人情紙風船の紹介:1937年日本映画。裏長屋の住人・髪結いの新三(しんざ)は、何かと人騒がせな遊び人だった。新三の隣の部屋の主・海野又十郎は、貧乏暮らしをよぎなくされている浪人である。江戸市中・深川を舞台に、市井の人びとと男ふたりの奇縁を描いた人情時代劇の傑作。監督は若き巨匠、山中貞雄。撮影は、ハリウッド帰りの名手、ハリー・三村こと三村明である。
監督:山中貞雄 出演:河原崎長十郎(海野又十郎)、中村翫右衛門(髪結いの新三)、橘小三郎(毛利三左衛門)、市川笑太朗(弥太五郎源七)ほか
映画「人情紙風船」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「人情紙風船」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「人情紙風船」解説
この解説記事には映画「人情紙風船」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
人情紙風船のネタバレあらすじ:起
江戸・下町の裏長屋。今朝、長屋で武士が首を吊った。暮らしに行き詰まった浪人者である。長屋の住人は、無論、浪人ばかりではない。しかし皆、貧しく、わずかな給金を頼りに生計を立てていた。
髪結いの新三(しんざ)もそのひとりだった。独り身の新三はまだ若く、着流しの似合う遊び人だ。しかし新三の髪結いも、ここしばらくはご無沙汰である。界隈を仕切るやくざ・弥太五郎源七の目を盗んで賭場を開き、金銭を得ていたからだ。
今朝も、弥太五郎源七の手下が新三を脅しにやってきた。逃げる新三。隣の部屋の主・海野又十郎が新三を匿った。新三は機転の利く男だった。気性もさっぱりしている。後腐れがない。口やかましい大家が一目置くほど、弁が立ち、長屋の住人たちの信望も厚かった。
新三の隣りの部屋の主・海野又十郎は浪人である。武士としての面子に固執するのか、長屋の住人たちと、親しむことは少なかった。又十郎は、亡き父の伝手を頼りに士官の口を求めている。頼みとするのは、大名屋敷の藩士・毛利三左衛門である。又十郎の父・又兵衛は、三左衛門のかつての恩人であった。
話せば分かってもらえるはずだ。又十郎は、そう固く信じ、妻のおたきにも語った。しかしおたきには、夫の世間知らずが歯がゆかった。世間はそんなに甘くない。おたきは貧苦の中で世間を覚えた。夫婦はいま、おたきの手内職で糊口をしのいでいた。
人情紙風船のネタバレあらすじ:承
界隈で名の知れた質商「白子屋」の娘・お駒にいま幕府の高家との縁談が持ち上がっている。仲を取り持っているのは、藩士・毛利三左衛門である。三左衛門は足しげく「白子屋」へ通い、この話を成功裡に導きたいと考えていた。
「白子屋」へ日参する三左衛門を、海野又十郎は店の門口で待っていた。「是非とも士官への道を」。又十郎は、父親が残した手紙を携えている。しかし、三左衛門にとって又十郎は、わずかな縁でつながっている男に過ぎない。しかも浪人である。面倒を見る気などさらさらなかった。
翌朝、又十郎は、三左衛門の屋敷を訪ねた。三左衛門は現われず、門番もそ知らぬ態である。一体、どうなっているのだろう。昨日、毛利殿は、屋敷を訪ねろと仰った。なのに、このようなあり様だ。父上は言った。何かあれば三左衛門殿を訪ねろと。お人好しの又十郎の胸の内にも、どこからか、よそよそしい風が吹いてくる。
その日、又十郎はいつになく執拗だった。縋る又十郎に、三左衛門の堪忍袋の緒が切れた。もう往来で声をかけるな、屋敷へも来るな。容赦のない言葉だった。武士の情けか、わずかな施しを放って寄こした。三左衛門はその場から足早に去っていった。
人情紙風船のネタバレあらすじ:転
髪結いの新三は金に困っていた。いまでは、酒代の捻出にも苦慮するあり様だ。新三は、髪結いの道具一式を「白子屋」へ持って行く。店番は番頭の忠七であった。二両の金を請う新三に、忠七は首を縦に振らない。「そこを何とか」と新三。「一銭にもならない」と忠七。「何を!」と新三。埒が明かないと踏んだ忠七は、やくざの源七のもとへ使いをやる。新三が店を出る。途端に、もの凄い物音だ。源七一味に叩き伏せられたのだった。傷を負った新三の胸に、源七と忠七への恨みが広がる。
