狼よさらばの紹介:1974年アメリカ映画。アクションスターとしてのチャールズ・ブロンソンのイメージを決定づけた自警団ものの古典。大ヒットし、「ロサンゼルス」「スーパー・マグナム」などの続編が作られた。
監督:マイケル・ウィナー 出演:チャールズ・ブロンソン(ポール・カージー)、ホープ・ラング(ジョアンナ・カージー)、ヴィンセント・ガーディニア(フランク・オコア)、スティーヴン・キーツ(ジャック・トビー)、ほか
映画「狼よさらば」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「狼よさらば」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「狼よさらば」解説
この解説記事には映画「狼よさらば」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
狼よさらばのネタバレあらすじ:起
ポールとジョアンナの夫婦はハワイでの休暇からニューヨークに戻ってきました。ポールの職業は建築家です。ジョアンナは娘のキャロルと買い物に行きます。ある店で配達を依頼した際、そばにいたチンピラたちがその住所を見てしまいます。彼らは彼女たちのアパートへ押し入り、金を物色します。しかし、7ドルしかありません。チンピラたちはキャロルをレイプ。ジョアンナに暴力を振るうと逃げ出しました。
狼よさらばのネタバレあらすじ:承
キャロルの夫ジャックから事件を知らされたポールは病院に駆けつけます。ジョアンナは死亡、キャロルは命は助かりましたが、精神を病んでしまいます。警察によれば犯人が捕まる可能性は低いとの事。翌日、ポールは上司から気分転換に南部への出張を提案され、それを承諾します。そこで自衛のための銃の使用について色々と知る機会を持ち、さらに顧客からプレゼントをもらいました。家に帰ってから見てみると、それは32口径のリボルバーです。
狼よさらばのネタバレあらすじ:転
それを何気なくポケットに入れ、彼はリバーサイドパークに散歩に行きました。そこで強盗に遭遇。ポールは持っていた銃で初めて人を撃ち殺します。ショックであわてて家に戻り、思わず嘔吐するポール。しかし、翌日の夜も散歩に出た彼は、老人から金を奪おうとしていた3人の黒人を殺害します。数日後、地下鉄に乗っていた彼をまた2人のチンピラが襲いますがこれも銃で反撃。次はわざと金を見せびらかして強盗に襲わせ、彼らを撃ち殺すという手口を使います。ポールはすっかり一人きりの自警団となっていました。
狼よさらばの結末
警察はこの一連の行為に黙ってはおられず、容疑者を絞り込みます。そして家族を最近殺された人間のリストからポールを特定。さっそく逮捕しようとしますが、地方検事は反対します。自警行為に市民が喝采しているためでした。しかし見過ごしも出来ないため、他の街へ一種の追放処分をしてはどうかと提案。警察も渋々受け入れます。
警察が自分の行為に気づいたことを知ったポールは、最後の”処刑”をセントラルパークで実行。自分も重傷を負い、友好的な刑事の忠告にしたがってシカゴへ引っ越します。しかしここも治安の悪さはニューヨークと変わりません。ポールの自警行為は終わるのでしょうか。
チャールズ・ブロンソンという俳優は、アメリカ時代は脇役専門の俳優で、割りと地味な存在だったが、フランスへと渡り、アラン・ドロンと共演した「さらば友よ」や、名匠ルネ・クレマン監督と組んだ「雨の訪問者」で一躍有名になり、先にヨーロッパと日本で人気が爆発し、その後、1970年代の初めにハリウッド映画に返り咲き、次々とヒット作を飛ばし、百万ドルスターになっていったのだ。
しかし、拳銃をぶっ放して復讐するマフィア等を演じているうちは、単なるフラストレーション解消用の代償作業としての暴力派スターだったが、マイケル・ウィナー監督と組んで主演したこの「狼よさらば」で、ニューヨークに住む一市民、一父親が、街のダニに復讐する役を演じて、初めてアメリカ人の琴線に触れることになるのだ。
三人組のチンピラが家に押し入り、妻を殺し、娘を暴行する。
娘はそのため気が狂ってしまう。
残されたブロンソンは、設計技師という設定で、それまで良心的な反戦論者だったが、仕事先のアリゾナへ行った時、西部の人間から銃の魅力をたきつけられるのである。
「都会人は銃を毒ヘビのように恐れているがバカげている。ここでは単なる道具で、誰もが持っているから平和なのだ」と。
そして、復讐心を駆り立てられたブロンソンは、銃を手に入れ、都会に帰ってチンピラ掃除を始めるのだ。
それも、妻や娘を苦しめた直接の犯人を探すのではなく、一人、二人、三人と手当たり次第に、彼が認めた”悪”を抹殺していくのだ。
世論はこの無名の粛清者を支持し、警察も黙認する。
そして、最後にはブロンソンと身許がバレるのだが、警部は「この街を出て行くなら、今まで使用した銃は川へ捨てよう」と提案し、ブロンソンはシカゴへ去るというストーリーだ。
考えてみると、この映画には様々な問題が内包されていると思う。
まず、ストリート・クライムと言われるひったくり、窃盗から強盗、殺人までの暴力が、日常的にはびこっている、この映画で描かれた1970年代の荒廃し切ったニューヨークという街の生々しい実態がある。
当時のニューヨークという街は、かつては”人種のるつぼ”であったが、近代化の波が押し寄せ、都市の中間層がすっぽりと抜け、大ビルとスラムに変貌し、同時に都市として破産状態に陥っていたのだ。
警察による街の治安の不徹底という要因もあったのではないかと思う。
肝心のその警察も、シドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演の映画「セルピコ」で描かれていたように、汚職と腐敗にまみれていたのだろう。
しかし、低賃金で危険にさらされる現場の警官はやり切れたものではない。
もちろん、市民の不信、非協力も相関関係をなしていたのかも知れない。
そして、拳銃の入手の容易さは言うまでもない。
この映画の中で、市民はチンピラ掃除をする死刑執行人のブロンソンを支持している。
いわゆる、目には目をということだ。
警察のメンツ丸つぶれの警部は、闇から闇へ事件を葬ろうと、市街への退去を提案する。
こうして、法によって守られ保証されたブロンソンは、晴れ晴れとした表情でシカゴの街へと去っていく———。
この映画が製作された1970年代の前半は、ヴェトナム戦争の終末期であり、その戦後処理の過程にある時期でもあった。