大菩薩峠の紹介:1960年日本映画。市川雷蔵主演の大映版「大菩薩峠」3部作の第1部。大菩薩峠頂上で一人の老人が辻斬りに遭って命を落とす。以来、虚無的な剣士・机竜之介によって人々の運命は狂わされていく。幕末を舞台に実在・架空の人物が入り乱れる中里介山の未完の大長編小説は何度か映画化されているが、本作は衣笠貞之助脚本の作品。
監督:三隅研次 出演者:市川雷蔵(机竜之助)、中村玉緒(お浜/お豊)、本郷功次郎(宇津木兵馬)、山本富士子(お松)、菅原謙二(近藤勇)、根上淳(芹沢鴨)、笠智衆(机弾正)、見明凡太朗(裏宿の七兵衛)そのほか
映画「大菩薩峠」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「大菩薩峠」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
大菩薩峠の予告編 動画
映画「大菩薩峠」解説
この解説記事には映画「大菩薩峠」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
大菩薩峠のネタバレあらすじ:起・奉納試合
巡礼の旅をする少女お松とその祖父は、富士山が遠くによく見える大菩薩峠の頂上に来た。お松が水を取りに行ったとき、編み笠をかぶった侍が祖父に声をかけ、一刀のもとに斬り捨てて峠を下っていった。その辻斬りの侍と道ですれ違った後、盗賊裏宿の七兵衛は、祖父の亡骸を見て泣くお松を見つける。
その侍は机道場の若先生、机竜之助。帰宅した彼を、御嶽山奉納試合の相手と決まった字津木文之丞の妹でお浜と名乗る女が訪ねてきた。彼女は、試合の後大名の指南役として召し抱えられる予定の文之丞に勝ちを譲れと言う。
だが竜之助は、武道の試合では親も子もないと、お浜の頼みを断る。彼の不人情をなじるお浜に竜之助は、親兄弟の命にかかわるなら女の操も捨てられるかと迫る。
水車番の与八は捨て子だったが、竜之助の父弾正が拾って養った。竜之助はその与八に命じて帰り路のお浜を誘拐させる。自分が実は、祝言こそまだ挙げていないものの文之丞の妻であることをお浜が白状するが、竜之助はかまわず水車小屋でお浜を犯す。事情を知った文之丞はお浜を許さず離縁を申し付ける。お浜の憎しみの対象は竜之助から文之丞に移る。
奉納試合では遺恨により、木刀を構えた二人の間に殺気が立つ。結局、審判が引き分けを宣告するその時に、「音無しの構え」の竜之助の前にとび出した文之丞が面を取られて即死する。竜之助は字津木門下の者たちの闇討ちを退けてから、お浜と共に江戸に出奔した。
文之丞の弟兵馬は兄の仇討ちを志し弾正を訪れる。弾正は息子竜之助の、魔剣に堕ちた音無しの構えを破ることを兵馬に託し、その修行のために江戸の島田虎之助を紹介する。
一方、裏宿の七兵衛はお松を、お松のおばが嫁いだ江戸の大店に連れていくが、おばは面会すら拒否する。ただ、いきさつを目撃した生花の師匠お絹がお松を預かることを申し出る。
大菩薩峠のネタバレあらすじ:承・江戸での出会い
4,5年が過ぎた。竜之助は吉田竜太郎という偽名を使ってお浜と共に江戸に暮らし、江川太郎左衛門の屋敷で剣術を教える仕事を得ていた。
二人の間には郁太郎という男の子が生まれたが、お浜は竜之助の近頃の怠惰な生活や浪人ばかりと付き合うことに不満をつのらせていた。
だがある日、竜之助は島田虎之助道場の稽古を目にし、島田に師範代との試合を申し込む。師範代は音無しの構えの前に完敗した。片柳兵馬と名乗るその師範代がやはり字津木兵馬であったことを、竜之助はお浜との会話を通じて確信する。
一方、兵馬が雨に濡れているのを見て、美しい娘に成長したお松は、お絹の家の玄関に雨宿りさせる。それが二人の出会いであったが、ちょうど帰宅したお絹からお松は、旗本神尾主膳の屋敷に奉公することが決まったことが告げられる。
大菩薩峠のネタバレあらすじ:転・剣は心なり
神尾主膳の屋敷では旗本たちと女中たちが百人一首に興じる。ただし、自分の目の前の札を取り損ねると着物を少しずつ脱いでいくという破廉恥な趣向を凝らしていた。お松はあやうく裸にされかけるが、裏宿の七兵衛が泥棒騒ぎを起こしたすきに屋敷から逃げ出す。
