シシリーの黒い霧の紹介:1962年イタリア映画。20世紀半ば、シシリー島で義賊として名をはせたマフィアの中心人物サルバトーレ・ジュリアーノの暗殺の謎を描いた社会派セミ・ドキュメンタリー映画です。フランク・ウォルフとサルヴォ・ランドーネが主演のほか、現住民たちが好演し、1962年度ベルリン映画祭銀熊賞(監督賞)、1963年度ナストロ・ダルジェント監督賞、作曲賞、撮影賞(白黒)などを受賞した名作です。
監督:フランチェスコ・ロージ 出演者:ピショッタ(フランク・ウォルフ)、裁判長(サルヴォ・ランドーネ)、ほか
映画「シシリーの黒い霧」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「シシリーの黒い霧」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
シシリーの黒い霧の予告編 動画
映画「シシリーの黒い霧」解説
この解説記事には映画「シシリーの黒い霧」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
シシリーの黒い霧のネタバレあらすじ:山賊ジュリアーノ
1950年7月5日の朝、イタリア、シチリア島カステルヴェトラーノで、一人の男の他殺体が発見されました。推定30歳のこの男の名はサルバトーレ・ジュリアーノ、彼は拳銃で撃たれ、死体は彼の弁護士デ・マリア宅の中庭に倒れていました。世間はジュリアーノの突然の死に驚き、多数の報道陣が現場に駆けつけました。なぜ彼の死が注目を浴びたのかは、戦後の混乱期の中での彼の存在にありました。
時は遡り、舞台は1945年のシチリア島パレルモに移ります。第2次世界大戦末期の当時、パレルモでは1943年の連合軍のシチリア島上陸を契機に、島全土で独立運動が起こっていました。独立を訴える政党・シチリア独立運動とそれを支える独立義勇軍が躍動し、アメリカ、イギリス、地主、そしてマフィアがそれを支援しました。警察との激しいゲリラ戦は日々行われ、双方ともに死者や怪我人が続出していました。
事態を憂慮した国民解放委員会による政府は、1945年9月30日、活動の首謀者アプリ―レ・ヴァルヴァロを逮捕しました。「今すぐ暴動を起こすしかない!」「誰にやらせる?」「シチリアには武装したゲリラ組織がある。彼らは無法者だが、世の不正や貧困の犠牲者でもあるのだ。生活の向上を心から願ってる」劣勢に追い詰められた独立運動が頼ったのは、シチリアの山賊でした。その山賊のリーダーこそ、当時まだ23歳のジュリアーノでした。10月、ジュリアーノは独立が成功すれば罪が許される事を条件に、独立義勇軍に協力することを承諾しました。ジュリアーノは21歳の時、小麦の闇取引の現場で憲兵を殺し、山へ逃げ込み山賊となった男でした。
シシリーの黒い霧のネタバレあらすじ:独立運動
早速、ジュリアーノは町の至る所に、「シチリアを搾取する者どもに死を!奴らはファシストだ。独立運動万歳!ジュリアーノ」という貼り紙を貼ります。この地の地理を知り尽くす彼が指揮する山賊たちは、政府軍に次々と奇襲をかけ、勝利していきました。ジュリアーノたちから受けた政府軍の被害は甚大でした。危機感を覚えた政府軍はジュリアーノたち山賊の本拠地であるモンテレプレの村に軍を送り込みます。
山麓にあるモンテレプレは、掟と情熱、恐怖で守られたジュリアーノの王国と呼ばれ、全ての動きが山頂から監視された強固な要塞都市でした。戒厳令がひかれ、村人たちの平穏な生活が乱されます。「戦争で生き残ってこんな場所で死にたくない」「なぜ撃つんだ?パルチザンか?」「さっさと独立させてやれ」政府軍の兵士から声が漏れますが、両者は激戦を繰り広げました。
