アマデウスの紹介:1984年アメリカ映画。ピーター・シェーファーの同名の戯曲を「カッコーの巣の上で」で知られるミロス・フォアマン監督が映画化。アカデミー賞では作品、監督、主演男優、脚色など8部門で受賞。全世界でモーツァルト・ブームが起こった。
監督:ミロス・フォアマン 出演:F・マーリー・エイブラハム(アントニオ・サリエリ)、トム・ハルス(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)、エリザベス・ベリッジ(コンスタンツェ・モーツァルト)、ジェフリー・ジョーンズ(ヨーゼフ2世)ほか
映画「アマデウス」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「アマデウス」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
アマデウスの予告編 動画
映画「アマデウス」解説
この解説記事には映画「アマデウス」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
アマデウスのネタバレあらすじ:起
1823年、年老いた元宮廷音楽家・アントニオ・サリエリが剃刀で自殺を図ります。病院へ運ばれる間、意識が混濁しながらも、モーツァルトを殺したのは自分だと言い続け、盛んに彼への謝罪の言葉を口にします。精神病院に収容された彼は、フォーグラーという若い神父の訪問を受けます。自殺未遂に至った理由を聞こうというのです。初めは不機嫌だったサリエリもやがて口を開き、長い長い”告白”を始めます。
アマデウスのネタバレあらすじ:承
若い頃、音楽を愛していた彼は音楽家を目指しつつも、息子を商売人にさせたい父親のせいでその志望を一旦は放棄。しかし父親が急死したため、本来の希望を叶えました。皇帝・ヨーゼフ2世にも気に入られて宮廷音楽家となり、栄光は頂点に。自分は神に愛された作曲家であると信じ、そのことに自負心を抱いていたのです。しかし、その気持ちは神童の誉高かったモーツァルトがウィーンにやってくることで打ち砕かれます。
アマデウスのネタバレあらすじ:転
サリエリは自分同様、モーツァルトも思慮深い人格者だと信じていたのですが、彼のやることなすことが礼儀を外れており、とても素晴らしい音楽家だとは思えません。しかも、わざわざモーツアルトへ捧げた自作曲を勝手に改変されるという屈辱を受け、サリエリの戸惑いは怒りへと変わります。しかも改変された方が優れた曲になっていることが分かり、無力感も交って憎悪がさらに募るのです。サリエリは自分の地位を利用し、皇帝の姪の音楽教師の口をモーツァルトに与えるという提案を邪魔したり、「フィガロの結婚」の上演に関して皇帝の不興を買うように仕向けたり、モーツァルトの生活を困窮に追いやります。
アマデウスの結末
やがて精神的にも肉体的にも疲労したモーツァルトを変装したサリエリが訪問。レクイエムの作曲を依頼します。金のためにその仕事を引き受けるモーツァルト。しかし「魔笛」上演中に倒れ、サリエリ自身が彼を家へ運び込むことに。病床についたモーツァルトは、サリエリの申し出に従い、彼を助手にしてレクイエムの作曲を続けます。翌朝、最後の力を使い果たしたモーツァルトは永眠。何の敬意も払われず、共同墓地に葬られます。長い告白を終えたサリエリは相変わらずモーツァルトへの謝罪を口にしながら、間もなく訪れるはずの死を虚しく待つのでした。
「アマデウス」感想・レビュー
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今なお世界中で愛される天才音楽家、モーツアルト。この映画は、彼を”殺したとされる”アントニオ・サリエリの視点で描かれる物語です。
音楽が素晴らしいのは言うまでもないですが、私がこの映画で注目してもらいたいのはなんといっても豪華な衣装の数々!
こんなキレイで贅沢な衣装、なかなか他の映画ではたくさん見ることはできません。その時代の衣装や調度品などが楽しめるのも、この映画のいいところだと思います。 -
モーツアルトは生まれながらにして皮肉の天才だと思います。凄いと思たのは彼の頭の中に既に楽曲が出来ていて、それを奥様に書き直しなしで書いてもらったシーンです。
結果的にアントニオ・サリエリは天才であるモーツアルトをこの世から滅しました。モーツアルトが作曲家として才能があった為だと思います。アントニオ・サリエリはモーツアルトの一番のライバルであり、そして一番のファンであったと思います。 -
1984年のアメリカ映画です。
アカデミー賞を8部門受賞し、とにかく痛快で面白い内容は、世界を席巻し、楽聖モーツァルトブームを巻き起こした。
いや、内容が痛快というのは、物語が面白いとか、モーツァルトのキャラがユニークだとか、そうしたことだけでなく、2時間40分、モーツァルトという実在した音楽家の曲が全編に流れるのも大いに関係している。
しかし、モーツァルトって、本当にこんなキャラだったのだろうか?
