プリデスティネーションの紹介:2014年オーストラリア映画。バーテンダーとしてバーで働く男の前に一人の客が現れる。ハンサムだがどこか闇を抱えたようなその客はバーテンダーに言われ自身の過去の話を始める。女として生まれ、ある出来事をきっかけに男性へと性転換したというにわかには信じられない話。しかし話はそれだけでは終わらなかった。バーテンダーにはある目的があった。それは街をにぎわす爆弾魔の逮捕。彼は時間を飛び爆弾魔を逮捕するためその客と出会ったのだ。ロバート・A・ハインラインの「輪廻の蛇」を原作にしたSF大作。
監督:マイケル・スピエリッグ ピーター・スピエリッグ 出演:バーテンダー(イーサン・ホーク) ジョン/ジェーン(サラ・スヌーク) ロバートソン(ノア・テイラー)
映画「プリデスティネーション」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「プリデスティネーション」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
プリデスティネーションの予告編 動画
映画「プリデスティネーション」解説
この解説記事には映画「プリデスティネーション」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
プリデスティネーションのネタバレあらすじ:爆弾魔
世間をにぎわす爆弾魔を捕まえるのに失敗し顔に大火傷を負った男。顔の傷も治った頃彼に最後の任務が言い渡される。ある男との接触、そのため彼はタイムマシンを使い過去へと向かう。バーテンダーとして入り込んだバーへ目的の男がやってくる。とてもハンサムだがどこか悲し気のその男に近づく。するとその客の男は彼に自身の過去を話し始める。それはまだ彼が”少女”として生きていた時代。彼はその少女の時代にある男性と出会い別れ、子供を授かった。そして奪われた。
プリデスティネーションのネタバレあらすじ:男
子供を授かったことは男にとって嬉しいと感じたことだった、しかし問題は他にあった。子供を授かったことで自身の夢を潰された、そしてその男は「すぐ戻る」と言い姿を消した。今となっては彼はその時の男を酷く憎んでいた。殺したいほどに。さらに子供を産んだ少女に悲劇が襲う。その少女は生まれた時から性器が二つあった。男と女、そして出産のさい女性器は切除しなければいけなくなった。医師は代わりに埋もれていた男性器を再建した。そうして少女は男性として生きることになった。さらにその直後生まれたばかりの子供は何者かにさらわれてしまう。
プリデスティネーションのネタバレあらすじ:バーテン
話を終えるとバーテンダーはその客、ジョンを連れて店の地下へと向かった。彼はジョンにその男に会わせてやると言う。意味が分からないまま地下へと向かうジョンは彼の取り出したタイムマシンを握らされる。そして次の瞬間目の前が大きく歪み周りの景色が一瞬で変わった。そのバーテンダーはタイムマシンを使い過去と未来を行き来しているのだという。まだにわかには信じられない話だったがそんなジョンの前にあの時の少女が現れた。それはかつて自身が体験した過去の記憶。あの時出会った男性は未来の男性となった自分だった。
プリデスティネーションのネタバレあらすじ:後継者
ジョンはかつての自分、ジェーンと恋に落ちた。ここに残ることを決意するジョンだがバーテンダーが許さなかった。彼の説得でその場所から離れた二人。バーテンダーは自身の後継者として彼を連れてきたのだ。ジョンは大丈夫だ、傷は時間が解決する。そう思う彼は爆弾魔の逮捕に向かった。しかし彼は向かった先でまたしても爆弾魔を取り逃がしてしまう。なんとかもう一人見知らぬ人間の手で建物の爆破は逃れたがその人間は顔に酷い火傷を受けていた。そしてバーテンダーの持つタイムマシンと同じ物でどこかへと姿を消した。
プリデスティネーションの結末
手がかりをもとに爆弾魔を追い詰めたバーテンダー。そこにいたのはみすぼらしい姿をした未来の自身の姿だった。現在の自分と未来の自分。未来の自分は自身の犯した罪を人類の救済だという。しかし人が死んでいるのは事実、彼は未来の自分を射殺した。部屋で物思いにふけるバーテンダーの姿があった。裸体に服をかけているだけのその身体には胸と腹に痛々しい傷が残る。女性から男性へと変わった時の痛々しい傷跡が。
「プリデスティネーション」感想・レビュー
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観たよ!! 2回目!! でもね・・よくわからん・・と言うのが分かりましたね!! ?はね~・・ジョン=ジェーンはわかるけどね・・ジョンは両性具備なんだよな・・しかし・・生殖機能が後から出来た?からジェーンと交尾することによって子供が出来たんだけど・・? 両性具備で男根を生かしてそれが成長して精子が出来た? ここがなんとも俺には解釈しかねるんだよな・・今でもそんな手術・・できないだろ? 精子がジェーンの体に入ることで赤ん坊ができるけど・・ジョンは女性器をとっぱらって男性器を生かしたまでは理解できても精子が無けりゃ子供は出来ないじゃあないか? そんな整形手術・・できるのか・・?? そこがおかしいよな・・。 でもね・・そうしないとこの話はつながらないのじゃないか? まあ・・そう思いながら観てましたけど・・ね?
