華麗なるギャツビーの紹介:1974年アメリカ映画。1925年に発表されたF・スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』を1926年・1949年に続いて三度目の映画化をしたラブストーリーです。脚本をフランシス・フォード・コッポラが手掛け、貧しい兵士だった主人公が謎の大富豪となり、大金持ちに嫁いだかつての恋人の愛を取り戻そうとする姿を隣人の青年の視点から描きます。2000年と2013年にもリメイクされ、日本でもミュージカルとして上演されています。
監督:ジャック・クレイトン 出演者:ロバート・レッドフォード(ジェイ・ギャツビー)、ミア・ファロー(デイジー・ブキャナン)、ブルース・ダーン(トム・ブキャナン)、サム・ウォーターストン(ニック・キャラウェイ)、スコット・ウィルソン(ジョージ・B・ウィルソン)、カレン・ブラック(マートル・ウィルソン)、ロイス・チャイルズ(ジョーダン・ベイカー)、パッツィ・ケンジット(パミー・ブキャナン)、ロバート・ブロッサム(ギャッツ)、ヴィンセント・スキャヴェリ(ブリキ男)ほか
映画「華麗なるギャツビー(1974年)」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「華麗なるギャツビー(1974年)」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
華麗なるギャツビーの予告編 動画
映画「華麗なるギャツビー(1974年)」解説
この解説記事には映画「華麗なるギャツビー(1974年)」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
華麗なるギャツビーのネタバレあらすじ:起
1920年代、アメリカ・ニューヨーク。ウォール街の証券会社に就職した青年ニック・キャラウェイ(サム・ウォーターストン)は、郊外のロングアイランドに引っ越してきました。
ニックは、シカゴ在住で避暑のためにニューヨークに来ていたデイジー・ブキャナン(ミア・ファロー)と、その夫で大富豪のトム(ブルース・ダーン)の元を訪れました。デイジーはニックの従妹であり、大富豪であるトムはニックの大学時代の学友でした。
ニックの家の隣には出不精の謎の富豪ジェイ・ギャツビー(ロバート・レッドフォード)が大豪邸を構えていました。
ギャツビーは2週間おきに自宅で盛大なパーティーを催しており、パーティーには着飾った数多くの男女が集い、豪華な料理が振る舞われていました。ニックは煌びやかなパーティーの様子を観察していました。
デイジーはトムとの間に娘のパミー(パッツィ・ケンジット)をもうけていましたが、トムは修理工のジョージ・B・ウィルソン(スコット・ウィルソン)の妻マートル(カレン・ブラック)を愛人にしており、デイジーとの関係は冷え切っていましたが、トムはカトリック教徒であるデイジーとの離婚に踏み切れないでいました。
一方のデイジーは、ニックを友人でプロゴルファーのジョーダン・ベイカー(ロイス・チャイルズ)と引き合わせようと考えていました。
華麗なるギャツビーのネタバレあらすじ:承
ある日、ニックの元にギャツビーからパーティーへの招待状が届きました。ニックはそこでジョーダンと会い、楽しい時間を過ごしましたが、招待客らは口々にギャツビーが株で財を成したとか、第一次世界大戦中に政府のスパイとして殺人を犯したとか、石油成金だとか、密輸で不法に稼いだとか様々な噂話を好き勝手にしていました。
そしてニックは、主催者でありながら決してパーティーには顔を出さないギャツビーに呼ばれ、初対面である彼に挨拶しました。
その後もニックは事あるごとにギャツビーに招かれ、ニックは次第にギャツビーと親交を持つようになっていきました。ギャツビーもまたニックに自分の身の上を明かし、彼に仕事を紹介しようとしました。