逃げるお松を匿ったのは、弾正亡きあと江戸に出てきた与八だった。与八が大菩薩峠の近くで育ったことを知り、お松はもう一度あの峠を訪れたいと思う。しかし偶然、今は落ちぶれて昔の番頭としがない商売をしているおばがお松を発見し連れ去ってしまう。
竜之助は佐幕派の浪人、近藤勇、芦沢鴨、土方歳三らと付き合っていたが、彼らは勤王派に通じた清河八郎の粛清を決め、竜之助は土方率いる浪人たちが清河の駕籠を襲撃するのに付き合う。
ところが彼らは間違って島田虎之助の駕籠を襲ってしまう。竜之助は島田が次々と腕に覚えのある浪人たちを倒していくのを目撃する。「剣は心なり。心正しからざれば剣も正しからず。剣を学ばんものはまず心を学べ」と言って島田は夜道を去っていく。
大菩薩峠の結末:お浜の最期と幻
竜之助は芦沢鴨から他の浪人たちと共に京都に上ることを誘われる。お浜は自分と郁太郎を残して京都へ行くのかと怒る。さらに近藤勇、土方歳三の後ろ盾を得た字津木兵馬が竜之助に果し状を送る。
お浜は竜之助に兵馬に討たれてほしいと言う。竜之助、郁太郎との無理心中を試みたお浜を斬りすてて竜之助は消える。お浜の亡骸を見つけた兵馬は郁太郎を与八に託し、近藤、土方と共に京都へ上る。
京都へ行く途中、竜之助は死んだお浜にうり二つの女が茶店で駕籠賃のことで駕籠かきともめているのを助ける。その女は男と駆け落ちし、二人で追っ手から逃げていた。
京都の遊郭街でお松と兵馬は再会する。おばによってお松は売りとばされ、今は近藤の愛妾御雪大夫のお世話をしている。彼女自身も間もなく遊女にされようとしていた。
新選組が宴会を開いている晩、お松は、新選組内で近藤と対立する芹沢が竜之助に近藤殺しを依頼するのを聞いてしまう。密談を聞かれた竜之助はお松に、自分がいる間部屋に留まるように命じるが、やがて頭痛、幻聴に苦しみ始め、とうとうお浜の幻に向かって斬りかかり始める。
騒ぎが大きくなり、竜之助が目の前にいることを知った兵馬はついに兄の仇に戦いを挑むのだった。
以上、映画「大菩薩峠」のあらすじと結末でした。
人間と言うものの正体(本性・さが)について考えさせられる作品である。この作品に限った事でではないが、映画というものは常に鑑賞者の性別・年齢・人生経験などによって評価が分かれる。視点も論点も無限に存在するので論評やコメントも人其々。昭和30年代~40年代の日本の時代劇や怪談映画には、情念の深淵や人間の性(さが)などの深層心理を読み取ることができる。例えば「四谷怪談」などはお岩の亡霊よりも、身勝手で慈悲の欠片も無い伊右衛門の狂気の方が余程恐ろしい。「大菩薩峠」で虚無(ニヒリズム)の権化である机竜之介は、ある意味では人間の原型を体現しているのではないか。無駄を極力排して、自己の欲望の趣くままに行動しているからだ。竜之介は、可哀相な身の上のうら若き乙女にも一切同情しない。それは我が子であろうと妻であろうと変わらない。他人に決して心を許さず、己の武術の腕前と刀剣にのみリアリティーを感じ取る。この徹底した一貫性には共感はしないが一定の説得力を感じる。この男の善悪や美醜を超えたニヒリズムに孤高の美学を見るのである。基本的にはフィクションであり娯楽時代劇だが、幕末の乱世においてはさもありなんである。市川雷蔵に始まり市川雷蔵に終わる。「大菩薩峠」は正に雷蔵の為に製作されたかのような仕上がりを見せている。田宮伊右衛門の狂気に満ちた怖さを市川演ずる竜之介に感じたのだ。彼の一挙手一投足に目が離せず、流し目の冷徹で無慈悲な光には戦慄さえ覚えた。台詞や言葉遣いにも当時の大映の様式美があり、衣装やセットなどにも江戸時代の風情があって寛ぐ事が出来た。市川雷蔵の為の映画だと言ったがそれは主旋律であって、登場人物のエピソードの数々や人物像なども含めて群像劇の要素もあって大変見応えがあった。山本富士子が艶やかな着物姿で江戸の小娘をサラリと演じている。その様はとても美麗でそのまま額に入れて飾っておきたいくらいである。実に色々様々な要素がてんこ盛りで大満足の映画である。登場人物のエピソードを取り上げて、スピンオフ作品を作っても「面白いなあ」などと考えながら鑑賞。