華麗なるヒコーキ野郎の紹介:1975年アメリカ映画。第一次世界大戦終戦直後のアメリカの田舎町を舞台に、空に魅了され、単葉機で大空を駆け巡ることに情熱を燃やした伝説のヒコーキ野郎たちの生きざまを描いたドラマです。
監督:ジョージ・ロイ・ヒル 出演者:ロバート・レッドフォード(ウォルド・ペッパー)、ボー・スヴェンソン(アクセル・オルソン)、ボー・ブランディン(エルンスト・ケスラー)、スーザン・サランドン(メリー・ベス)、ジョフリー・ルイス(ニュート・ピップ)、エドワード・ハーマン(エズラ・スタイルズ)、フィリップ・ブランズ(ドク・ディルホファー)、マーゴット・キダー(モード)ほか
映画「華麗なるヒコーキ野郎」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「華麗なるヒコーキ野郎」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
華麗なるヒコーキ野郎の予告編 動画
映画「華麗なるヒコーキ野郎」解説
この解説記事には映画「華麗なるヒコーキ野郎」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
華麗なるヒコーキ野郎のネタバレあらすじ:起
第一次世界大戦がようやく終結した1920年代のアメリカ。大空を飛ぶことに魅了された元空軍パイロットの中には、単発のプロペラ機で各地の田舎町を飛び回り、人々を飛行機に乗せて遊覧飛行を行い、曲乗り飛行をして金を稼ぐ“バーンストーミング”と呼ばれる職業に就く者が数多く存在していました。ウォルド・ペッパー(ロバート・レッドフォード)もその一人でした。ある日、ペッパーが中西部の田舎町にやって来ると、そこでは既に商売敵の元空軍大尉アクセル・オルソン(ボー・スヴェンソン)が先回りしていました。そこでペッパーは何ら躊躇うことなくオルソンの愛機のタイヤを外し、オルソンは胴体着陸を余儀なくされて赤っ恥をかかされました。その夜、ペッパーは酒場で女を囲んで上機嫌で酒を飲み、大戦中にドイツの撃墜王だったエルンスト・ケスラー(ボー・ブランディン)と互角に渡り合ったという自慢話を展開しました。一方のオルソンも黙ってはおらず、仕返しとして女性バーンストーマーのメアリー・ベス(スーザン・サランドン)と組んでペッパーの持つスピード記録を破り、人々にペッパーの自慢話は大ボラであるとバラシてしまいます。
華麗なるヒコーキ野郎のネタバレあらすじ:承
ペッパーにとってケスラーは憧れの存在であり、腕に自信のあるペッパーはいつかケスラーと勝負してみたいと願っていました。そんなある日、ペッパーはケスラーがドク・ディルホファー(フィリップ・ブランズ)率いる航空サーカス団の一員としてアメリカ各地を巡業していることを知り、オルソンとともに早速見物に出向きました。二人はその場でディルホファーにスカウトされ、チームを組んでサーカス団に参加することになりました。サーカス団の仕事は明らかにバーンストーミングよりも収入が多く、ペッパーの夢である友人エツラ・スタイルズ(エドワード・ハーマン)が設計した新しい単発機を完成させて乗り回す計画に一歩前進したかに思えましたが、運悪くペッパーは新しい曲芸の練習中に失敗して重傷を負ってしまい、ペッパーはスタイルズとその妹で恋人のモード(マーゴット・キダー)の家で療養することになってしまいました。やがて復帰したペッパーはサーカスに戻り、再びオルソンと組んでパフォーマンスを繰り広げることになりました。しかし、時代の流れは予想以上に早く、もはや目の肥えた観客はこれまでのパフォーマンスでは満足しなくなっていきました。
華麗なるヒコーキ野郎のネタバレあらすじ:転
ペッパーはメアリーと組んで新たな曲芸の練習に励んでいましたが、ある時メアリーは練習の失敗により墜落死してしまいました。元ペッパーの指揮官で今は政府の航空管視官であるニュート・ピップ(ジョフリー・ルイス)は、過熱化する一方の危険な飛行機ショーに歯止めをかけるべく、見せしめの意味も込めてペッパーを飛行禁止処分としました。
