大魔神の紹介:1966年日本映画。魔人像を神と崇める花房家の領土を腹心の家老によって奪い取られ、平民をもののように扱い、神とされる魔人像まで壊したことから、魔人像の本体である大魔神が現れ悪人どもを退治する時代劇怪獣映画です。ゴジラやガメラなどの怪獣映画全盛の時期に大映が放った異色の作品です。
監督:安田公義 出演者:高田美和(花房小笹)、青山良彦(花房忠文)、藤巻潤(猿丸小源太)、五味龍太郎(大舘左馬之助)、島田竜三(花房忠清)、遠藤辰雄(犬上軍十郎)、杉山三九(梶浦有助)、伊達三郎(中馬逸平)、月宮於登女(巫女の信夫)ほか
映画「大魔神」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「大魔神」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「大魔神」解説
この解説記事には映画「大魔神」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
大魔神のネタバレあらすじ:起
丹波の国の領主花房家は平民と共に平穏な暮らしをしていましたが、家老腹心の大館左馬之助一派らによって花房忠清は討たれ領土は乗っ取られました。幼い子供の忠文と小笹は小源太に連れられ逃げ、巫女の所に助けを求めました。巫女は山の魔人の神を崇めていて、二人と小源太を魔人の山の滝の上にある魔人像の横の洞窟に連れて行きました。そして神が住んだとされる祠に3人を過ごさせました。花房家から奪い取った領土では、平民を城造りの労働者に使っていました。男たちは自分の家に帰ることはできず、過酷な労働が続きました。疲労や病で倒れる物が続出していました。
大魔神のネタバレあらすじ:承
やがて10年が過ぎ、忠文と小笹は立派な大人になっていました。小源太と忠文は山や川に猟に行き力量をまかなっていました。しかし左馬之助らは魔人像が目障りでした。巫女は左馬之助に対し魔人さまの祟りが来るとしつこく言っていました。そのころ忠文は左馬之助を討伐して花房家を復活させると言い始めました。その時小源太が私が先に市中に行って花房家の残党と連絡を取り合い体制を固めると言ったため小源太に任せました。山を下りた小源太は左馬之助の配下の連中に見つかります。かろうじて逃げたものの捕らわれてしまいました。その光景を見た一人の子供が魔人像に助けを求めに来ました。子供は小笹と忠文に会い、小源太が捕らわれたことを告げました。忠文も山を下り、宙吊りにされた小源太を助けようとしますがそれが罠で忠文も捕らわれてしまいました。
大魔神のネタバレあらすじ:転
左馬之助が魔人像を破壊すると言い始めました。巫女が絶対に祟られると止めますが、左馬之助は巫女を切り殺してしまいます。そして配下の者たちは魔人の山へ向かいました。途中道に迷いますが、そこで小笹と子供を見つけ魔人像まで連れて行かせました。そして止める小笹をよそに魔人像を金槌で破壊し始めました。そして額に金属の杭を打ちこんだ時、魔人の額から血が流れました。その後地割れが起りだし、魔人像を壊しに来た連中は逃げました。小笹は涙ながらに魔人像に忠文や小源太を助けてくれと祈りを捧げました。
大魔神の結末
城の工事現場では小源太と忠文が張り付けにされています。左馬之助の指令でヤリが刺されようとした瞬間空から光の玉が下りてきました。降り立ったのは魔人像でした。そして腕を顔の前で振ったその時、埴輪の顔が怒りに満ちた鬼の形相に変わりました。左馬之助達の子分を次々殺し、大魔神は建物や塀を壊しながら突き進みます。忠文と小源太は大魔神によって助けられました。そして左馬之助は大魔神が額の杭を抜いて突き刺し殺されました。すべてを破壊し、悪人を倒し仁王立ちする大魔神の足元に小笹が駆け寄り、お礼の祈りをし、怒りを鎮めてくださいと涙を流しました。涙の粒が大魔神の足に落ちた瞬間大魔神は粉々に砕け、光の玉となって空へ飛んで行きました。
この大映製作の「大魔神」は、1935年に製作されたフランス映画の「巨人ゴーレム」に多大な影響を受けて製作されたというのは有名な話です。
1935年に製作されたフランス映画「巨人ゴーレム」は、皇帝の暴虐な圧政に苦しむユダヤ人の僧侶が、泥人形のゴーレムに生命を吹き込み、ユダヤ人を迫害から守ってもらおうとする物語ですが、まさに、「大魔神」は、この「巨人ゴーレム」の基本的なコンセプトを、日本古来から伝わる”埴輪の武神像”に仮託して、農民を苦しめる悪領主を倒すために、その姿を現わすのです——-。
この大映の特撮時代劇「大魔神」という映画が、子供向けに堕していず、大人の鑑賞にも耐え得る立派なドラマになっているのも素晴らしいのですが、加えて、実写の人間を入れ込んだ見事なブルーバック合成や、二・五分の一の精巧なミニチュア・ワーク、そして、真っ赤に染まった空が印象的な見事な色彩設計などが完全に融合し、クライマックスのあの迫力のある破壊のシーンが生まれたのだと思います。
これこそが、我々、映画ファンの心を鷲づかみにした、この映画の最大の魅力だと思うのです。
特に城や日本家屋の破壊シーンは、東宝特撮映画で描かれる怪獣映画の大都市破壊のそれとはひと味違った”美学”が感じられて、いいんですよね。
瓦の一枚一枚までも精巧に作られた、この”圧倒的なリアリズム”は、ミニチュアだと全く感じさせない重量感に満ちて、本当に素晴らしいの一語に尽きます。
しかし、この映画「大魔神」が素晴らしいのは、何といっても、単純に悪を征伐するための神ではなく、”悪魔的にまで恐ろしい神の精神”を持ち合わせている事だと思うのです。
大魔神は、十字架のようになった柱に悪領主を押さえつけ、鉄釘で串刺ししただけでは怒りはおさまらず、今度は村里にその怒りの矛先を向けようとするのです——-。
単なる勧善懲悪の神であれば、悪領主を倒して、めでたし、めでたしで終わるところを、自らの怒りを鎮めるまで大暴れしてしまうのです。
つまり、時に”善神”にも、”破壊神”にもなってしまうのが、この大魔神の大いなる魅力だと思います。
本当に、映画好きの私の心を虜にし、”映画的興奮”で、ワクワクさせてくれます。
大魔神が歩を進める度に地響きが鳴り渡り、歩いた後が瓦礫と死体の山を築いてしまう。
これはもう尋常じゃありません。まさしく悪魔そのものではないかと思うのです。
柔和な顔を持つ”武神像”と、怒りが頂点に達した時に、顔が”仁王像”に変わる大魔神。
これは、一つの神像の中で、”優しき心と怒りの心”がせめぎ合い、その時の表情が”神像の顔”になるのだと思っています。
そして、この映画で大魔神の暴走を止めるのは、心が清らかで美しい、小笹(高田美和)の”切なる願いと涙”なのです——-。
小笹の必死の、命を懸けた切なる願いに打たれた、神像の”優しき心”が覚醒して、”怒りの心”を鎮め、再び、元の柔和な武神像の顔へと戻っていくのです。
元ネタになった「巨人ゴーレム」にはなかった、オリジナリティ溢れる「大魔神」の魅力の全てがここにあるのです。