雁の寺(がんのてら)の紹介:1962年日本映画。水上勉の直木賞受賞作を映画化。捨て子だった見習い僧が憎悪をたぎらせ、殺人者へと転落してゆく姿を陰鬱なモノクロ映像によって描いている。タイトルバックとラストのシークエンスのみが華やかなカラー撮影となっている。
監督:川島雄三 出演:若尾文子(桐原里子)、高見國一(堀之内慈念)、三島雅夫(北見慈海)、山茶花究(雪州)
映画「雁の寺」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「雁の寺」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「雁の寺」解説
この解説記事には映画「雁の寺」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
雁の寺のネタバレあらすじ:1
時代は昭和初期。京都画壇に名をはせた岸本南嶽が臨終を迎えようとしています。古くからの友人であった孤峯庵の住職・北見慈海はその遺言として、愛人である桐原里子の世話を頼まれます。元来好色である慈海和尚は喜んでそれを承諾。里子は初七日の翌日から孤峯庵の庫裡に住まうことになりました。
雁の寺のネタバレあらすじ:2
孤峯庵には和尚のほか、慈念という十代の少年が見習い僧として和尚に仕えています。彼は無口で、絶えず何かに耐えているような表情を見せ、他人からその感情をうかがわせないところがありました。最初は気味悪がっていた里子ですが、彼が若狭の寺大工の子供であり、口減らしのために十歳の時から小僧にきている事を知ると、同情の気持ちが起こります。さらに和尚が何かと慈念に冷たい仕打ちをするのを目の当たりにし、その同情は膨れ上がってゆくのです。
雁の寺のネタバレあらすじ:3
一方の慈念は昼間から和尚が里子と戯れている様子を見て、陰気な欲望がたぎるのを覚えます。寺の仕事に専念してその欲望を振り払おうとしますが、里子の白い肌を目の前にすると手元もおろそかになるのです。やがてある夜、里子が慈念の欲望を見透かしたかのように寝室に忍んできて、その肉体を慰めようとします。最初は抵抗した慈念でしたが、その肉欲には打ち勝ち難く、結局関係を持ってしまいます。真面目に修行に打ち込もうとしていただけに、性欲のまま行動したことに悔恨の涙にくれる慈念。しかし、この事が慈念にある決心を促します。
雁の寺のネタバレあらすじ:4
ある雨の夜、友人の僧侶の寺から酩酊して戻ってきた和尚。大門脇の耳門で待ち構えていた慈念は、足元もおぼつかない和尚にむかって体を踊らせます。手には竹小刀があり、それは和尚の心臓をえぐりました。和尚は絶命。慈念は殺人を犯したものの、普段から恨みを覚えていた和尚は死んで当然だと思っており、それのせいで自分が罰せられるつもりはありません。
雁の寺の結末
程なくして行われた檀家の通夜の席で、人がいなくなった機会を利用し、檀家の棺桶に和尚の死体を入れます。翌日の葬式、棺桶が重い事を不思議がる遺族もいましたが、そのまま土葬が行われ、慈念の完全犯罪が成立。しかし、悲しみと不安に暮れる里子の姿を見るうちに慈念の罪悪感が膨れ上がり、彼女のそばにいることに耐えられなくなります。寺を無断で出てゆく彼の心には、自殺の決意がありました……。時代は下り、孤峯庵へ観光バスが乗り付けます。今はこの寺も過去の経緯など忘れ去られ、観光名所となっているのです。襖絵として残った岸本南嶽の雁の絵が客たちの目を引いています。
「雁の寺」感想・レビュー
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水上勉氏は、ご自身の幼少の頃
この主人公慈念と同様の体験をしている。小説『雁の寺』には、その体験が投影されている。また金閣寺炎上を題材にした作品にも、修業時代のやりきれなさが、濃く反映されている。映画化した川島雄三監督の才能に脱帽。正直なところ川島作品をしっかり観たことはなかったが、没落60年ということもあり、数本鑑賞。この時代にこのシュールさは何だ!まいった。 -
もう一度見たい観たい!
「雁の寺」の原作者である水上勉とは幾つかの共通点があり不思議な縁を感じる。水上は小僧(寺男=下男・下僕)の慈念を通して自らの生い立ちや来歴を語っている。身をもって経験したことゆえに説得力に溢れているのだ。私は昭和34年に京都の西陣(千本中立売)で生まれて社会人になるまでの間を京で過ごした。大学時代は哲学(仏教哲学)や心理学を研究し、臨済宗(京都市内の禅寺=妙心寺派)と真言密教(高野山の古刹)を取材した。取材と言うのは具体的には寺男(学生アルバイト)として作務衣を身に付けて住み込みで働いたことである。水上が堕落した禅僧を見て来たように、私も高野山の高僧(名刹の住職)が妾や女子大生を囲っているのを実際にこの目で見て来た。中学生の愛娘の為に100万円以上もするドレッサー(化粧台)を現金で購入し、1000万円のペルシャ絨毯をキャッシュで2~3本も買ったりしていた。私は坊主の錬金術(金のなる木)も含めて寺の裏の裏まで知っている。この映画は人間の飽くなき欲望(正に煩悩)の醜悪さをリアルに活写している。慈念が糞尿を桶に汲み取るシーンと住職慈海が里子に欲情して肌を合わせるシーンは実に凄まじい。如何に高価な美食を口にすれど、また妙齢の美女であったとしても人間から出て来る糞尿は何ら変わるものではない。この生々しい命のやり取りの先に慈念と里子の逢瀬(交合)と和尚の死(殺人)が控えている。この作品はモノクロ画面を通して暗闇に潜む人間の欲望や罪業の底知れぬ深さを見事に捉えている。カメラがじっと見つめる仄暗い空間のその先には更に深い暗闇が広がっていたのだ。暗闇の中にある慈念の居所(棲みか)には魔物が潜んでいたのだ。或いは地獄の入り口だったのかも知れない。川島雄三は溝口健二や小津安二郎のような徹底した様式美には拘らず時には傍若無人にさえ振る舞って見せるのである。そのことで、類型化できない人間の狂気が炙りだされるだ。若尾文子は現世の欲得に絡み取られた情婦を艶めかしく演じている。ここでも若尾の狂おしいほどの美貌と類稀なる色香は男を虜にするに十分すぎる。西洋かぶれしたインテリ坊主を演じた山茶花究の飄々とした演技も面白かった。和尚を演じた三島雅夫の色欲にまみれた怪僧ぶりが出色でこれはもうアカデミー賞ものである。通夜の夜に寝ずの番を務める慈念の読経の不気味さ、寺院の隅々まで素早く動き回って仕事をこなす慈念の異様さ。この時の慈念の姿は異様であり異形に映った。慈念が一心不乱に命を注ぎ込むこの丑の時参りの執念の深さ怖さには震撼させられた。終盤、クライマックスに向かってプレストへと展開して行く。この終盤の急展するスリルと恐怖はまるで和製ヒッチコックのようだ。既成の美の概念には敢えて拘らず、時には不快な映像を交えて撮り切った川島雄三の尋常ならざる才能に改めて敬意を表したい。日本映画史に永遠に名を刻む誠にユニークで画期的な傑作である。