MEN 同じ顔の男たちの紹介:2022年イギリス映画。SFスリラー映画『エクス・マキナ』で第88回アカデミー賞視覚効果賞を受賞したアレックス・ガーランド監督が、『ミッドサマー』などで人気の配給会社「A24」と組んで挑んだ新作がこの『MEN 同じ顔の男たち』。女性にとって有害な男性性を、色彩豊かな映像美と印象的な音楽で紡ぎ出す異色のホラー作品だ。主演は『ロスト・ドーター』で第94回アカデミー賞助演女優賞にノミネートされ、ミュージカルなどでも評価の高いジェシー・バックリー。共演のロリー・キニアは7役を演じた。
監督・脚本:アレックス・ガーランド 出演:ジェシー・バックリー(ハーパー)、ロリー・キニア(ジェフリー)、パーパ・エッシードゥ(ジェームズ)、ゲイル・ランキン(ライリー)、ほか
映画「MEN 同じ顔の男たち」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「MEN 同じ顔の男たち」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「MEN 同じ顔の男たち」解説
この解説記事には映画「MEN 同じ顔の男たち」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
MEN 同じ顔の男たちのネタバレあらすじ:起
鼻血を出しながら窓の外を見ているハーパーの目に、落ちていく男の姿が映ります。
ハーパーは傷ついた心を癒すため、ひとり田舎へと車を走らせます。到着したのは古いけれども小さなお城のようなカントリーハウス。庭にはリンゴの木があり、彼女はひとつもぎってかじりつきます。
出迎えたオーナーのジェフリーは話し好きな男で「マーロウ夫人」とハーパーを呼び彼女を困惑させます。無意識にその名で予約してしまったことを後悔し、ハーパーと呼ぶよう彼女は訂正します。“禁断の果実”リンゴを食べたことをとがめ、冗談ですよと笑うジェフリー。ここは電波の状態が悪く、雨が降るとテレビが映らなくなるといいながら、その後屋敷内を案内します。ハーパーはジェフリーが帰ったあと、友人のライリーに電話しますが早速電波が途切れてしまいました。
[回想]ハーパーが落下を目撃したのは彼女の夫ジェームズ。離婚を切り出したハーパーに一生罪悪感を背負わせるため自殺するとジェームズは言っていました。
過去を振り払うようにハーパーはこの地を訪れ、気分を一新しようと森へ散歩にでかけます。しばらくすると古いトンネルにたどり着きました。その中で声を発するとこだまのように反響するのが面白く、彼女は音階をつけて自分の名前“ハーパー”を歌うように声に出していきます。
ひとしきり楽しむと、トンネルの出口に男がいるのが見えました。急にこちらに向かって動き出したので、ハーパーは足早に戻ろうとします。途中で道を間違え行き止まりになってしまったので仕方なく横の急斜面を上ると、そこには気味の悪い廃屋が建っていました。
急いでそこを抜けて草原までたどり着き、ほっとしたハーパーは振り向いてその廃屋を写真におさめます。するとその真ん中に全裸の男が立っており、ハーパーはあわててそこから立ち去るのでした。
[回想]ハーパーはロンドンブリッジ近くのマンションに住んでいました。上層階から落ちたジェームズの遺体は鋭い柵に左手を引き裂かれ、右足は奇妙に折れ曲がっていました。
翌日。ライリーとのビデオ通話で屋敷の中を紹介していると、昨日の全裸男が庭に侵入し、窓から中をうかがっています。あわてて通話を切って警察に連絡するハーパー。
[回想]ハーパーはジェームズとケンカしたときのことを思い出しています。ライリーに「彼が怖い」とメッセージを送っていると、部屋に入ってきたジェームズに携帯電話を取り上げられてしまいます。ロックを外すよう激昂する彼に「私の携帯電話よ!」とハーパーが反発すると、ジェームズは彼女を殴ってしまいます。
