存在のない子供たちの紹介:2018年レバノン,フランス映画。中東のある国での裁判所。裁判官に名前を呼ばれ前に出たのはわずか12歳の少年ゼインだった。訴えた相手は自分の両親。強いまなざしで裁判官に言った。「自分を生んだ罪で訴える」と。貧困窟に生まれたゼインは法的には社会に存在すらしておらず、自分の誕生日も知らない。唯一心の支えだった大切な妹はわずか11歳で強制結婚させられ、怒りに任せたまま家を飛び出したゼイン。しかし待っていたのは予想もしていなかった過酷な現実だった。今回が2作目の作品となるラバキー監督が、貧困地域、拘置所、少年刑務所など3年間のリサーチを経て、リアリティを突き詰めながらもドキュメンタリーとは異なる物語の強さを表現した。弁護士に扮したラバキー監督以外はほとんど現地で出会った素人をキャスティングし、主人公の少年ゼインや、エチオピア移民ラヒルを演じたヨルダノスも、役柄とよくにた境遇の人々が選ばれた。すべての子供たちが当たり前のように持っているはずの≪愛される権利≫を求めて経験した旅路に胸が締め付けられる思いをしながらも、わずかな希望の光を見出すこともできる。カンヌ国際映画祭やトロント国際映画祭で賞を受賞し、絶賛の波を起こした作品。
監督:ナディーン・ラバキー 出演:ゼイン・アル=ラフィーア(ゼイン)、ヨルダノス・シフェラウ(ラヒル)、ボルワティフ・トレジャー・バンンコレ(ヨナス)、カウサル・アル=ハッダード(スアード)、ファーディ・カーメル・ユーセフ(セリーム)、シドラ・イザーム(サハル)、アラーア・シュシュニーヤ(アスプロ)、ナディーン・ラバキー(ラディーン)ほか
映画「存在のない子供たち」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「存在のない子供たち」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
存在のない子供たちの予告編 動画
映画「存在のない子供たち」解説
この解説記事には映画「存在のない子供たち」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
存在のない子供たちのネタバレあらすじ:起
中東のとある国。裁判所で名前を呼ばれたゼインは、大きな瞳でまっすぐ前を見つめ言いました。「両親を訴えたい。僕を産んだ罪で」と。
ゼインは両親が出生届を出していないため誕生日は不明だが、おそらく12歳くらいの少年と推定されます。ゼインが言う“クソ野郎“を刺した罪で少年刑務所に収監中のところ、弁護士ラディーンと出会い、彼女を代理士として自らこの裁判を起こしたのでした。
中東の貧困窟で両親とたくさんの兄弟姉妹と暮らしていたゼインは、貧しい生活を支えるために学校に行くことはできませんでした。処方箋を持って薬局を回り、手に入れた薬剤を砕いて粉にすると、それを水で溶いて洋服に浸し、乾かして刑務所に売りに行ったり、路上で自家製のジュースを売ったり、ボロアパートの家主であるアサードが営む店を手伝ったり、朝から晩まで働かされていました。夕方になるとゼインは毎日通るスクールバスに目をやります。しかし、ゼインは学校に通ったり、近所の子供たちと遊ぶことも許されない生活を強いられていました。そんな過酷な毎日でしたが、すぐ下の妹サハルの存在が心の支えになっていたのでした。
存在のない子供たちのネタバレあらすじ:承
ところが不幸は突然やってきます。両親はわずか11歳のサハルをアサードと結婚させることを勝手に取り決めてしまったのです。ゼインはサハルと逃げようとしましたがわずかに間に合わず、嫌がるサハルを無理やり父親セリームがバイクに乗せ、連れて行ってしまいました。
最愛の妹を失ったゼイン。悲しみと憎しみに身を任せ泣きながら家を飛び出すと、バスに乗り込みました。行く当てもなく通りかかった遊園地で降りましたが、お金も食べ物もありません。仕事はないか聞いて回りますが、子供のゼインを前に誰も相手になどしません。そんなゼインを見かねて、清掃をしていた若い黒人女性が食事を与えてくれました。自らの名をティゲストと名乗り、ゼインを自宅のバラックへと連れて帰りました。ティゲストの本名はラヒル。赤ん坊ヨナス守るために身分を偽り滞在していたのでした。ラヒルはヨナスの子守りをする代わりにゼインを置いてやることにしました。
ラヒルはエチオピア難民でした。偽造の滞在許可証の期限がもうすぐ切れるため、偽造屋アスプロに相談していましたが、相場より高い値段をふっかけられ払えなければヨナスを引き取ると脅されていました。許可証がタダでもらえたとしても、ラヒルにとって息子を里子に出すなど考えられないことでした。
存在のない子供たちのネタバレあらすじ:転
