さすらいのカウボーイの紹介:1971年アメリカ映画。『イージー・ライダー』(1969年)で世界的な名声を得たピーター・フォンダの監督デビュー作であり、フォンダ自ら主演も務めた西部劇です。7年間の放浪生活を終え、妻子の待つ家へと戻った主人公でしたが、仲間が悪党とのいざこざに巻き込まれたことにより大きく運命を揺るがされることに…。
監督:ピーター・フォンダ 出演者:ピーター・フォンダ(ハリー・コリングス)、ウォーレン・オーツ(アーチ・ハリス)、ヴァーナ・ブルーム(ハンナ・コリングス)、ロバート・プラット(ダン・グリフェン)、スヴァーン・ダーデン(マクヴェイ)、リタ・ロジャース(メキシコ人の女)、アン・ドラン(ソレンソン夫人)、テッド・マークランド(ルーク)、オーウェン・オア(メイス)、アル・ホプソン(バーテンダー)、メーガン・デンバー(ジェイニー・コリングス)、マイケル・マクルーア(エド・プラマー)、グレイ・ジョンソン(ウィル)ほか
映画「さすらいのカウボーイ」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「さすらいのカウボーイ」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
さすらいのカウボーイの予告編 動画
映画「さすらいのカウボーイ」解説
この解説記事には映画「さすらいのカウボーイ」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
さすらいのカウボーイのネタバレあらすじ:起
西部開拓時代のアメリカ。ハリー・コリングス(ピーター・フォンダ)が妻ハンナ(ヴァーナ・ブルーム)と、まだ幼い娘ジェイニー(メーガン・デンバー)を残し、放浪の旅に出てから既に7年の月日が流れていました。
ハリーと相棒のアーチ・ハリス(ウォーレン・オーツ)、まだ若いダン・グリフェン(ロバート・プラット)の三人はトリオを組み、夢と希望の土地カリフォルニアを目指して旅を続けていました。
そんなある日、ハリーたちはデル・ノルテという寂れた町に流れつきました。ハリーたちはこの町で馬の蹄鉄を手入れするために鍛冶屋を探しましたが、町のどこにもなかったため、仕方なく酒場へ行くことにしました。この町は悪党のマクヴェイ(スヴァーン・ダーデン)が牛耳っており、町の男たちはマクヴェイの貢ぎ物にとダンの馬に目をつけました。
ハリーたち三人は安物の酒を飲みながらカリフォルニアでの新たな生活について語り合っていましたが、この放浪生活に何の意味もなかったことに気付いたハリーは、突然妻子の元に戻ると言い出しました。
まだ旅を続けたいダンはハリーの意向に納得できなかったものの、ハリーとは長い付き合いであるアーチはハリーの気持ちに理解を示しました。それでもどうしても海を見たいというアーチは引き続きダンと二人で旅を続けることにしました。
ところがその夜、ダンは酒を買い出しに行ったっきり中々戻ってこないため、ハリーとアーチはダンを探しに酒場へと向かいました。すると、酒場の外で銃声が聞こえ、首を撃たれたダンが酒場に入ってきました。
その場に倒れたダンはそのまま息を引き取り、程なくして現れたマグヴェイはダンが妻(リタ・ロジャース)に手を出したので撃ったと証言しました。メキシコ出身の妻は英語を話せず、ハリーとアーチはマグヴェイの言い分を信じるほかありませんでした。
さすらいのカウボーイのネタバレあらすじ:承
ダンの埋葬を済ませたハリーとアーチは、翌朝にマグヴェイの家に向かいました。ハリーとアーチは実はマグヴェイの言い分をはなから信用しておらず、マグヴェイの家には奪われたダンの馬がありました。ハリーとアーチはダンの馬を取り戻し、眠っていたマグヴェイの足を撃って逃走しました。