そんなある日、ニックはジョーダンから、ギャツビーがデイジーに会いたがっていることを聞かされました。ニックは自宅でギャツビーとデイジーを会わせる手筈を整え、ギャツビーはそこでデイジーと8年ぶりの再会を果たしました。
デイジーはギャツビーが今も変わらず自分への愛を抱き続けていること、そしてギャツビーの巨大な財力に圧倒され、それからというもの度々ギャツビー邸に招かれては昔を懐かしんでいました。一方のトムは相変わらずマートルと逢瀬を重ねていました。
華麗なるギャツビーのネタバレあらすじ:転
時をさかのぼること数年前。ダコタの農家に生まれたギャツビーは17歳のとき鉱山で財を成した人物に拾われました。そして第一次世界大戦が勃発、出征したギャツビーはケンタッキー州ルイビルのキャンプにいる時に、大金持ちの娘であるデイジーと出逢いました。ギャツビーとデイジーは身分の違いを超えて深く愛し合うようになりましたが、ギャツビーは軍の命令によりフランス戦線へ派遣されてしまい、ギャツビーが戦場から戻ってきた時には既にデイジーはトムと結婚していました。
貧しい生活を余儀なくされていたギャツビーとは対照的に、上流階級のデイジーは社交界の花形として華やかな日々を送っており、再びデイジーの愛を取り戻す決意を固めたギャツビーは、5年の歳月をかけて現在の巨万の富を得たのです。デイジー邸の対岸に大豪邸を構えたもの、盛大なパーティーを開いているのも全てはデイジーを取り戻すためだったのです。
ギャツビーはパーティーにデイジーとトムを招きましたが、ギャツビーを怪しんだトムは彼の正体を暴こうとしました。一方のデイジーは中々トムに別れを切り出すことができず、しびれを切らしたギャツビーはニックとジョーダンを同席させたうえでトムに話を切り出そうとしましたが、その場では言い出せませんでした。
ギャツビーはデイジーとトム、ニックとジョーダンと共にニューヨークへ繰り出すことにしました。途中でウィルソンの経営するガソリンスタンドで給油したトムは、ウィルソンがマートルと共に他所の土地に引っ越すことを告げられました。
華麗なるギャツビーの結末
ギャツビーら5人はホテルで休息を取ることにし、改めて話し合いの場を設けました。ギャツビーとトムはデイジーを巡って対立し、ギャツビーはデイジーにトムを愛していないと言わせようとしましたが、デイジーはどちら側につくか明確な態度を示すことはありませんでした。
トムはギャツビーが密造酒や麻薬の密売で財を成したと罵り、ギャツビーは取り乱したデイジーを追ってホテルを飛び出していきました。
トムはロングアイランドへ帰る途中、マートルがウィルソンの家付近でひき逃げされて死亡したことを知りました。トムは目撃者の話から、ギャツビーがひき逃げをしたと思い込むのですが、実はギャツビーの車を借りたデイジーが取り乱したまま乱暴な運転をし、たまたま飛び出したマートルを轢いてしまったのでした。
ニックはギャツビーから事情を聞かされていましたが、事実を知らないトムはウィルソンに、ギャツビーがマートルをひき殺したのだと嘘をつきました。
トムの嘘を真に受けたウィルソンはギャツビーの豪邸に乗り込み、一人プールでくつろいでいたギャツビーを射殺すると、自らも命を絶ちました。ギャツビーの豪邸には警察やマスコミが大挙して大混乱となっていました。
ギャツビーの葬儀にはニックが参列しましたが、デイジーやトムが現れることはなく花束も贈られることはありませんでした。葬儀には故郷からギャツビーの父親ギャッツ(ロバート・ブロッサム)が訪れ、ニックは実家から家出したギャツビーが仕送りを続けていたこと、必ず親孝行すると誓っていたことを知らされました。
ニックはこれからヨーロッパに向かおうとしていたトムやデイジーと出くわしました。トムはギャツビーの死を当然の報いだと考えており、デイジーもまたギャツビーなど最初からいなかったかのように振る舞っていました。ギャツビーの夢が儚く散ったことを思い知ったニックはジョーダンとも別れ、一人ロングアイランドを去っていきました。
