叫びとささやきの紹介:1972年スウェーデン映画。19世紀末、母親の想い出の残る大邸宅でアングネスとの最後の日々を、姉のカーリン、妹のマリーア、召使のアンナが過ごしていた。彼女たちの苦悩と救いが描かれる。
監督:イングマール・ベルイマン 出演者:イングリッド・チューリン(カーリン)、ハリエット・アンデショーン(アングネス)、リヴ・ウルマン(マリーア)、カリ・シルヴァン(アンナ)、エルランド・ヨセフソン(ダーヴィッド)
映画「叫びとささやき」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「叫びとささやき」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「叫びとささやき」解説
この解説記事には映画「叫びとささやき」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
叫びとささやきのネタバレあらすじ:起
霧の早朝、森に面した屋敷の中で置時計が時を刻んでいる。ソファには妹のマリーアが、ベッドには姉のアングネスが寝ているがアングネスが先に目覚める。苦しそうな顔をしてコップの水を飲む。窓から外を見てから日記を書き始める。病気の重い彼女を姉のカーリンと妹と召使のアンナが看護しているのだ。やがてアンナとカーリンも部屋に入ってきた。一日が始まり、カーリンは一家の財産を調べ、アンナは朝のお祈りをする。彼女は幼くして死んだ娘のために祈っていた。アングネスは20年前に死んだ母親を思い出す。美しいがどこかよそよそしかった母親。自分にはいらいらして話をする母が母親似のマリーアにはささやくように話す。だが、今では母の悲しみがわかるようになっていた。
叫びとささやきのネタバレあらすじ:承
誰が来るのかと不安になるアングネスだったが、医師のダーヴィッドだとわかり安心する。診察後アングネスがもう長くないことをカーリンに告げて帰ろうとするダーヴィッドを扉の陰にいたマリーアが引き止める。二人はかつて愛人関係にあった。数年前マリーアが夫のヨーアキムとこの屋敷に滞在していたとき、夫の留守中にダーヴィッドがアンナの娘を往診したときのことを思い出すマリーア。嵐を口実にダーヴィッドを屋敷に泊めた翌朝夫が帰宅する。夫の様子がおかしいので不安になったマリーアが夫の部屋に入るとナイフを腹に突き刺して「助けて」と声を出す夫がいた。
叫びとささやきのネタバレあらすじ:転
容体が悪化して叫ぶアングネスだったが最後はアンナを枕元に置いて穏やかな顔になって逝く。牧師の訪問の後、カーリンは外交官である夫のフレードリクとの数年前のこの屋敷での食事を思い出す。カーリンがワインのグラスを割ってしまっても特別気に留めるようでない夫。夫が食事を終えた後「何もかもうそばかり」とささやくカーリン。寝室に入る前に彼女はワイングラスの破片で下腹部を傷つけベッドで血まみれの姿を夫に見せつけるのだった。
叫びとささやきの結末
カーリンは屋敷を売ってアングネスの分をカーリンとマリーアで分け、アンナには暇を出すという。マリーアに対してずっとよそよそしくしていたカーリンはマリーアをずっと嫌っていたことをぶちまける。だが、言い過ぎでマリーアを傷つけたことに気付いたカーリンは謝罪して二人は心を開いて話しこむのだった。夜、子供の泣き声のような声を聞くアンナ。それは死んだアングネスの声だった。ベッドで「死んだのにみんなが心配で眠れない」というアングネス。彼女はカーリンを呼ぶが、側にいてと願うアングネスを、愛していないからとカーリンは拒絶する。マリーアはアングネスの側にいて慰めようと努力するがアングネスに抱きしめられると恐怖に耐えられず寝室から逃げる。結局アンナが、生きていた時と同じように、アングネスをあやすのだった。葬儀が終わって。姉妹と夫たちはアンナの処遇について話しをする。アンナにアングネスの形見を選ぶように言うが彼女は断る。月末での解雇が決まる。一人残されたアンナは引き出しを開けてアングネスの日記を開く。姉妹三人とアンナが散歩をした幸福な日の日記を読むのだった。
イングマール・ベルイマン監督の「叫びとささやき」は、戦慄的な、衝撃的な、ほとんど完璧といっていい、芸術的な作品だと思います。
19世紀末、スウェーデンの田舎の邸宅で、癌を病み、死期迫る中年の次女(ハリエット・アンデルセン)と、それを見舞う冷淡な長女(イングリッド・チューリン)と多情な三女(リヴ・ウルマン)と、素朴な召使い(カリ・シルヴァン)。
この四人の女たちに、イングマール・ベルイマン監督は、まさに”女”の深奥を凝視し、抉り出します。
激痛に苦しみぬく次女の姿は、あまりの凄まじさで、正視に耐えません。そのうめきや絶叫は、死への恐怖だろうか、生への執着だろうか。
冷たい表情をくずさぬ長女は、二十歳も年上の外交官の夫と、五人の子供までもうけながら、性の悦びを知らず、知らないからこそ夫を憎み、自分が女であることを嫌悪するかのように、我と我が深部にガラスの破片を突き刺すのです。
そして、三女は医師と情事を持って、富裕な商人の夫を、嫉妬の自殺未遂に追いこんだこともあるのです。
未婚の次女も含めて、三姉妹が真の愛を知らないとすれば、豊満な健康体で、無償の愛で、瀕死の次女に仕えて、胸のぬくもりに病人をかき抱く、田舎女の召使いは、まるでボッティチェリの描く聖母像を思わせます。
この作品は、ドラマ風の物語性はなく、だが”演劇”的で、しかも、鮮烈な”映画”だと思います。
ベルイマン監督は、幼年の頃、魂の色は赤いと信じていたそうです。
その、血に似た深紅の色彩を、場面ごとの溶暗溶明に使っています。
赤い”魂”とは、女の性か生か、すなわち、エゴの象徴であろうか。
女の命が叫び、そしてささやくのです。
回想場面で、三人姉妹の美しい母(リヴ・ウルマンの二役)が登場しますが、ベルイマン監督はこの作品を「我が母に捧げる」と語っていて、母の胎内から生まれて、だが不可解な”女”というものを、四人の女たちの内に、冷徹に見据えるベルイマン監督。
その恐ろしいまでの残酷さに、だが厳しい美しさと崇高な感動があるのです。
ここまで”女”を描くベルイマン監督は、あたかも狂人に似て、彼の狂気の前にはひれ伏してしまいます。