全裸男は警官たちによって取り押さえられました。女性の警官に事情聴取されているハーパーは、警察が近くにいてくれてよかったと感謝の意を伝えます。
ふたたびライリーとの通話。彼女は心配だから自分も行くと言いますが、「ここに怖がりにきたんじゃない」とハーパーは断ります。
MEN 同じ顔の男たちのネタバレあらすじ:承
散歩に出かけたハーパーは教会に向かいます。厳かな祭壇には葉で覆われた男性の顔が、反対側には女性の姿が刻まれていました。信徒席に座った彼女はまた夫ジェームズとのやりとりを思い出します。
[回想]殴ったあと謝ろうとするジェームズを「出てって!」とハーパーは追い出し、「もう二度と会わない」と言ってドアを閉めました。
その場でハーパーは大声を出し、うつむいて泣いていました。
外に出たハーパーは、女性の仮面をつけて座っている少年を見かけます。少し驚きながらも声をかけると彼は「ゲームしよう」と言い出します。彼女が困っていると、背後から牧師が「帰りなさい」と助け船を出してくれました。少年が悪態をついて立ち去ると、牧師は問題のある子なのだと弁解します。
そしてハーパーが悩んでいることを察し、座って話をすることを勧めてきました。彼女は夫と口論になり殴られたこと、その後上層階に侵入した夫が事故か自殺か不明だが転落死したことを話し、落ちていく彼と目が合ったような気がしてそれが自分を苛んでいると告白します。牧師はハーパーに理解を示しながらも、夫に謝る機会を与えたか?と質問してきました。時に男は女を殴るがそれは死ぬほど悪いことではない、と。「ふざけんな!」と言ってハーパーは立ち去ります。
そのころ、逮捕された全裸男は牢の中で自らの額に傷をつけ、そこに1枚の葉っぱを埋め込んでいました。
その夜パブを訪れたハーパーは、居合わせたジェフリーから不本意ながら一杯の酒をおごられます。店にはほかにマスターと2名の男性客がいましたが、そこへひとりの警官が入ってきました。全裸男が釈放されたと話すその警官にハーパーは驚いて食ってかかりますが、リンゴを盗んだだけで害はないと取りつく島もありません。「クソ野郎ども!」と捨て台詞を吐いてハーパーは店を出ます。そんなハーパーを追う全裸男の影…。
帰宅したハーパーはライリーに電話をかけ、今日起こったさまざまな出来事について愚痴を言います。ライリーは、そんな男の局部は「その」斧で切り落としてしまおうと笑います。ハーパーはあたりを見回して斧をさがしますが見つかりませんでした。
そしてハーパーはライリーに屋敷の住所を知らせようとしますが、また電波状態が悪くなり通話が切れてしまいます。メッセージアプリで地図を送って、とライリーから通知がありハーパーがそれを送ると、突然画面に「クソ女め!」というメッセージが表示されます
MEN 同じ顔の男たちのネタバレあらすじ:転
庭の照明が急につき、先ほどの警官が立っているのが見えました。ハーパーが外に出て声をかけても彼は無言です。照明が消えて再びつくとその姿は消えていました。するとリンゴの実が大量に落下し、別の男が叫びながら走ってきました。
あわてて屋内に入りドアの鍵をかけると、外の照明が点滅しドンという大きな音が聞こえてきます。ハーパーはキッチンにかけこみ包丁を手に取り隠れていると、窓ガラスが割られなにかが入ってきました。ハーパーがキッチンから廊下に出ると玄関のドアがドンドンと叩かれ開けられてしまいます。そこにいたのはジェフリーでした。
心配してやってきた彼とキッチンに向かうと一羽のカラスが床で動いており、拾い上げた彼は「可哀想に」と言いながら首をひねって絶命させました。ハーパーが状況を説明し、問題を解決させるためジェフリーは外を確認しに出ていきます。「異状なし」と言ってさらに庭の外に向かうジェフリー。ハーパーが見守っているとまた照明が消え、再びついたときにはジェフリーの姿はなく代わりに全裸男が立っていました。
以前より頭部の葉っぱが増えているその男はハーパーを見つめると、フーっとタンポポの綿毛を彼女に向かって吹きかけます。フワフワと漂うそのひとつがハーパーの口の中へと吸い込まれていきました。