いつものように作品について情報も予習もなしでの「ぶっつけ本番」での映画鑑賞を敢行。なのでしばらくの間はバーテンダーと客のジョンとの接点がよく分からなかった。そして私はこの映画を観ながら3つのことを考えていた。一つ目は「外見などの容姿」について。二つ目は「自己と言う存在」について。三つ目が「善悪や正義」の概念や定義についてである。 先ずは一つ目の「人間の外見や容姿」について語りたい。この作品を観てストッカード・チャニングが主演した「二つの顔を持つ女/整形美女の復讐」(原題:The Girl Most Likely To)と言う1973年の米国の映画を思い出した。これはサスペンスコメディともブラックコメディとも言える風変わりな作品である。知性と才能に恵まれた女子大生が、自分の容姿が原因で馬鹿にされたりいじめられたりする。その「ブスっ子」がある時に交通事故にあい、整形手術によって突如「美女」に生まれ変わる。そして散々自分を馬鹿にしていじめた者たちに復讐をしてゆくというストーリーであった。50年ほど前の中3か高1の時にテレビで1度だけ見た作品だが、とてもインパクトが強かったのでしっかりと覚えていたのだ。「プリデスティネーション」のサラ・スヌークが演じたジョンでありジェーンであるキャラと、「二つの顔を持つ女~」でのストッカード・チャニングが演じた「ブスっ子」と「整形美人」のキャラが被って見えたのである。日頃はどんなに偉そうなことを言っていても、所詮人間は外見だけで判断するものなのである。ジョンはバーテンダーに、自分はかつてはジェーンという孤児で「ダサい少女」だったと告白する。自分の容姿が嫌なので鏡を見ることを辞めてしまったとも。更にジョンはバーテンダーに向かって「里親は馬鹿でも金髪の可愛い娘を欲しがり、男たちは大きな胸と厚い唇を欲しがる」と諭すのである。サラ・スヌークの男装振りを拝見しながら、改めて「ジェンダー」についても考えさせられた。サラ・スヌークはとてもマイルドで味わい深く、滋味豊かな「燻し銀」の演技が良かった。 二つ目の「自己と言う存在」について。映画が佳境に差し掛かり大きな展開を見せる。そして衝撃の終幕を迎えるのだが決してこれで終わる訳ではない。映画自体はそこで終わるのだが、「プリデスティネーション」という物語は決して終わることのないエンドレスなのである。意味するものは「自分の尾を食べるヘビ:古代ギリシャのウロボロス」であり、究極的には「輪廻と無限ループ」のことだ。英語で言えば「We were stuck in an endless loop」である。つまりこれは「終わりのないループ」にはまってしまった物語なのである。それで結局は「素」となる一つの「卵:ラン」(生命)から、ジェニーとジョンという【Aグループ】と、バーテンダーと爆弾テロの犯人(ボマー)と言う【Bグループ】の4人(4つのバリエーション)が誕生する(派生する)。まるでクラシック音楽の「変奏曲」のように見事に変化して行くのである。いったいこの4つのバリエーションのどのキャラに「正統性」があるのか。自分とはいったい何者なのか? この問い掛けは実は奥が深くて難題なのである。精神疾患の「多重人格障害」や、仏教の「輪廻転生」などを絡めると誠に「複雑怪奇」であると言わざるを得ない。例えば合わせ鏡に映る無数の自分の姿のいったいどれが「本物なのか」など。事程左様に手の込んだSF映画の「タイムスリップ」ものは、人間存在の根幹や、自己と言う存在について深く考えさせられるである。正に哲学的であると。 最後に三つ目の「善悪や正義」の概念や定義について述べたいと思う。終盤のクライマックスで、バーテンダーの自分は未来の自分である爆弾犯を撃とうか撃つまいかと「逡巡」する。爆弾犯の自分(ボマー)は、バーテンダーの自分に向かって「俺が爆破してこいつらを殺したから、大事故や災害が未然に防げたのだ。だから俺はテロリストではなく救世主なのだ」と言ってのける。ここで私はチャップリンの「殺人狂時代」のプロットと台詞を思い出す。映画「殺人狂時代」(1947年)の終盤でチャップリン扮する殺人犯のヴェルドーが「歴史的な名言」を吐く。「一人を殺せば殺人者として裁かれるが、百万人を殺せば英雄に祭り上げられる」と言うくだりである。これは全世界で5500万人にも上る夥しい戦没者を出した「第2次世界大戦」に対するアイロニーでありエピグラムである。ただ誠に残念ながら大戦が終息した後も、かつてのソ連でも東欧でも中国でもカンボジアにおいても更に多くの血が流された。最近でも1978年の「アフガン紛争」では200万人が犠牲になり、92年~95年「ボスニアヘルツェゴビナ紛争」では200万人が殺され、2011年のシリア内戦では50万人以上が犠牲となった。その他、イラク、クルド対トルコ、リビア、イエメン、ウクライナなど数え上げるとキリがない。争っている方の「どちらかが悪」で「どちらかが正義である」などと、一方的に誰かが単純に線引きなど出来るものであろうか。テロを仕掛けた方は、「これには大義がある、だから我々が正義なのだ」と言う。テロを仕掛けられた方や、テロの「とばっちり」を受けた方は堪ったものではない。今日に至るまでの間に「米国が正義だ」と言って世界では多くの血が流された。さりとて一概には「米国が悪の枢軸」であるとも言えない。もし万が一にも「米国と言う重石」がなくなれば、米国よりも更に恐ろしい「中国やロシア」などの「ならず者国家」が武力で侵略して、隣国を一方的に隷属させるからだ。どっからどう考えてみても、そうそう簡単には答えなどは見つからないのである。私はこの 「プリデスティネーション」という映画を観ながら、改めて人間の性(さが)と業(ごう)の深さを思い知らされたのである。