以上、映画「華麗なるギャツビー」のあらすじと結末でした。
この映画「華麗なるギャツビー」は、裏切られた男の心の奥底のロマンティシズムを描く、失われた世代の作家F・スコット・フィツジェラルド原作の映画化作品。
1970年代のアメリカ映画界は、1930年代へのノスタルジーを込めた作品がブームになっていましたが、この「華麗なるギャツビー」という映画は、更に時代を遡った、頽廃の花咲く1920年代の”成金文化”を背景として描いています。
この映画の原作は、”失われた世代”の作家と言われる、F・スコット・フィツジェラルドで、彼は第一次世界大戦の勝利で成金の国になったアメリカという国をバックに、金にまかせて狂乱のごとく、浮かれ騒ぐ、アメリカの消費者たちの精神的な混乱をテーマにした小説を、この原作以外にも数多く書いています。
彼の小説はそれまでにも幾つか映画化されていて、例えば、1954年の「雨の朝巴里に死す」(リチャード・ブルックス監督)は、退廃的でデカダンな日々を送り、深酒に酔いしれる新進作家が、そのような荒んだ日々の中にも、エリザベス・テイラー演じる美貌の女に果たせぬ思いを寄せるという内容の作品でした。
内容的にはややメロドラマ調の映画でしたが、酒でも飲まなければいられない、男の心の奥底のロマンティシズムといったものが、テーマとなっていました。このように、F・スコット・フィツジェラルド自身が、かなり破滅的な人生を送り、酒に溺れて、晩年は不遇のうちに亡くなったそうです。その破滅的な生きざまは、日本の作家で言えば、太宰治や坂口安吾などの無頼派の作家と共通するものがあるように思います。
映画「華麗なるギャツビー」は、ある男の生きざまの悲哀を、”男心は純情”という思いの込められた作品で、原題の「THE GREAT GATSBY」の中の”GREAT”はアメリカの俗語で、”いかす”という感じで使われているそうですが、ギャツビーの短い悲劇の生涯は、まさにその表現がぴったりします。
ニューヨーク郊外のロングアイランドの湖畔にある大邸宅で、夜な夜な催される豪華なパーティ。そこでは楽団の派手な演奏と共に、数多くの男女が集まっては飲み、食い、踊り、騒ぐといった饗宴が繰り広げられていました。
ところが、この邸の主人はほとんどこの饗宴には顔を出さず、部屋にこもり、何かの思いに耐えているようで、彼の素性は謎に包まれていて、このパーテイに招かれる上流階級の人々も、陰では彼を密輸や麻薬といったもので成り上がった暗い過去を持つ成金じゃないかと噂します。
しかし、ギャツビーは表面的には一分のすきもないくらいの美青年であり、その笑顔は爽やかでさえあり、こんな主人公を、当時のアメリカ映画界で人気、実力共にNo.1であったロバート・レッドフォードが「追憶」そして「スティング」で見せた魅力的な微笑というものが、この映画ではその微笑の裏に”暗い翳り”を秘めた男を、惚れぼれする程の良い男っぷりで演じていて、まさにミスター・ハリウッドという形容がぴったりするくらいで、当時、ゲーリー・クーパーの再来と言われていた事が納得出来ます。
ギャツビーが人生を賭けてまで愛した女性デイジー役のミア・ファローは、はっきり言ってミス・キャストで、魔性を秘めた魅惑的な女性デイジーのイメージにはほど遠く、当時、他にデイジー役を演じる女優がいなかったのかと残念でなりません。昔であれば、エリザベス・テイラーが演じていた役どころで、リズだったら魔性の魅力を秘めたデイジーを余すところなく演じていただろうと思います。
この邸の対岸には、彼の初恋の女性デイジー(ミア・ファロー)が、シカゴの大財閥トム(ブルース・ダーン)の妻として贅沢な、そして倦怠の日々を送っています。
戦争にも行かなかったトムは、浮気癖があり、こともあろうに近くの貧しい自動車修理屋の人妻(カレン・ブラック)との情事を楽しんでいます。
そして、その夫(スコット・ウィルソン)は、真面目一方の気弱な男として描かれています。