ハーパーはゆっくりと屋敷に入りドアを閉めます。全裸男はドアの郵便受けからのぞき込み、左手を差し込んできました。その手に導かれるように自分の手を重ねるハーパー。男はその手をつかみ、ハーパーは反射的に叫び声を上げ持っていた包丁を腕に突き刺します。男は手をドアから抜こうとしますが包丁が引っかかって抜けません。
仕方なくジワジワと手を裂きながらゆっくりと引き抜いていき、ドアは血だらけになりました。ハーパーがあとずさりすると、今度はキッチンから音がします。包丁を拾い上げてハーパーがキッチンに向かうと、カラスの死骸に仮面をかぶせ、あの少年がゆらゆらとそれを揺すっています。その左手はぱっくりと裂けていました。少年はゆっくりとハーパーの方に向かって歩み寄り、彼女が向けた包丁に自分の身体を押しつけます。
「切り刻んでやる」と脅すハーパーですが少年は「できないね」と余裕です。「かくれんぼをしよう」と言い、ハーパーはキッチンから逃げ出すとドアを閉めてそこで10数え始めます。「よし、行ってやる」とハーパーが覚悟を決めた途端、玄関ドアが破られパブにいた男のひとりが侵入してきました。ハーパーは2階へ逃げ、バスタブのある部屋に逃げ込みます。
MEN 同じ顔の男たちの結末
静かになりハーパーが後ずさりすると、部屋のドアが開き牧師が入ってきました。彼は裂けた左手の血を水道でていねいに洗ってからハーパーに対峙します。「あなたは何なの?」というハーパーの質問に牧師は「白鳥だ」と答え、『レダと白鳥』の詩を引用しながら彼女に性的な魅力を感じていると言って迫ってきます。裂けた左手でハーパーの首をはさむと、牧師は洗面台に彼女を押しつけ犯そうとしますが、そのタイミングでハーパーは包丁を牧師に深々と突き刺しました。
屋外に出たハーパーは自分の車に乗りこみ走り出します。少し走ると前方の路上に男が立っており、ハーパーは彼をはねてしまいます。それがジェフリーだったと気づいたハーパーは車を停めて狼狽していると、起き上がったジェフリーがやってきて車に乗り込み、無理矢理ハーパーを引きずり出すとそのまま車を運転していってしまいました。
立ち上がったハーパーがぼーっと星空を見ていると、前方から全速力で車が走って戻ってきました。危険を感じたハーパーは逃げ出しますが、ジェフリーの運転する車は執拗に追いかけてきて、結局彼女は屋敷の庭に戻ってきてしまいます。車は庭の入口にわざとぶつけられ大破し、ハーパーが身構える中、頭部から枝の生えた全裸男が庭に入ってきました。その左手は裂け、右足はジェームズの遺体のように奇妙に折れ曲がっています。
ゆっくりとハーパーに近づきながら男の腹は膨れ上がり、やがて股の間から別の男を出産します。あの少年のようにも見えるその男は、悲しげな顔でゆっくり歩きながら膨らんだ腹からまた同じ顔の男を産み出します。牧師のようにも見えるその男はゆっくりとハーパーに近寄り屋敷の中へと入ってきます。ハーパーは蔑んだような表情でそれを見つめています。
今度は男の背中が割れ、そこからまた同じ顔の男が出てきました。ハーパーが暖炉の薪の近くにあった斧を手に取って様子を見ていると、男の口から足が出てきました。苦悶の表情を浮かべる男…。
いつの間にかあたりは明るくなっており、あきれたような顔のハーパーの前に生まれたばかりの全裸のジェームズが姿を現します。その右足は折れており、彼はそのままソファに腰をおろします。ハーパーが隣に座わると「ぼくを見ろ」とジェームズ。そして「ぼくは死んだ。君がやったんだ」と続けます。「私に何を求めてるの?」とハーパーがたずねると、ジェームズはこう答えます。
「愛だ」
しばらくして、屋敷の外にライリーが車で到着します。大破したハーパーの車を見てただならぬ事態を予感したライリーが庭に入ると、玄関のドアは開かれ、大量の血痕が見えました。庭の奥の方に目をやると、服に血のついたハーパーが座っており、ライリーに気づくとうすく微笑みます。心配そうに見つめるライリーのおなかは臨月で大きく膨らんでいました。