ラヒルは大切にしていた自らの髪を売り、なんとかお金を工面することができました。しかし市場に行くと言ったまま翌日になっても帰ってきません。ゼインはヨナスを連れて、市場へ行ったりアスプロを訪ねたりラヒルを探しまわりましたが、どこにも見当たりませんでした。それもそのはず。ラヒルは不法就労の疑いで警察に拘束されていたのでした。しかしゼインは悲しんでいる暇もありません。ヨナスと2人で生活するため、救護所で嘘をついて粉ミルクをもらったり、薬局でやはり嘘をついて手に入れた薬を海水で薄めてドラッグを作りそれを売りながら必死に生きていました。
いずれは希望のある外国へいくことを夢見ながら、少しずつ貯金をためていたゼインでしたが、ある日外出中に大家に鍵を換えられてしまい、お金を隠していた家から閉め出されてしまいました。
すべての手は尽き、絶望にかられたゼイン。身も心もずたずたにされ、どうすることもできなくヨナスを道端へ捨てようとしました。しかし車に轢かれそうになるヨナスを見て再び抱きかかえます。ゼインは自らがしてしまったことに対し、あふれる涙をこらえることができませんでした。ヨナスの安全を考え、アスプロに相談すると言われるままヨナスを渡し、ゼインはお金を手にしました。今度こそ外国へ渡る決意をします。他国へ渡るには身分証が必要だとアスプロに言われ、ゼインは久しぶりに両親のいる実家へ帰りました。しかし身分証はありませんでした。それだけではなく、ゼインを待ち受けていたのは、サハルが亡くなったという知らせでした。わずか11歳という若さでアサードに妊娠させられ、無理な出産で病院に駆け付けたが病院は身分証のないサハルを受け入れずそのまま亡くなったのでした。
激高したゼインは包丁を持つと怒りに任せたままアサードのいる店へ向かいました。憎悪に取りつかれたゼインを誰も止めることはできないままアサードは刺されました。これによりゼインは禁固5年の刑を言い渡され少年刑務所へ収監されたのでした。
存在のない子供たちの結末
ある日、ゼインの母親スアードは刑務所に面会に訪れ、また子供を授かったことを告げました。ゼインはそんな母親に刺すような視線を向け、差し入れてもらった食糧をゴミ箱に捨てると面会室を出ていくのでした。
刑務所のテレビからは社会問題を取り上げる番組『自由の風』が流れていました。この番組は視聴者の電話相談コーナーが人気で、電話で生出演し司会者と話しをすることができます。この日、このコーナーに出演していたのはゼインでした。彼は訴えるのです。「大人たちに聞いてほしい。世話ができないなら産むな」と。このゼインの言葉は大変な反響を呼び、番組を見ていた弁護士から面会の申し出がありました。看守に呼ばれたゼインの名前を聞いて、もう一人ゼインの名前を呼ぶ声がありました。たまたま同じ刑務所に収監されていたラヒルでした。
法廷にて証言台に立ったラヒルはゼインについて「普段は人を刺すような子ではない。ヨナスのことも許している」と述べました。この言葉がゼインの救いとなり、鋭かった視線はわずかな丸みを帯びました。
これまでにひどい生活を強いられてきたゼインでしたが、こうした大人たちの力によって光がもたらせられました。アスプロは逮捕され、無事保護されたヨナスはラヒルと再会を果たすことができました。
ゼインは新たな身分証のためにカメラの前に立っていました。はじめは緊張に顔をこわばらせていましたが、カメラマンの声により次第に笑みに変わっていきます。写真に収められたゼインの表情は希望にあふれていたのでした。
以上、映画「存在のない子供たち」のあらすじと結末でした。
随分以前から、海外の貧しい子供を月五千円で学校に行かせてあげようとか、そうした類いの支援が存在する。
皆さまの中にも、やっておられる方がいらっしゃるかもしれない。
私も今まで、どれだけ自分のお小遣いの一部を寄付しようと考えたかわからないが、どうしても一歩が踏み出せなかった。
そうした国では何の考えもなく、両親が子供を次から次へと産む。
しかし産んだはいいが、ほったらかしで世話をしない。自分の家族の食いぶちを幼い頃から稼がせる。
もちろん子供に罪はない。
しかしこういう親たちのことを考えると、おいそれと簡単に支援する気にならないのだった。
彼らに必要なのは、支援よりも、もっと他に沢山あるような気がしたのだ。
この映画の主人公ゼインは、
「世話ができないなら産むな!」
と訴え、自分を産んだ罪で両親を訴える。
まさにここに、この映画のテーマがあると思う。
最愛の妹は11歳で結婚させられ、無理な妊娠、出産から命を落とす。我慢できなくなったゼインは、包丁でその夫を刺し、5年の禁固刑を言い渡される。
そこに至るまで、ゼインは妹の結婚をきっかけに家を飛び出し、ラヒルというエチオピア難民の女性に拾われ、赤ん坊の世話をすることで、バラックの家に置いてもらう。
このゼインの日々を追うことで、社会の病巣や人々の悪辣な所業が露わになっていく。
私ははじめ、この作品をドキュメンタリーかと勘違いしたほど、出演者はリアルな素人の人々で、演技は真に迫っており、カメラは始終手持ちのドキュメンタリータッチだ。
作り手の気持ちがじかに伝わってくる。