日曜日には鼠を殺せの紹介:1964年アメリカ映画。共和国軍の敗北で幕を閉じたスペイン内乱から20年後。亡命先でひっそりと暮らしていた共和国の闘士マヌエルをある少年が訪ねます。負け犬のまま年月を過ごしていたマヌエルは、葛藤しながらも己の信じる道を進みます。エメリック・プレスバーガー原作の小説を映画化。名匠F・ジンネマン監督の元、G・ペックら名男優陣が出演しています。
監督:フレッド・ジンネマン 出演者:グレゴリー・ペック(マヌエル)、アンソニー・クイン(ヴィニョラス)、オマー・シャリフ(フランシスコ神父)、ミルドレッド・ダンノック(ピラール)、レイモン・ペルグラン(カルロス)ほか
映画「日曜日には鼠を殺せ」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「日曜日には鼠を殺せ」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「日曜日には鼠を殺せ」解説
この解説記事には映画「日曜日には鼠を殺せ」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
日曜日には鼠を殺せのネタバレあらすじ:起・少年と英雄
1939年。スペイン内乱で敗北した共和国軍の闘士マヌエルは、悔しさを胸に秘めフランスに亡命します。20年後。スペインから雪山を超えてパコという少年が、フランスのポーという町にいるマヌエルを訪ねます。警察署長ヴィニョラスに父を殺されたパコは、父の旧友マヌエルに父の仇をとってくれと頼みます。しかし、かつての闘志が消え失せ中年となったマヌエルは、パコを追い返します。
日曜日には鼠を殺せのネタバレあらすじ:承・母の伝言
政敵マヌエルが国外にいるため、ヴィニョラスは逮捕をすることができず20年が経ちます。そんなヴィニョラスの元へ、マヌエルの母親ピラールが危篤というニュースが飛び込みます。ヴィニョラスはこのニュースは利用して、マヌエルと顔見知りの密輸商人カルロスを仲介人にしてマヌエルをおびき寄せようとします。息子の身を案じたピラールは、ルルドに行く神父フランシスコに、息子を来させるなと託し息を引き取ります。フランシスコはルルドに行く道中で、ピラールの伝言をしたためた手紙を投函するつもりでしたが、不運にもトラブルに遭遇します。結局フランシスコは、手紙をマヌエルの逃亡先まで届けることになります。
日曜日には鼠を殺せのネタバレあらすじ:転・マヌエルの選択
マヌエルは不在だったので、フランシスコはパコに手紙を託し、“母親の死亡”を伝えて立ち去ります。しかし、パコは手紙を破り捨て、フランシスコからの伝言は黙っています。カルロスはヴィニョラスの指示通り、マヌエルに“母親の危篤”を知らせおびき寄せようとします。パコがカルロスの素性を見破り、マヌエルに“母親の死亡”を伝えますがマヌエルは両者の意見の信憑性を疑います。パコに手紙を渡した神父を捜し出したマヌエルは、母親の死亡を確認します。ニセ情報がバレてしまったカルロスは逃げ出します。
日曜日には鼠を殺せの結末:戻るべき処へ…
マヌエルは、自身と対局にいる神父であるフランシスコと一晩語り明かします。自身を見つめ直したマヌエルは罠を承知で、雪のピレネーを越え、祖国スペインへ向かいます。厳重な警戒の中で、マヌエルはカルロスを射殺しますがヴィニョラスを仕留め損ねます。勇猛果敢に独り戦うマヌエルでしたが、警官に包囲され射殺されます。絶命する瞬間、マヌエルの脳裏にパコの姿が過ります。“母親の死を知っていたマヌエルは、罠を承知でなぜ乗り込んで来たのか?”と自問自答するヴィニョラスは、マヌエルの真意を測りかねます。フランシスは目に涙して、マヌエルの死体が運び出される様子を見送ります。
以上、映画 日曜日には鼠を殺せのあらすじと結末でした。
この映画は、全生涯を賭けて闘ってきたものに殉じるために、徒労という人生の選択をした男を静かに描いた秀作だと思います。
この映画「日曜日には鼠を殺せ」の原題は、「BEHOLD A PALE HORSE(蒼ざめた馬を見よ)」となっており、これは「ヨハネ黙示録」第六章第八節にある有名な言葉で、映画の冒頭で、「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名を死といい、黄泉これに従う」と説明されています。