以上、映画「MEN 同じ顔の男たち」のあらすじと結末でした。
「MEN 同じ顔の男たち」感想・レビュー
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ボカロの考察厨がいかにも好きそうな映画でした。
途中から2倍速で見ていたけれど、ツールを入れて4倍速ぐらいで見たいと思わせてくれた極稀な映画です。
「人間の狂気と正気の狭間には根源的な自己存在の意味が隠されている」これが私のこの映画を見終えた直後の率直な感想である。或いは仮に、「狂気と正気の狭間」を、「夢と現実の狭間」に置き換えてもよいだろう。そもそも経験的に(正直に)言って根源的な探究は、「正気」や「現実的」な「正攻法のアプローチ」(理詰め)だけで追い込むには限界がある。だから「夢や狂気」と言った「感覚的でスピリチュアル」な要素も取り入れないと「根源的な真理」を語ることは不可能なのである。 この根源的な真理とは「ただそこに存在しているだけ」と言う「厳然たる事実」のみである。このことは言語(或いは論理)のみに偏重する「西洋哲学」ではなく、「東洋哲学」の「禅」の本質である「非言語」(ノンバーバル)の感覚でなければ理解されない。「ノンバーバル:非言語」とは=「五感を含めた感覚」のことである。この映画の中で効果的に使われている「美しい視覚イメージ」と、短いフレーズの「断片的な音楽」(サウンド)の数々こそが正に「非言語であり一種のメタファー」なのである。なので結論的に言ってしまえば、そもそもこの映画には明確な答えなどないのである。例えば古典派の「ピアノソナタや弦楽四重奏曲」などには明確な答えなどなく、その曲の「解釈は無限」に存在する。「MEN同じ顔の男たち」も同様で、この映画の解釈もまた無限なのである。だから芸術的な完成度を誇る名園(美しい庭園)や「天然自然の絶景」を見る感覚でよいのではないか。つまり仮に(無理に)この作品に一つの答えを与えようとすれば、その時点でこの「映画の魅力が半減」してしまうように思えるのだ。 だから「MEN同じ顔の男たち」は極めて「奔放な作品」に仕上がっている。言い換えるならば、「自由で闊達な作風」こそが「この作品の命」(本質)なのであるということ。 「天空を飛翔する鷹」や「大海を回遊する鮪」(マグロ)は大気の存在も水の意味も解らない。それでも彼らはただひたすら「自由闊達」に活動している。 この映画の中でヒロインのハーパーを演じたジェシー・バックリーが素晴らしかった。彼女と森の瑞々しい関係性がこの映画の「肝」である。ハーパーは森(自然)に溶け込んでいたし、森もまたハーパーに共感し同化していた。このことはハーパーの呼びかけ(voice)に「エコー」となって呼応する現象で明らかである。この「エコー」は映画のあらゆる局面で効果的に繰り返される。恰も「幻想交響曲」の「固定観念」(固定楽想:イデーフィクス)のように反復されるのである。 そしてこの手法は映像にも多用されている。映画の中では同じようなシーンやシーケンスが重複されているのだ。そしてこれらは一種の「暗示効果」を生んでいる。 同じ顔をした男たちは、ハーパーの「胎内で複製された幻影」なのかも知れない。本当はハーパーは何処にも行かず、時も流れず死んだジェームズの「事故現場」(マンションの部屋)に留まっていて、ほんの一瞬の間にこの「リアルな長編の悪夢」を見ていたのではないかと推測する。これは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「怪談」の中の「安芸之助の夢」と同じパターンである。 むろんこれも一つの説であって、この映画の答えであるとは限らない。 そう考えると「千変万化」するこの作品の着想そのものが素敵で楽しく感じられるのである。「シュールな怖さ」と「不思議な感覚」に満ちたこの美しい映画は「稀代の傑作」だと思うのだが如何に?