1946年5月、ついに人々の思いが実り、シチリアに自治権が認められました。6月にウンベルト2世が宮殿を去り、イタリア共和国政府が政治犯を釈放すると、独立義勇軍も解散することとなりました。しかし、ジュリアーノ一味は匪賊とみなされ、約束されていた特赦が実行されることはありませんでした。再びジュリアーノは法外な身代金目当ての誘拐、強盗、恐喝、ゆすりといった凶悪犯罪に手を染めていきました。その戦利品はマフィアと分配し、それを引き換えにジュリアーノは手厚い保護を受け、憲兵は彼に容易に手を出せなくなっていました。
そして舞台は現在に戻ります。カリスマ的存在であったジュリアーノの死による山賊たちの蜂起を危惧した政府は、モンテレプレに軍を派遣し、男たち全員を逮捕します。不当な逮捕に憤った女性たちは蜂起し、兵士たちと揉み合いになります。そんな中、息子ジュリアーノの遺体を確認するため、母親がシチリアにやって来ました。ジュリアーノの体に母親は幾度もキスし、悲痛な叫び声をあげました。母親の前に横たわるジュリアーノの脇腹には、2発の弾痕から僅かな血が垂れていました。
シシリーの黒い霧のネタバレあらすじ:虐殺裁判
再び舞台は1947年へ遡ります。自治州初の選挙では人民連合が勝利を収め、その数カ月前からは、大地主制に反対する農民運動が始まっていました。「誰もが文化的生活を送る権利がある。我々の願いは息子たちが読み書きを覚え、無学の屈辱から解放されることである」5月1日、メーデーを祝い集う共産党員たちを、ジュリアーノたちは襲撃し、虐殺の限りを尽くします。その後もジュリアーノたちの犯罪は留まるところを知らず、100人もの憲兵や警察が彼のために命を落としました。
1947年から49年の間に政府は役人を次々と代え、4人の検事総長が交代しましたが、彼が捕まることはありませんでした。政府は非常手段として、ルカ大佐が率いる特別鎮圧部隊を出動させ、11カ月の活動の末、一味の大半を逮捕、殺害に成功します。ジュリアーノの死はそんな混乱の中での出来事でした。残るはジュリアーノの右腕ガスパレ・ピショッタだけでしたが、彼も自宅で隠れている所を逮捕されます。ピショッタの逮捕を最後に、ジュリアーノ一味の犯罪に対する裁判が開始されました。
「私が警察の幹部と共謀してジュリアーノを殺した」裁判冒頭でピショッタは驚くべき証言をします。法廷は騒然となりが、裁判長はこの証言は審理の論点である「メーデー虐殺事件」とは無関係とし、一味が犯した犯罪に関する証言にのみに傾聴し、審理を続けました。しかし裁判長の手元には1950年6月13日のジュリアーノのメモがありました。それは「全員が無実であり、供述書は暴力で強要されたとあった」とあり、ジュリアーノの巧みな戦略でした。「法の番人による暴力の行使は許されるものではない。だがある種の供述は、暴力をもってしても導くことはできない。事実の完全な肯定から絶対的否定へと変わるのだ」裁判長は厳しく追及しますが、一味は全員、終始無実を主張し、裁判は一向に進展しませんでした。そんな状況を見つめ、証人席からピショッタは満足気に笑みを浮かべます。
ところがある日、状況を一転させる証人が現れました。「すべてを話す時が来た。ジュリアーノの指示で次の者たちが農民を撃った」この証人はメーデーで虐殺を行った男たちの名を挙げました。証人席の男たちはその仲間の裏切りに激怒し、暴れ始め、再び裁判は大混乱に陥ってしまいました。その後、病気を押して出廷したピショッタが証言しました。「裁判所に届いたメモは誰かに書かされた偽物だ!首謀者の名もないし、ウソばかり並べ立ててる。俺に相談もなく、仲間を破滅に追いやった!だから、俺は奴を殺したんだ!奴らは俺をハメる気だ!俺たちは必死で独立運動に貢献してきた!」ピショッタは全ての罪が自分たちだけに擦り付けられようとしている事に不満を顕わにし、訴えました。「山賊と警察とマフィアは三位一体だった!」ピショッタの叫びに再び法廷は騒然となりました。すぐさま弁護団はピショッタに代わる新たな証人喚問を要求しました。