新型機を完成させたスタイルズはペッパーに代わって試験飛行に飛び立ち、最初のうちは見事な曲芸を見せて多くの見物人たちを魅了しましたが、次の瞬間、機体はバランスを失って地面に激突、しかも見物人が投げ捨てたタバコの火が機体に燃え移り、ペッパーは懸命にスタイルズを助けようとしましたが果たせませんでした。怒り狂ったペッパーは飛行機に乗り込み、低空飛行を繰り広げて見物人たちを蹴散らし、何人かに怪我を負わせてしまいました。この騒ぎでペッパーは飛行資格を永久に剥奪されてしまい、それでも空を飛ぶことを諦めきれないペッパーは数々のプロモーターのもとを歩き回りましたが、誰一人として資格のないペッパーを雇い入れる者はいませんでした。
華麗なるヒコーキ野郎の結末
失意のペッパーはモードと結婚して堅気になろうと決心したその矢先、ペッパーはオルソンがハリウッドの映画会社で飛行スタントマンとして働いていることを聞きつけました。かつての情熱をすっかり取り戻したペッパーはピーター・スドルフという偽名を使ってハリウッドに乗り込み、誰もペッパーの存在を知らない映画業界で正体がバレないよう慎重に活動していました。そんな時、ペッパーはケスラーの活躍を描いた映画がケスラー本人の主演で撮影されることを知り、スタントマンとして参加することになりました。念願叶って映画の中でケスラーと1対1の空中戦を演じることになったペッパーは、クライマックスの空中戦撮影の日、ケスラーと共に監督の目を盗んで大空に舞い上がり、かつての大戦時代と同様に思う存分空中戦を繰り広げました。そして勝負はペッパーの勝利となり、ペッパーは大戦時代と同じようにケスラーの健闘を称えると、弧を描きながら空の彼方へと消えていきました。
「華麗なるヒコーキ野郎」感想・レビュー
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この作品を初めて観たのは中学生の頃のテレビ放映でした。OPとENDのテーマ曲が、しっとりとしたメロディアスなピアノ曲で、今でも耳に残っているのですが、後にレンタルビデオの時代になって、あのテーマ曲聞きたさに借りて来て観た処、なんと曲が全く違っていて驚いたのを覚えています。あれは一体何だったのか?
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この映画「華麗なるヒコーキ野郎」は、ジョージ・ロイ・ヒル監督、ウィリアム・ゴールドマン脚本、ロバート・レッドフォード主演という「明日に向って撃て!」の黄金コンビによる、ノスタルジーに溢れた、ごきげんな作品ですね。
まず冒頭のユニバーサルのマークが、1970年代のものではなく、飛行機が地球を一周する、この映画の舞台背景となる1920年代当時のものなのが、実に凝っていると思います。
ピアノのソロが被さるオープニングは、第一次世界大戦の空軍のエースたちのモノクロ写真で、モロにジョージ・ロイ・ヒル監督の趣味の世界が出ていると思います。
もともと、朝鮮戦争で空軍のパイロットを務めていたというジョージ・ロイ・ヒル監督は、大の飛行機マニアで、多分、「スティング」でアカデミー作品賞と監督賞を獲得した後、次は何を撮りたいかと製作会社に聞かれて、すぐにこの映画の企画を提出したのかも知れません。
製作会社としても、当時、人気絶頂のロバート・レッドフォードが出演してくれれば、「スティング」の顔合わせの復活だし、即座にGOサインを出したに違いありません。
そして、脚本は「明日に向って撃て!」で、やはりロイ・ヒル&レッドフォードと組んだウィリアム・ゴールドマン。
当時のインタビューで、ゴールドマンは複葉機なんて好きでもなんでもなかったが、執拗にロイ・ヒルにくどかれて、執筆を行なったと言っています。そして、レッドフォードも同じような趣旨の発言をしており、この作品でロイ・ヒルは、原案、製作、監督の三役を務め、何と彼の愛機二機を出演させているほどなのだ。
この映画の物語は、1926年のネブラスカで幕を開ける。
小川で釣りをしている少年の耳に飛び込んできたのは、飛行機のプロペラ音。
近くの草原へと走ると、そこに「グレート・ウォルド・ペッパー」と、描かれた複葉機が飛来する。この機から降りてきたペッパーことレッドフォードは、ゴーグルをはずすと、満面の笑顔で、集まった人々を遊覧飛行へと案内する。
ここでは1926年という年の設定が、絶妙なのだと思います。
それは、かのリンドバーグが、ニューヨークとパリの間の単独無着陸大西洋横断をやってのけたのは1927年、この同じ年にアメリカでの”連邦航空法”も整備され、パイロットの資格や飛行機の対空性の基準が、厳しく審査されるようになったのだ。つまり、この1926年というのは、飛行機が輸送手段として考えられる以前の、大空をただ単に駆け巡ることの出来た最後の年でもあるのだ。