調べてみると、舞踏会で女性のスカートをめくったり、幼児的な下ネタ好きだったというのは、どうやら本当のことらしいのだ。
その意味では、この作品のキャラは決してそうそういい加減なものではないのかもしれない。というより、実際に近いのかも。
物語はサリエリという宮廷音楽家の元を訪れた神父に対し、サリエリが彼の見たモーツァルトの話を語っていくという形式で進行するが、このサリエリの存在がモーツァルトのキャラに次いで、物語の中で重要な要素になっている。
サリエリがこれほど絡まなかったら、話はもっとつまらないものになっていたと思う。
サリエリはモーツァルトから屈辱を受けたり、その人間性に深く落胆しながらも、彼の才能に底知れぬ嫉妬を抱き、あらゆる場面でモーツァルトの不利益になるような行動をとる。
モーツァルトは最後までそんなことにも気づかずに、ついには「レクイエム」の作曲をサリエリに手伝ってもらいながら、やがて息を引きとるのだ。モーツァルトは共同墓地に埋葬される。
私は、音楽としては、クラッシックの中ではフランスのフォーレという作曲家が好きで、モーツァルトはさほど好みではない。
しかしこうした映画では、モーツァルトの曲のエネルギーや楽しさは、抜群にいい効果を生んでいる。
映画を見ていて、心が弾む。音楽だけを聴くのと、映像を観ながら音楽を聴くのとでは、また感じ方が異なるということを、この映画を観て改めて知ったのであった。
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大作曲家の通称については、中学校の音楽室に、音楽の父=バッハ、音楽の母=ヘンデル、交響曲の父=ハイドン、楽聖=ベートーヴェン、ピアノの詩人=ショパン、ワルツの父=ヨハン・シュトラウス、そして神童=モーツァルトというように、その作曲家の肖像の額縁が飾ってあったのを思い出しました。
この映画「アマデウス」は、才能のない努力家の天才に対する嫉妬を、老獪さ、卑怯さ、悪意、陰湿の視点から面白おかしく描いた人間ドラマの秀作だと思います。
この映画は、原作がイギリス人のピーター・シェーファー、監督が当時のチェコスロバキアの映画界から亡命してきたミロス・フォアマン、主人公はオーストリア人で、物語の舞台は、ウィーンという、アメリカ映画なのに、アメリカ的な要素が一つもない作品なんですね。
「アマデウス」という映画は、従来あまりなかったタイプの面白い人間ドラマだと思います。
原作のピーター・シェーファーの戯曲は、日本でも過去、何度も舞台で上演されて評判となっており、その着想がまず、あっと言わせる面白さに満ち溢れていますね。西洋音楽史上、最も偉大な作曲家の一人であり、文字どおり神童と呼ばれるに相応しい人物であるモーツァルトが、この映画ではとんでもない俗物として描かれているんですね。
実に安っぽい、下品な青年であり、エッチな冗談ばかり言って、不作法にケラケラ笑っている。天才らしい反権威主義的な傍若無人の奇行というのではなくて、それが本当に、品性の下品さからくるものだった、というのが意表をついています。
ただし、品性が下品だといっても悪気のある人間ではなく、むしろ、それは無邪気さからくるもので、大きくなっても悪ガキみたいな人物だったということになっているんですね。
そういう知性も才気も全然、感じさせない、男らしい魅力なんてものもまるでない、むしろ道化師みたいな人物としてのモーツァルトを、これも別にどうってことのない新人俳優のトム・ハルスが演じていますね。
そんなバカなことがあるものか。
こんな下卑た奴に、この世のものとも思えない、あの優雅で繊細な曲が書けたはずがない、と一応は誰でも思うわけですが、それに対してこの物語は、芸術家にとっての天才と品性は無関係だと、ぬけぬけと言い張っているんですね。考えてみれば、それもそうかもしれない。確かに、それは一面の真理だと思います。
昔のいわゆる音楽映画などは、芸術家をあまりにも崇高に描きすぎていたと思って、この新説を楽しめばいいのだと思います。この物語の重点は、モーツァルトの品性を貶めることよりも、むしろ、そういう一つのフィクションを設定することを通じて、才能のない努力家の天才に対する嫉妬を面白おかしく描くことの方に置かれているので、あまりムキになって気にすることもないと思います。
アマデウスというのは、モーツァルトの正式な名前のウォルフガング・アマデウス・モーツァルトからきているのですが、この作品の主人公はむしろ、彼の才能に嫉妬するあまり、遂に彼を毒殺するに至るウィーン宮廷のお抱え作曲家のアントニオ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)だと思います。
彼は凡庸な努力家で、自分はこんなにも努力しているのに、神はこの自分に才能を与えないで、あの下卑たアマデウスに天才としての才能を与えている、神はけしからん、不公平だと憤慨するのだ。