この「蒼ざめた馬を見よ」というフレーズを聞くと、どうしても作家の五木寛之が文壇への鮮烈なデビューを飾り、直木賞を受賞した同名の小説を思い出しますが、もともとは、ロープシンという作家の「蒼ざめた馬を見よ」が原典になっているようです。
そして、この映画の原作の小説は、映画「赤い靴」の監督、脚本家としても有名なエメリック・プレスバーガーの「Killing a Mouse on Sunday(日曜日には鼠を殺せ)」で、聖書の教えを忠実に守る敬虔な清教徒の人々は、日曜日は安息日なので働いてはいけないと考えていて、だから、日曜日に鼠を殺した猫がいたとしたら、月曜日に猫は清教徒に殺される—-という意味を表しており、つまり、日曜日に鼠を殺す事は徒労であり、そのために手痛いしっぺ返しを食らってしまうという、この小説のテーマを象徴的に暗示している言葉になっていると思います。
この映画は、「地上より永遠に」「わが命つきるとも」の名匠フレッド・シンネマン監督の作品で、スペイン市民戦争で反ファシズム戦線に加わって戦い、フランコ将軍のファシスト側に敗れ、フランスに亡命して20年が経過した、人民戦線側の伝説的な生き残りの兵士マヌエル(グレゴリー・ペック)は、故郷のスペインに残して来た母親が病の床に伏せっている事を知りながらスペインへ戻る事を躊躇っており、また、かつての彼の同士の息子の少年の訪問を受け、マヌエルの情報を得るために、マヌエルを執拗に追い求める、スペインの警察署長(アンソニー・クイン)が少年の父親を殺したので、父親の敵を討ってくれるようにと懇願されても、この少年を冷たく追い返したりします。
そんな無為の日々を送るマヌエルが、再び武器を持って厳しい雪のピレネー山脈を越え、旧敵の警察署長が彼を狙い、待ち伏せして、罠を張り巡らせている故郷の村へ、確実に死というものが待ち受けている場所へ、”蒼ざめた馬に乗った死が黄泉を従えて待っている”場所へ、なぜ帰ろうとしたのか?——–。
マヌエルのこの不可解な行動には、何の意味もなく、ただ母親が死んだという事を事前に知り、そのため、死んだ母親に会うという目的以外には他に何もないし、恐らく母親が安置されている部屋まで行ける可能性もほとんどないという状況です。
つまり、彼の行なおうとする行為は全くの”徒労”に終わる事は目に見えています。
しかし、それなのに、彼はピレネー山脈を越えて、敢然と故郷の村へと向かうのです。
この彼の行為を支えるものは、恐らく、彼が全生涯を賭けて、今まで闘ってきたものに殉じるためであり、自分の生きてきた人生に嘘をつかず、無にしないために、敢えて彼は、”徒労”と言うべき行為を選択したのだと強く思います。
つまり、このある意味、汚れた退屈な世界で生きていく事とは、彼にとっては生き恥をさらす事だという事を、20年の歳月の中で思い知った男が、しかし、自分が生きるという事の根本にある何か—アイデンティティのために、罠が自分を待ち受けているのを知っていながら、死を覚悟して、スペイン市民戦争で追われた故郷の村へと帰っていったのです。
一方、体制の中でぬくぬくと安穏に生きている、アンソニー・クイン演じる警察署長には、このむざむざと射殺されに帰ってきたような男の気持ちが、到底、理解出来ません。
しかし、自分には解らない厳しい何かが、このマヌエルという男の生き方の中にはあるというのを思い知らされる事になります。
ヒゲ面で一本気で寡黙な初老のスペイン人の元兵士という難役を、グレゴリー・ペックはかつて、「白鯨」のエイハブ船長を演じた時にも見せた、執念の男を、静かな中にも燃えさかる闘志に満ちたマヌエルという役を見事に演じていて、「アラバマ物語」「紳士協定」と並んで彼の代表的な役の一つだと思います。
フレッド・ジンネマン監督は、深く奥行を持った、ヨーロッパを舞台にしたこの映画をロケーション中心のリアルで端正ともいえる白黒の画面に、きびきびとした鮮烈なタッチで描いてみせて、やはり、彼のリアリズムの演出技法にはうならされてしまいます。
安息日に働いたために、月曜日に例え殺されるとしても、日曜日に鼠を殺す事は必要ではないのか——。
人は目先の現実的な利益よりも、自己の”人間としての誇りや尊厳や矜持”といったものが、より重要で、それこそが人間としての真の生き方ではないのかと、この映画は静かに訴えかけて来ているような気がします。