新三は「白子屋」の娘・お駒をさらう。忠七と源七への面当てだったが、箱入り娘がさらわれた「白子屋」では上を下への大騒ぎである。「ざまぁみやがれ」。まずは忠七の鼻を明かした。次は弥太五郎源七である。質屋の用心棒を気取る源七に一泡吹かせてやろう。
案の定、「お嬢さんを返せ」と源七が手下を連れてやってきた。「穏便に済まそうじゃないか」と源七。「おまえさんの出る幕じゃあない」と新三。しかし「条件次第では」と新三は言う。てめえ頭を坊主にしろ。「両手をついて、おれに頭を下げたらお駒を返そう」。歯ぎしりする源七。お駒に何かあってはならない。「白子屋」の手前、新三に手出しひとつできない。
人情紙風船の結末
お駒の誘拐事件に一役買ったのは、長屋の大家・長兵衛だった。界隈を仕切るやくざ者に恨みを晴らしたのだ。新三に、お駒はもう用がなかった。しかし、「この話は金になる」と踏んだのが長兵衛だ。
新三の断りなしに単身「白子屋」へ出向き、「お譲さまを取り返す」と約束して、50両の包みを手に戻ってきた。してやったりの長兵衛に新三は呆れるが、屈託のない大家だった。新三も笑いを隠せない。長屋中が笑った。海野又十郎も笑いの渦の中にいた。
新三の株が上がったその日の夜だった。海野又十郎の妻・おたきが寝入りばなの夫を刺した。前途を悲観したのだろう。自らの命も絶った。その夜はまた、弥太五郎源七を怒らせた新三のゆくえが定かではなかった。
以上、映画「人情紙風船」のあらすじと結末でした。
「人情紙風船」感想・レビュー
-
素晴らし分析力に、感嘆しています❗山中監督も、草葉の陰で、喜んでいる事だと思います‼️
不朽の名作に共通するのは見終わってから映画の面白さや感動が腹の底から湧きあがり、その映画の価値(真価)が倍増し深く心奥に浸透してゆく点にあると思う。それ故に、幾度となく繰り返し鑑賞するのである。「人情紙風船」もまた幾多の時を経て多くの鑑賞者によって磨かれ熟成された不朽の名作なのである。長屋の溝(どぶ)に雨が降り注ぐシーンから映画が始まる。一転して雨が上がりの長屋では住人たちが出揃って活況を呈している。長屋とその周辺の家並など下町の庶民的な風景が見る者の郷愁を誘う。どこかしら懐かしい感覚と、他人事とは思えない親近感がこの作品を覆っているのだ。この映画の見事なカメラワークには改めて惚れ惚れする。構図とアングルもカット割りも完璧で誠に見事で、ただただ美しい。狭小で猥雑な長屋との対比として空虚で普遍的な空だけが時折スクリーンに写し出される。この作品はどちらかと言えば、クールでドライなモダン感覚で撮られている。山中貞雄監督は文豪エミール・ゾラやモーパッサンの自然主義(写実的表現)やフランス映画やイタリア映画のネオリアリズムの影響を受けているものと思われる。浪人侍又十郎の追い込まれて思い詰めた虚ろな眼差しは、その先に惨たらしい悲劇が待ち受けていることを暗示している。長屋に身を寄せる老若男女が悲喜こもごも互いの情を共有するなか、浪人侍の又十郎と妻おたきだけが周囲から孤立し浮いている。女房おたきの暗さはことのほか深刻で尋常ではなく、笑顔や素顔さえも見せることなく終盤の無理心中へとなだれ込む。また髪結いの新三も粋でいなせな遊び人ではあるが、つまらぬ意地を張り体面にこだわることで自ら死を呼び込む結果となる。事程左様に男たちの夢も希望も決して叶わず、もがけばもがくほど窮地に陥り墓穴を掘ることになるのである。この救いようのない現実の過酷さは黙って受け入れるほかには成す術がない。「人情紙風船」はそういう厭世観や諦観に満ちたクールでドライな感覚の「古くて新しい傑作映画」なのである。ラストシーンではおたきが作った紙風船が童(わらべ)の手から溝へと転がり落ちる。その紙風船が弱々しい風体を晒しながら頼りな気に溝の流れに身を任すところで幕を下ろす。浪人侍の仕官の夢やその妻おたきの一縷の望みを乗せた紙風船の何と健気でいじらしいことか。この紙風船に込められた万感の思いは山中貞雄の願いも空しく、現実の世界においても自身の死をもって幕を閉じる結果となった。悲しいけれど「人情紙風船」が山中貞雄の遺作となったのは偶然ではない気がする。そして紙風船の中には夢や希望と共に皮肉や悲哀も一杯に詰まっている。山中は自分の宿命を暗に嗅ぎ取って紙風船のラストシーンに委ねていたのかも知れない。山中貞雄の「人情紙風船」は人間の避けることが出来ない普遍的なテーマを取り上げた不朽の名作であり、時を経ても決して色褪せることのない日本映画の頂点なのである。