実際、人間というものは、平等にはできていないし、そのために腹立たしい思いをすることは誰にもあるものだ。
だから、この凡庸な努力家の言い分には一理ある。と同時に、人間誰しも、それを言ったらおしまいだ、という常識も持っていて、その腹立たしさを理性で抑えているわけだ。
ところが、この凡庸な努力家は、その抑えの効かない困った奴なのだ。映画を観る側の我々としては、なまじ彼の言い分に共感できる面があるだけに、そういう考え方に共感する自分を肯定するわけにもいかず、そういう自分の考え方を抑える代わりに、この凡庸な努力家を軽蔑することになるのだ。
そして、サリエリが、嫉妬のあまり愚行を重ねれば重ねるほど、なんて愚かな奴だろうと思い、サリエリを演じるF・マーリー・エイブラハムが、この人物をいかにも愚か者らしく演じれば演じるほど、この愚か者めが、自分の分を知れ、と嘲笑を浴びせて楽しむことができるのだ。
その年のアカデミー主演男優賞のほか、各映画賞を総なめにしたF・マーリー・エイブラハムという役者のうまいところは、観客からバカにされて笑い者にされる役でありながら、憎めず、かつ観ていて他人ごととは思えないほどの切実なリアリティも感じさせるところなのだ。
つまり、ただの憎めない愛嬌者の道化師ではないのだ。
むしろ、陰気で重厚でさえもありながら、道化でもあるというところが、実にうまい。そして、この男が、嫉妬という、誰にでもある、つまらない、しかし手に負えない感情の愚かさをむき出しにして、徹底的に笑わせてくれるためには、アマデウス・モーツァルトがバカまる出しの安っぽい人間であればあるほど効果的なのだ。
というわけで、モーツァルトに関しては、果たしてこれほど軽薄な青年に、あんなに精神的な深みのある音楽が書けるものだろうかという疑問は、必ずしも納得されないまま、しかしこの設定は、一つの素晴らしい冗談として面白く受け容れることができるわけだ。
しかし、さらに考えると、これは必ずしも冗談でもないかもしれない。
現に過去の歴史において、似たような状況は、実際に起こっているのだ。1950年代のアメリカに、エルヴィス・プレスリーが登場した時、また1960年代のイギリスにビートルズが現われた時、世間の大人たちは誰しも、なんという軽薄な若者かと思ったものであろう。
それが見る見るうちに”天才”と評価されるようになり、ビートルズに至っては、不良少年のイメージのまま、なにやら世界の音楽界に革命を起こした偉大な芸術家のように見なされてしまったのだ。
彼らをただの不良だと見た者は、肩をすくめて、どうせ俺なんかは凡庸さ、コツコツ努力したところでタカが知れているんだ、と苦笑して、不良の方が成功するように見える社会の風潮に対する不満を持て余すのだ。
プレスリーやビートルズのような大物だけではない。
マスコミでもてはやされる連中の相当部分が、そんな風に見えるのが現代の社会というものなのだ。
そして、この持て余した、その気分は社会全体に随分と澱のように溜まっていると思います。そういうモヤモヤした、あまり愉快でない感情に対して、この映画は一種の解毒剤のような意味を持っているのかもしれない。
この映画は、「凡庸なるサリエリよ、天才は同時に人間的にも高級なはずだと思いたがる迷妄から覚めよ。奴らを自分と比較することを止めよ。そうすれば嫉妬に身を焼いて自滅することもないであろう」と語っているかのようなのだ。また、内容的にも、アメリカ映画好みの正義とか勇気とか善意とか明朗さ、快活さという要素は一つもなく、老獪さ、卑怯さ、悪意、陰湿さなど、ことごとくその逆のもので出来ている。
しかし、ではこれは要するに、ヨーロッパ的な映画であって、非アメリカ的なものかと言えば、必ずしもそうとも言い切れない。
快活ではないが、陰気というわけでもなく、それを逆説的に途方もない陽気なバカ騒ぎに置き替えているあたりは、アメリカ映画ならではの特色だと思います。原作の戯曲は、以前、舞台劇を観たかぎりでは、もっと辛辣で、この映画のように陽気ではなかったという印象を持っています。
この映画化作品は、ほとんど躁病の世界だと思います。
アメリカ映画が、それまでの得意としてきた度外れの陽気さというものの裏側まで描くようになったのだと思います。アメリカ映画は、こうして己の世界を拡大深化させるために、ヨーロッパ勢の力をどしどし取り入れて、文字どおり世界映画になっていったのだと思います。
サリエリは鏡だ。私たち凡人を映し出す純粋無垢な代表なのだ。
天然天才のモーツアルトに出会い驚き、嫉妬し、羨望し、自分の理想像とのギャップに苦しみそれを自ら破壊する。
サリエリこそまさに私自身ではないか!
エレガントな音楽に包まれた偉人伝記ミステリーにして、ここまで感情移入できる作品は今までなかったと思う。
さあ!次見るときはどんな自分が映っているんでしょうか?