旅の途中、アーチもハリーの家に行くことを決心しました。ハリーはアーチに妻ハンナのことを語り、ハンナと一緒に過ごしたのはわずか1年9ヶ月しかなく、自分はハンナよりも10歳ほど若かったがために別れたことを打ち明けました。
ハリーとアーチは長旅の末に、ようやくハンナの営む小さな農場に辿り着きました。ハリーはハンナと再会を果たし、成長した娘ジェイニーを見つめました。なぜ戻ってきたのかと問うハンナに、ハリーは人生に疲れたからだと答えました。
ハンナはジェイニーには「ハリーは既に死んだ」と言い聞かせており、ハリーに戻る資格はないと言い放ちました。それでもハリーは使用人として働くから家においてほしいと訴え、ハンナは仕方なくハリーとアーチに寝床を提供して雇い入れることにしました。
翌日からハリーとアーチは農場で働き始めました。二人の働きぶりを見守っていたハンナでしたが、その時はハリーはどうせまた放浪の旅に出るだろうと思い込んでいました。アーチはそんなハンナを「物事は変わるもんだ」と諭しました。
ある日のこと、ハリーとアーチは町に買い出しに出かけました。ハリーが買い物に行っている間、アーチは近くの酒場で酒を飲み、店主に自分は今ハンナの農場で働いていると伝えました。すると、酒場にいたエド・プラマー(マイケル・マクルーア)がアーチに絡んできて、ハンナは雇った使用人と寝ていることを告げられました。
アーチはエドを相手にせずに酒場を後にしましたが、エドはなおもアーチに絡んできたので、ハリーに噂を知られたくないアーチはエドを痛めつけました。
帰り道、ハリーはアーチにエドを殴った理由を尋ね、アーチは仕方なくエドが話した噂話の件を伝えました。アーチはハリーにはハンナに真相を問い質す権利はないと告げましたが、ハリーはハンナと二人きりになった際に真相を訊いてみました。
ハンナは寂しさを紛らわすために何人かの使用人と寝たことを認め、彼女の心情を思いやったハリーはそれ以上の詮索はやめることにしました。
さすらいのカウボーイのネタバレあらすじ:転
翌朝、ハリーは一人で町に向かい、街中に「死んだと思われたハリーが戻った。今後使用人は雇わない」と書いた張り紙を貼っていきました。一方のハンナは張り紙を見たという地元住民から声をかけられ、初めてハリーの貼った張り紙の存在に気付きました。
その夜、ハンナはアーチと二人きりで話し合い、ハリーがいよいよこの地に落ち着こうとしていることについて意見を求めました。アーチはハリーに留まってほしいのならば本人にそのことを伝えて、自分自身にも言い聞かせるべきだとアドバイスすると、自分はこの農場を離れて再びカリフォルニアへ旅立とうと考えていることを伝えました。
アーチはその後もしばらくハリーと共に働いていましたが、ある日アーチはハリーにも旅立つ決意を伝えました。ハリーはショックを受けながらも引き留めることはできず、ハンナに、アーチに出ていくよう頼んだのかと問いました。
ハンナはアーチ自身が決めたことだと返答し、自分よりもハリーと長く過ごしたアーチはいわば浮気相手のようなものであり、ハリーの考えは浮気相手と共に戻ってみんなで住もうと言っているのと同じだと意見を述べました。ハリーは「アーチは君の望み通りに出ていく」とだけ答え、それ以来アーチとは多くを語ることはありませんでした。
やがてアーチは旅立ちの時を迎え、ハリー、ハンナ、ジェイニーに見送られて農場を後にしました。その日からハンナはハリーを正式に夫として認め、二人は次第に良好な夫婦関係を取り戻していきました。しかし、そんな穏やかな日々は、マグヴェイの使いと名乗る男がアーチの馬に乗って農場に現れたことにより終わりを告げました。
さすらいのカウボーイの結末
マグヴェイの使いが持ってきた包みには、斬り落とされたアーチの右手の小指が入っていました。マグヴェイの使いはアーチを捕らえていることを伝え、ハリーにマグヴェイの元に行くよう告げました。ハリーは泣いて引き留めるハンナに、必ず戻ると約束し、マグヴェイの使いと共にデル・ノルテへと出発しました。