貧富の差が対照的なこの二組の夫婦、そしてギャツビーの過去と現在そして未来を見透かすように立っているのが、街道筋の大きな眼鏡の立看板であり、この立看板というものが、”神を象徴する役割”をこの映画で果たしていると思います。
このあたりをさりげなく見せる、ジャック・クレイトン監督の演出のうまさが光っています。
そして、トムとデイジー夫妻の知人であり、ギャツビーの隣人でもあるニック(サム・ウォーターストン)も、この映画の舞台回しというか、狂言回しとして、”冷静な観察者”として、実にうまく描いていると思います。
このニックを介してギャツビーは、やっと恋い焦がれた、初恋の女性デイジーと再会する事が出来ますが、戦争から帰るまでどうして待っていてくれなかったのかと詰問する彼に答えて、「金持の娘は貧乏人とは結婚できないのよ」と言うまでに、デイジーは上流社会の生き方が身にしみて育った、いわば”砂糖菓子”のような女でした。
原作の小説の中で、「その声までが金持らしい娘」と書かれていますが、甘やかされて、わがままな反面、繊細な感情のひらめく魅力的な女、天真爛漫な華やかさと功利に長けた計算とが一体となったような、矛盾に満ちた女——女とは本来、このような”魔性”を秘めたものなのかも知れませんが、しかし、映画を観ている間中、こんな女に何故惚れてしまうのか、と言いたくなる感情を抑えきれませんでした。
そして、デイジーとの間に愛情が取り戻され、ギャツビーが一生を賭けた恋が成就するかと思われたが、その破局は一気に訪れます。
暑いニューヨークのホテルでのギャツビーとトムとの確執、対決は、デイジーを錯乱させ、彼女の運転するギャツビーの黄色いロールス・ロイスは、自動車修理屋の妻を轢き殺してしまいます。
キャツビーはデイジーをかばって彼女を夫のもとに送り届けますが、翌日、この自動車修理屋は妻の浮気相手のトムを殺そうと迫りますが、トムにギャツビーが犯人であると吹き込まれて、ギャツビーをそのプールで射殺して自殺します。
女を思い詰めた二人の男が同時に死んだのです。
大邸宅も巨大な財産も、そして命さえも、男はただ一人の女に捧げて悔いはないかのようです。
この映画でのロマンティシズム、恋にそして人生に破れて死んでいった男の姿は、まことに哀しく憐れでもあります。
そして、生き残ったデイジーは、ケロリとして夫とよりを戻し、何事もなかったかのように、陽気に旅立って行きます。
女の軽薄さを示すこのラストで、死んでいった男の哀しさ、憐れさが、余計に我々、観る者の心に迫ります。
この映画での”冷静な観察者”であるニックが言うように、軽薄なトムとデイジー夫妻は、それぞれ身勝手な事をやって、その始末は誠実な他人の死によってあがなわれ、彼らの豪奢な生活は守られたのです。
うわべだけの薄っぺらな上流階級の人々より、どれだけギャツビーの方が人間的に優れているか—-、虚像と実像の違いを原作者のF・スコット・フィツジェラルドと脚色のフランシス・フォード・コッポラと監督のジャック・クレイトンは、ニックの目を通して、憤怒の思いで描いていると思います。
フランス戦線での勲功章だけは、ギャツビーに残された唯一の確かな履歴であり、また、古い日記に書かれた少年の日の決意といったものが、彼の本質を切なく語っていると思います。
一、発声練習、二、勉強、三、毎週の貯金三ドル、四、禁煙、五、親孝行——–。
この映画はギャツビーという一人の人間を通して、アメリカの純情に熱い懐旧の涙を注いでいる、切なくも哀しい人間ドラマであり、単なるラブロマンスの映画ではないのです。
なお、この映画は、1974年度の第47回アカデミー賞の最優秀音楽(歌曲・編曲)賞と最優秀衣装デザイン賞を受賞し、同年のゴールデン・グローブ賞の最優秀助演女優賞(カレン・ブラック)を受賞し、また、同年の英国アカデミー賞の最優秀撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞を受賞していますね。