わらの犬の紹介:1971年アメリカ映画。イギリスに引っ越して来た学者夫妻。暴力を否定する夫は周囲の仕打ちにもひたすら耐え続けるも、かくまった精神薄弱者に牙をむいた村人を相手に怒りを爆発させる……。温和な男が暴力に目覚めた時、静かな田舎町に血の雨が降る!
監督:サム・ペキンパー 出演:ダスティン・ホフマン、スーザン・ジョージ、ピーター・ヴォーン、ピーター・アーン、T・P・マッケンナ、ほか
映画「わらの犬」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「わらの犬」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
わらの犬の予告編 動画
映画「わらの犬」解説
この解説記事には映画「わらの犬」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
わらの犬のネタバレあらすじ:1
アメリカ在住の若い数学者のデビットは暴力に満ちたアメリカに疲弊し、彼女を連れ妻の故郷であるイギリスの小さな田舎町、コーンウォールに移住することにした。田舎で何の雑念も無く数学の研究に没頭できると考えていたのだが、たまたま納屋の修理の為に呼んだ職人の中に妻のエミーと幼き頃付き合っていたヴェナーがいた。学者という経歴、エミーの旦那であるということよりチャールズ率いる村の住人からよく思われていないデビット夫妻に周りでは飼い猫が殺されたりとざまざまな事件が起こる。
わらの犬のネタバレあらすじ:2
およその犯人がヴェナーであるとわかっていたデビットは話し合いによる和解を求め、チャールズ含む村の住人と狩りに出かける。しかし、狩場でデビットをまいたヴェナー達はデビット宅に押し入りエミーを強姦する。数日後デビット夫妻は街の教会で行われていたパーティーに参加するが、ヴェニーに強姦された記憶が脳裏に浮かんだエミーはパーティーから抜け出した。同じ頃そのパーティーには刑務所から出てきたばかりの神経衰弱な男も参加しており、少女に連れ出され納屋に忍び込もうとしていた。
わらの犬の結末
それを見たヴェニーは神経衰弱の男を殺そうを探し回る。ヴェニーの追跡に恐怖した男は誤って少女を絞め殺してしまい、納屋から逃げようとした時デビット夫妻が運転する車と衝突した。おとなしくヴェニーに渡すように言うエミーを振り切りデビットは介抱するため家に連れて帰ることを決めた。デビット夫妻の家にヴェニー達が到着し、男を引き渡せばおとなしく帰ると脅迫を続ける行為に絶えきれなくなったデビットは溜まりに溜まった怒りを爆発させ銃を持ち激しい銃撃線を繰り広げるのであった。
以上、映画「わらの犬」のあらすじと結末でした。
この映画「わらの犬」は、サム・ペキンパー監督、ダスティン・ホフマン主演で、イギリスの片田舎へやって来た気の弱い数学者が、妻を強姦され、命を狙われて、そこから反撃へ転じる凄まじい暴力描写が圧巻の傑作だ。
暴力の嵐が吹き荒れた1970年代のアメリカ映画の中でも、このサム・ペキンパー監督の「わらの犬」は、その暴力表現の凄まじさ、衝撃の強さにおいて最大級の問題作だ。
ダスティン・ホフマン演じる気の弱い数学者が、暴力のはびこるアメリカ社会に愛想をつかして、スーザン・ジョージ演じる妻を連れて、イギリスの片田舎へやって来る。
しかし、その静かな村にも男たちの行き場のない性的エネルギーが暗く淀んでいて、その負のエネルギーは都会からやって来た人妻の、挑発的な肢体によって引火されるのです。
そして、妻は男たちに強姦され、夫は男たちに命を狙われることに——–。
「ワイルド・バンチ」によって、バイオレンス派の異名をとったサム・ペキンパー監督のこの作品は、「ワイルド・バンチ」のように、暴力が詩情へと昇華せず、暗く淀んだところへと追い詰められていく、極めて”後味の悪い”映画だ。
ここでは、暴力は人間の野卑な欲望の象徴であり、まるで弱肉強食の生存競争の陰画のようだ。
暴力が肉体の解放となって、人を新たな生に向かわせるというプラスに働かず、”陰惨な死”へと向かっていく。
それを裏付けるかのように、画面がいつも雨に濡れたように暗いのも、この映画の陰惨さを象徴しているのだ。
恐らく、この暴力の暗さは、この映画が作られた当時、アメリカ社会がヴェトナム戦争という”暴力の泥沼”に落ち込んでいたことと無縁ではないと思う。
人間の醜悪さ、野卑さを、これでもかこれでもかと見せつけられ、私のようなペキンパー・ファンとしても、ちょっと落ち込んでしまいそうになる。
ただ、それを救っているのは、終始アイビー・ルックで子供っぽい清潔感を出している、ダスティン・ホフマンの好演だろうと思う。
彼の子供っぽさのために、後半の暴力シーンは見ようによっては、大人の邪悪な世界に落ち込んだ”ピーター・パン”が必死になって闘っている、けなげな脱出の姿に見えてくるのだ。
実際、彼の清潔感に比べれば、妻のスーザン・ジョージは遥かにワイセツで世俗的だ。
この暴力というものは衝動であり、人間に備わる”普遍的な本能”だと言えるのかも知れない。
その衝動は彼の中にも内在していて、いつ何かを引き金にして暴発するかもしれない危険性を孕んでいるのだと思う。
このダスティン・ホフマンの”内なる暴力”の目覚めの瞬間の描写が衝撃的なのだが、この”暴力に陶酔”でもしているかのような彼の描写について、ペキンパー監督は、「全くの間違いだ。君は本当にこの映画を観たのかね? 殺戮の途中で、彼は吐きそうになる。彼は自分の中に抑圧された巨大な暴力の衝動を抱えていたんだ。それは、いったん出口を見つけると、抑えることが出来ない。彼は女房を試し、自分を試し、そして自分の中の暴力を吐き出さねばならないような状況に、みすみす自分を追い込んだんだ」と語っているのが、非常に興味深いと思う。
ただ、暴力シーンでばかり有名になってしまったペキンパーだが、彼にはもう一つ顕著な特色があると思う。
それは、徹底した”女嫌い”であることだ。
ペキンパーの作品で女が共感を持って描かれたのは、「砂漠の流れ者」のステラ・スティーブンスくらいで、後は「ゲッタウェイ」のアリ・マックグロー、「ワイルド・バンチ」のメキシコ女、そして、この映画のスーザン・ジョージと、男を裏切る”いやな女”ばかりである。
そのため、ペキンパー監督は当時、”女性差別主義者”と批判されていましたが、私には彼の”女嫌い”は、子供が大人の女を嫌う、いい意味の”子供っぽさ”ゆえではないかと思えてならないのです。