ハリーは旅の途中でマグヴェイの使いを殺し、アーチの馬を連れて先を急ぎました。その頃、マグヴェイの家に拘束されていたアーチは、マグヴェイの妻が夫に虐待されていることを知りました。
マグヴェイの妻はアーチに水を与えた際、アーチは銃を渡してくれるよう頼みましたが、妻は自分が殺されてしまうと断りました。しかし、マグヴェイの執拗な暴力に耐えきれなくなった妻は、密かにアーチに協力することにしました。
その直後、マグヴェイの家にハリーが乗り込んできました。ハリーはマグヴェイの手下と銃撃戦を繰り広げましたが、反撃されて銃弾を受けてしまいました。マグヴェイの妻に檻を開けてもらったアーチは、銃を奪ってハリーに加勢、マグヴェイの手下たちを皆殺しにしました、
アーチの弾が切れ、ハリーは最後の力を振り絞ってマグヴェイを射殺しました。アーチは虫の息のハリーに駆け寄り、ハリーを抱きかかえました。
その頃、ハンナは家のポーチの椅子に座りながら、ハリーの帰りを待っていました。すると、ハリーの馬に乗ったアーチが自分の馬を引き連れてハンナの農場に戻って来ました。ハンナはハリーがもう二度と帰ってこないことを悟り、家の中に入りました。
アーチはハリーの馬と自分の馬を納屋に入れて、扉を閉めました。
以上、映画「さすらいのカウボーイ」のあらすじと結末でした。
この映画「さすらいのカウボーイ」は、詩的なイメージと西部劇独自の素朴さで、人生のさすらいの意味を見つめた佳作だと思います。
この映画「さすらいのカウボーイ」は、詩的なイメージと、西部劇独自の素朴さを持った、公開当時のキャッチコピーで言うところの、”ニューウエスタン”で、「イージー・ライダー」で、アメリカ・ニューシネマの寵児とったピーター・フォンダが、初めて監督し、同時に主演も兼ねた意欲作ですね。
この映画は、いわば、”人間の情念”が、そのまま映像になった西部劇であり、映画で描かれる、その全てが素朴で、シンプルで、そして純粋なのです。
素朴さやシンプルさだけでは、映像は詩になる事が出来ないと思うし、その素朴さやシンプルさが純粋に結晶した時に、初めて映画は詩の心を持つ事が出来るのだと思います。
そして、「さすらいのカウボーイ」はまさに、そのような稀有な映画なのです。
主人公のピーター・フォンダは、おのれの心のおもむくままに西部をさすらい、人生をさすらっていきます。
そして、ふと、7年前に出て来た家に帰りたくなると、まるで風のように、妻と子供のいるささやかな農場へ戻って行きます。
いや、それは、正確には、戻るとか、帰るといった行為ではなく、それは、この主人公の人生のさすらいの中のほんのひとコマに過ぎないものであり、さすらう者には、方向といった概念はないのですから、行くとか迎えるといった言葉は全くあてはまらない事になります。
だから、彼は、妻が7年ぶりの彼を納屋には入れるものの、家の中に入れようとしなかった時も黙って、それに従うし、妻が迎え入れてくれれば、ごく自然にベッドをともにするのです。
さすらい人の生きる姿勢とは、まさに、このようなものなんだという、監督のピーター・フォンダの思想がよく表現されていると思います。
これは、さすらい人の仲間のウォーレン・オーツが危機に陥った時も、やはり同じ姿勢なのです。
フォンダは、ただ黙々とオーツのもとにおもむき、そして、死ぬのです。
そこには、正義感などというものはなく、勇気というほど、おおげさなものもありません。
あるのは、西部の空や野や森を自由にさまよい、飛翔する”西部男の純粋な魂”だけがあるのです。
このように、”ニュー・ウエスタン”と言われた西部劇は、多様な顔を持って我々の前に現われ、昔ながらの西部劇の枠から解き放とうとしていたのかも知れません。