映画の中で”連邦航空法”の施行を聞いたレッドフォードが、「俺は郵便配達じゃない。飛行機乗りなんだ」と呟くシーンがあり、泣かせてくれます。
こうして、映画の前半は、レッドフォード扮する旅回りのパイロットたちの大活躍を描いていくんですね。
走る車から飛行機へと梯子を伝ってよじ登る、飛んでいる飛行機の翼上を歩く、はては、飛行機から飛行機へと空中で乗り移るなどの荒業が続出し、飛行機マニアのロイ・ヒル監督は、ウィリアム・A・ウェルマン監督の第一回アカデミー作品賞受賞の「つばさ」以来、特撮を一切使わない”飛行機映画”が作りたかったらしく、どの場面も本当に飛行機を飛ばしているのだ。翼から翼への空中での乗り移りは、さすがにレッドフォードがやっているとは思えないが、それでも直前の地上二、三千フィート地点で翼の上に立っているレッドフォードのショットがあるのは、驚きを通り越して、それだけで感動的でもある。
雲がないと高さが出ないため、雲待ちをしながらレッドフォードを翼の上に立たせたという逸話もあり、ロイ・ヒル監督の、このこだわり恐るべしですね。
そして、CG万能の時代を迎えた今、この映画は”永遠不滅の輝き”を放っていると思います。撮影で死者が出なかったのが不思議なくらいだが、映画の後半でレッドフォードのペッパー機が墜落する場面は、飛行機スタントの神様フランク・トールマンが起こした本当の事故だということで、実際にトールマンは骨折しているらしい。
この危険な空中サーカスのやりすぎで、飛行機免許を取り上げられたペッパーが、偽名を使ってハリウッドに乗り込み、第一次世界大戦の空軍のエース(ボー・スヴェンソン)とともに、戦争映画の空中スタントを務めるラストは、まさに感動ものだ。
しかも、ペッパーの機は、どこまでも高く飛んで、雲の間に飛び込んで消えてしまうのだ。
ロイ・ヒル監督は、後にジョン・アーヴィングの「ガープの世界」を映画化した時、レスリング・マニアのガープの設定を、赤ちゃんの頃、母親に空へと放り上げられたことが忘れられない青年へと変更した、ロイ・ヒル監督らしい決着の付け方でもあるような気がします。現実よりも、多分、空を飛んでいることの方が好きなロイ・ヒル監督。
この「華麗なるヒコーキ野郎」という映画は恐らく、ジョージ・ロイ・ヒル監督にこそふさわしい呼び名だと思います。
戦争は無慈悲に人の運命を弄ぶ。この映画に登場する「ヒコーキ野郎」も、戦争という人類最大の愚行に関わらなければ、平凡だけれどもそれなりに満ち溢れた人生を歩めたはずなのに、と私はつい思ってしまいます。男の価値はその就く職業による、ものだけだとも思いませんが、少なくとも志を立てた稼業以外では生きて行く術を失う、ということは間違いのないことのようです。特に一度は空を縦横自在に駆け巡る爽快感に魅入られてしまったら、それまでの地上でのこせこせした生き方へ戻れないというのは誰にでも起こりうることなのだと強く思いました。そうですね、この点では確かに大空には悪魔が潜んでいると言えるでしょう。その道へ進んだ人間達は周囲の人間の見た目とは違い、常に死と隣り合わせの人生を歩んだことを一体どれくらいの人間が知っていることやら。こう思うと私はとても切なくなるのです。正直金は欲しい。けれどそれ以上に空飛ぶことが人生の目的だと見定めてしまうと、サラリーマンパイロットではとても満足する生き方はできはしない。だから俺は民間のヒコーキ屋になったんだ、という彼らの心情が痛いほど感じるのです。人間とは不思議な生き物で、あえて危険に挑もうとする痛快な命知らずが必ずどこかにはいるもの。その生と死の隔たりが薄くなればなるほど刹那的な快感につながるよう。これは実態を持たない厄介な麻薬のようなものです。耐性が強くなればなるほどより過激な刺激を求め、後ろから迫ってくる死に追いつかれた瞬間に、ほんの一瞬の煌めきだけを残して散華する。まさに太く短くの人生ですよね。平凡な日常に浸り切っている我々一般の凡人には理解できないけれど、自分だけの人生の回答が見えるような作品でした。エンドロールで主人公の生没年が現れた時。「やっぱり彼もか」と心の独白が聴こえて来ました。けれど長短だけが人生ではない。モノクロの写真の彼が多くの観客にそう答えたように思えました。