1976年 西ドイツ映画
ヴィム・ヴェンダース監督のロードー・ムービー3部作の最終作品。大型ワゴンに乗り小さい街の映画館をまわってフィルム運びや映写機の修理などをしているブルーノ。ある朝彼は川に突っ込む車を目撃する。その車から脱出したロベルトという男を自分の旅に同行させることにするのだが。
映画「さすらい」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「さすらい」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「さすらい」解説
この解説記事には映画「さすらい」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
「さすらい」のあらすじ
映画技師の男(ヴィンター)は河原で休憩をしていた。そこに、妻と別れ自暴自棄になった男(ランダー)が自ら車を運転し、自殺を図るために猛スピードで川へ突入する。しかし、自殺は失敗する。悲しみに打ちひしがられたランダーにヴィンターは手を差し伸べ二人の旅が始まる。二人は互いに自らの過去をあまり語らないまま旅を続け、時間をかけて互いを認めあう。その過程で衝突するも、旅は続く。そして、二人は妻を亡くした男に出会う。その出会いの後、ランダーは自分の過去と対峙することを決意し父の元へと向かい、父に気持ちをぶつける。父との和解をすましたランダーはヴィンターとともに再び旅に出る。そしてヴィンターにも自身と向き合うことを促し、母の家に向かう。互いの過去に触れた二人は初めて、自ら進んで自分について口を開く。そして互いに今の自分と向き合い、別々の道をゆく。
これぞロードムービー「さすらい」のあらすじ
この映画は「パリ・テキサス」など、ロードムービーの名手として知られるヴィム・ヴェンダース監督の初期三部作の一つで時の移ろいをテーマにして製作されている。そのテーマを反映し、ゆっくりと、ただし刻々と移り行く時間や人の気持ちなどを描いている。上映時間は3時間と大作ながら時のうつろいを感じ、心地よく映画を見ることが出来る。3時間もあるからと身構える必要は無い。時の移ろいに身を任せるだけでいいのだ。後は主人公二人とともに旅に出るだけ。少し経てばいつの間にか見たこともない、新たな環境を二人とともに旅をしている。そして映画終了とともにとても愛おしくなるような、もう一度二人と旅をしたくなるような気持ちにさせてくれる。
男の友情「さすらい」のあらすじ
男の友情を描いた作品は沢山ある。刑事物など二人で危険をを乗り越え、時に対立しそして友情を深める。そんな作品には簡単に心を奪われる。それでも見終わって少しした後に少し悲しさが残る。それはそんな友情はやっぱり夢物語でしかないからだ。ただ、この映画は違う。もちろん映画的な突拍子もない出来事も起こるが、主人公はまるで現実にいる人物であるかのように振る舞い、悩み、笑い、語らい合う。そして、いつの間にか語らなくても分かり合うまでになった二人は真の友情を得ることによって別々の道をゆく。きっとこの映画の主人公たちはもう二度と会わないのかもしれない。それでもいつまでも親友として心の拠り所として、これからの人生を支えていってくれる存在であるだろう。そんな二人の友情も目撃した時、きっと観た人はそんな友人が欲しくなるだろう。そして、隣にいる友人の事をもっと知りたくなるだろう。この映画は映画の中だけで完結しない。そこから私たちが影響を受けることによって更に世界を広げてゆく。そんな映画だ。
“ヴィム・ヴェンダース監督が映し出す二人の男の淡々とした旅 「さすらい」”
この映画「さすらい」は、ヴィム・ヴェンダース監督による「都会のアリス」「まわり道」に続く”ロードムービー三部作”の完結編であり、前2作で試みられた技法や、次第に輪郭をはっきりさせてきたそのテーマの集大成とも言える、1970年代のヴェンダース映画を代表する最高傑作だと思う。
物語は、映画館を巡回して映写機を修理してまわる、巡回映写技師の主人公ブルーノとひとりの男ローベルトを中心に展開していく。
ある朝、エルベ川のほとりで、二人の男が出会う。
ブルーノは、ワゴンに一切合切を積み込んで、町から町へ映画館を巡って歩く巡回映写技師。
片やローベルトは、ブルーノの目の前で、車ごと川に突っ込んで来た”カミカゼ”野郎だ。
来る者は拒まず—–的なブルーノの車に、行き先もなく乗り込むローベルト。
二人の男の、まさしく”ロードムービー”が、一種ポエティックなムードを漂わせながら、淡々と展開していく。
映画の主人公と共にスタッフが旅を重ねる中で、ストーリーを組み立てていくというヴィム・ヴェンダース監督の即興演出が、ロビー・ミューラーの見事なカメラワークと一体となって、素晴らしい息吹きを与えていると思う。
二人にとって、この”旅”はいったい何なのだろう? 公衆電話を見ると9桁の国際電話のダイヤルを回し、話しもせず切ってしまうローベルト。
彼は一夜だけ、父の新聞印刷所に行き、徹夜で新聞の活字を組む。
妻と別れて来たと、過去の愛を引きずるローベルトにとり、この旅は、過去を断ち切り、未来に進むプロセスそのものなのかもしれない。
一方、旅が生きる糧でもあるブルーノ。
彼は、ローベルトに誘われて、自分の生まれ故郷のライン河岸を訪れ、自分にも流れた時があったことを認識するのだ。
同時に、自分のアイデンティティをも再確認するのだ。
そして、その後、「全ては変わる」と、ローベルトは、ブルーノ宛に走り書きした紙片を、掘立て小屋の板戸に貼り付け、早朝の田園の中を”からっぽ”のトランクを携え旅立っていく——。
何てカッコいいラストだろう。しかも、映画の終わりが、旅の終着点ではなく、新たなる旅の出発点へとつながっていく。
それは、とりもなおさず、ヴェンダース映画における”旅”が、目的地に向かってひた走る現実的な旅ではなく、もっと抽象的な”魂の彷徨”、いわば人生そのものであることを暗示しているのかもしれない。
旅を続ける限り、風景がどんどん移り変わっていくように、人生も常に変遷を繰り返していく。
そしてそれは、決して後戻りできない”旅”でもあるのだ。
人は、過ぎ去った日々があるからこそ今日があり、明日がある。そして”旅”の最終目的は、”移動し続ける”こと。
つまり、社会的関係であれ、内面性であれ、絶えず変化しながら生きることに意味がある、とヴェンダース監督は悟っているのかもしれない。