田園に死すの紹介:1974年日本映画。寺山修司監督の長編劇映画二作目。寺山自身の同名歌集をモチーフとしてストーリー化した、恐山、母の呪縛からの脱出という寺山の自伝的要素の濃い作品です。
監督:寺山修司 出演:菅貫太郎(私)、高野浩幸(少年時代の私)、高山千草(私の母)、八千草薫(若妻・化鳥)、斎藤正治(股引)、春川ますみ(空気女)、新高恵子(草衣)、ほか
映画「田園に死す」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「田園に死す」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「田園に死す」解説
この解説記事には映画「田園に死す」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
田園に死すのネタバレあらすじ:起
父を戦争で亡くした中学生の「私」は母と二人で恐山の麓の村で暮らしていました。私は思春期の少年らしく、近所の若妻に憧れ、包茎に悩んでいます。母に叱られたある日、私は恐山に足を運び、イタコをに呼びだしてもらった父に、母が口うるさいので、春がくると母を捨てて家出をしようと考えていることを打ち明けます。私は村に来たサーカス団の団員たちが各自一つずつ時計を持っていることに衝撃を受けます。私の家には壊れた柱時計ひとつしかなかったからです。
田園に死すのネタバレあらすじ:承
私は母に腕時計を買ってくれるよう頼みますが取り合ってもらえません。やがて、私は近所の若妻と徐々に懇意になっていきます。そして、ついには「一緒に遠くに行こう」と駆け落ちを持ちかけられます。彼女は半ば強引に連れてこられた嫁ぎ先での生活にうんざりしていたのです。ある夜、二人は駅で待ち合わせ、汽車の線路伝いに歩いて旅だって行きます。二十年後、映画監督となった私は試写室にいました。ここまでのストーリーは彼の自伝映画の一部だったのです。
田園に死すのネタバレあらすじ:転
私はバーで、映画プロデューサーに「もしも過去に戻って三代前の祖母を殺せば現在の自分はいなくなると思うか」と尋ねられ、答えを探しながら戻ったアパートで十五歳の私に出会います。実は、映画で描かれた私の少年時代は美化された虚偽のものでした。現実は、すがりつく母を振り払って逃げるように家を出て、若妻との待ち合わせ場所に着いたものの、若妻の姿はなく、探したあげく見つかった彼女は愛人と一緒でした。そして愛人に命じられ、私が酒を買いに行っている間に、二人は心中していました。
田園に死すの結末
私は、いつの間にか二十年前の故郷に戻っており、そこで少年の私に出会います。二人は将棋を指しながら語り合います。現在の私は、二十年前に家出をするときについてきてしまった母と一緒に住んでいるのでした。現在の私は、少年の私に母を殺すように命じ、縄と鉞を取りにいかせます。が、少年の私は途中で娼婦につかまり、一向に戻ってきません。仕方なく現在の私は自分で母を殺すために家に戻りますが、二人はただ向き合って食事をするだけでした。そして二人はいつの間にか二十年前の故郷ではなく、現在の東京にいるのでした。
私は20歳の時にこの映画を観て、「こんな映画観たことない」と、驚嘆したものだ。
現代文学を考える上で、この映画の作者寺山修司は絶対に無視することはできない存在だ。
寺山修司。歌人。劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
1983年、47歳の若さで亡くなった。
その活動は、短歌、戯曲、詩、映画、脚本、評論など、多岐にわたった。
さて、「田園に死す」である。
物語らしい物語はない。前半はひどく土俗的に誇張された村での自分の少年時代を豊饒なイメージ溢れる映像の中に描き、後半は20年後の自分が登場して、その村の近くで少年と語り、もう一度少年時代を再構築しようとする。
問題は、その豊饒なイメージである。
この作品は、殆どがイメージを形にした映像の連鎖の妙味で成り立っているが、その映像は寺山修司独特のものなのだ。
まず映画が始まると、いくつかの短歌が寺山自身によって詠まれ、いったん破れたのを貼り付け直した奇怪な人の顔写真が画面に現れる。それが何枚か映されたのちに、恐山を中心にした奇妙な映像が次々と映し出される。
黒いカラスのような格好の老婆たち。
顔を白く塗った母と、中学生くらいの主人公。
反抗期にあるらしいその少年は、隣りの本家の若妻(八千草薫)が好みのタイプだ。
ここでまた短歌が挿入される。
少年は恐山に父親に会いに行く。そしてイタコに向かって、春になったら母を捨てて家出することを話す。
ほったて小屋のサーカスが村にやってくる。
そこには奇怪な人々ばかりがいる。
そのサーカスの光景が次々と展開した後、再び破れた顔写真に短歌が重なる。
そのあと隣りの若妻から少年は駆け落ちを持ちかけられる。
若い女がててなしごを産み、皆がかわいいという。
若妻と少年は、深夜一緒に駆け落ちする。
2人一緒に線路に沿って歩くと、布団が2組台車に乗って流れてくる。
ここまでは、実は試写室で観ていた作者(私)が作ったフィルムで、「私」は新宿のある試写室にいたのであった。
この夜、「私」は新宿でこの映画の中の少年、つまりは20年前の自分に出会う。
作者(私)は、ここまでは私自身の嘘だったといい、ここから記憶の修正が始まる。
奇怪な映像世界は後半へ突入していく。
「私」は、20年前の自分と、20年前の真実を探しに行く。
ここまでが前半部分だが、これ以上は書いてもあまり意味がないだろう。
実際の映像はいくら言葉で説明しても、観ていただかないと伝わらないからだ。
人生がそうであるように、映画も綺麗事だけでは済まされないとするならば、やはりこの映画は無視できないだろう。
この映画を観ることによって、寺山修司の世界の一端に触れるのも意味のあることかもしれない。