の臭気」を撒き散らす。 そういった「危険にして」どこかしら「退廃的で不道徳な香り」がこの作品の最大の魅力なのだ。 液体に触れたり、それがかかったりすると、人間が溶けて 「跡形もなく消えて」しまう。 雨が降りしきる「暗闇の路上で」「女の安アパートの一室で」そして「キャバレーの控室」でも。 あちらこちらで次々と「人間が溶けて」なくなる。 これはまるで「伝染病のパンデミック」と同じ構図だ。 「だから今でも怖い」のだ。 なので、この映画の封切り当時に見た客は「マジで怖かった」はずだ。 このグロテスクな「おどろおどろしさ」と、「美女の蠱惑的な衣装/ダンス」の 対比:コントラストが「サイコー」なのである。 それにしても「白川由美」の堂々たる容姿と「その美貌はまさに白眉」である。 白川はかつて「和製グレース・ケリー」と言われたが、彼女こそは「エヴァ・ガードナーにも匹敵」する「ノーブルでエレガント」な「美女中の美女」である。 そしてキャバレーでジャズバラードを唄っているのは、ジャズシンガーの「マーサ三宅」が吹き替えをしている。 マーサ三宅のまとわりつくような「セクシーヴォイスも絶品」であった。 そういえば「鈴木清順」が撮った「日活のギャング映画」でも、キャバレーで「半裸の女性が踊るシーン」はよくあった。 この頃のカラーの「色彩感と構図」を含めた映像美が「ノスタルジックな快感」を呼び起こすのである。 クライマックスの下水道での「スペクタクル」も良かったが、白川由美が口を真一文字に結んで、あだっぽい眼で睨む「取調べの方が」そそられた。 やっぱり「美女と液体人間」は、「倒錯したエロティシズム」が漂う大人のための特撮映画なのである。