シシリーの黒い霧のネタバレあらすじ:死の真相
再び舞台はジュリアーノの謎の死の直前に遡ります。ルカ大佐率いる特別治安部隊がジュリアーノ逮捕に躍起になっている中、ある日、ピショッタは驚愕の事実を知ります。ジュリアーノただ一人を守るため、憲兵とマフィアが手を組み、ピショッタたち山賊の一斉逮捕を仕組んでいたのでした。ジュリアーノに弱みを掴まれているマフィアにとっては、彼以外の山賊たちを売ることなど、何の躊躇いもなかったのです。
「奴らはお前の墓を掘ってるぞ」やるかやられるかの窮地に追い詰められたピショッタは、ある夜、憲兵たちを連れ、ジュリアーノの潜伏先に向かいました。「確信はない。まずは俺一人で行く」ピショッタは一人でジュリアーノに会いに行きました。用心深いジュリアーノはそこに潜伏していました。ジュリアーノはピショッタに一通の手紙を渡しました。「読め。お前が憲兵とグルだと書いてある。お前だけは信じてると思ったがな…」このジュリアーノの言葉に激昂したピショッタは発砲し、ジュリアーノを殺してしまいました。ジュリアーノの遺体は憲兵たちによって部屋から運び出され、あたかも中庭で射殺されたかのように偽装されたのでした。
再度舞台は1950年の法廷へと移ります。新たな証人として、特別治安部隊を率いていたルカ大佐やジュリアーノの弁護士など、多くの関係者が召喚されました。しかし、真相ははっきりせず、次第に裁判の論点はメーデー虐殺事件の首謀者が書かれているというジュリアーノが生前残したメモに移っていきました。そして、そのメモは「先生」と呼ばれるジュリアーノと近しい人物が持っていることがピショッタの証言で判明します。しかし、最期まで彼はその「先生」の名を明かすことを拒みました。
「メーデー虐殺事件は新聞に書き立てられ、世間を散々騒がせました。しかし、事件の核心は何一つ明らかにされていません。たった1人の山賊が選挙に多大な影響を与え、政治家たちを脅かす。その背景には社会問題が隠れているからです。貧困の惨めな生活や封建制度がもたらした重圧、政府や個人生活への干渉やマフィアによる暴力行為にメスを入れるべきなのです」弁護団は最後に訴えました。
シシリーの黒い霧の結末:報復
そして、ピショッタたちへの判決の時がやってきました。ピショッタ一味13名はメーデー虐殺事件の罪で有罪、うちピショッタほか7名は終身刑を宣告されました。「俺は釈放されるはずだろ!憲兵隊の大佐を助けてやったんだぞ!他の山賊どもとは違う!正義を求めて自ら出廷した!その誠意を踏みにじる気か!覚えてろ!ジュリアーノ殺害の裁判では洗いざらい、ぶちまけてやる!」ピショッタは判決に激昂し、叫びました。
そんなピショッタは投獄されて間もなく、何者かに毒を盛られ、壮烈な最期を遂げました。時は流れ1960年、ジュリアーノの死に関係したマフィアも何者かによって殺されました。晴れた空のもと、1人の男の他殺体に恐る恐る人々は近づきました。
以上、映画「シシリーの黒い霧」のあらすじと結末でした。
1950年7月5日。シシリー島で、サルバトーレ・ジュリアーノという30歳の男の射殺死体が発見された。
彼はなぜ殺されたのかというのを、過去にさかのぼって見せていくこの映画に、生前のジュリアーノは登場しない。
彼が関わった事件だけが再現されていく。
出だしから、グイグイと画面に惹きつけられた。
死者はマフィアの一員だった。警察とか憲兵とかにも関係があった。
そのせいか、事件の証人や容疑者が、次々と殺される。
そして、何も解明されないまま映画は終わるのだ———-。
メーデーのデモ隊に対する襲撃とか、左翼に対する弾圧などが掘り起こされて、セミ・ドキュメンタリー・タッチの画面の連続だ。
フランチェスコ・ロージ監督は、この後もマフィア追及の映画を撮り続けたが、それはイタリアでは命をかけた戦いに等しいのだ。
黒い霧は、決して去らないからだ。