ランボーの紹介:1982年アメリカ映画。ランボーシリーズの第一作にしてアクション映画としても反戦映画としても傑作中の傑作。ロッキー以来当たり役に恵まれていなかったスタローンの演技は気迫を感じる。
監督:テッド・コッチェフ 出演:ジョン.J.ランボー(シルヴェスター・スタローン)、サミュエル・トラウトマン大佐(リチャード・クレンナ)、ティーズル保安官(ブライアン・デネヒー)ほか
映画「ランボー」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「ランボー」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「ランボー」解説
この解説記事には映画「ランボー」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
ランボーのネタバレあらすじ1
アメリカ北部の山間の街にベトナムでの戦友を尋ねてきた一人の若者(ランボー)がやってきます。よそものに警戒心を持つ保安官が署に連行しますが、放水等の仕打ちを受けた若者は逃走し山中へと隠れてしまいます。
追ってきた保安官とその部下は若者にことごとく傷付けられ、山を下りること余儀なくされます。そして若者が元グリーンベレーで栄誉勲章を受けたゲリラ戦のプロだと分かります。
ランボーのネタバレあらすじ2
保安官は州兵を動員して山狩りを決行しようとしますが、そこにランボーのかつての上司であるトラウトマン大佐が現れて警告します。「彼を助けたいのではない。君らを守りたいのだ。彼は戦闘のプロだ。苦痛に耐えることも平気。豚の吐いたものでも食べて生き延びる。全員死ぬぞ。」
その警告も聞かずに山狩りを実行した保安官と州兵はランボーを炭鉱跡に追い詰めロケット砲で攻撃します。
ランボーのネタバレあらすじ3
これで誰もがランボーの死を確信するが、彼は炭鉱奥に逃げ延びて脱出し、保安官達に復讐すべく州兵の補給トラックを奪って街に乗り込みます。夜陰に紛れ銃器を使ってガソリンスタンドや銃砲店を破壊したランボーは、ついに警察署で保安官を発見し機関銃を発砲します。
目的を果たしたランボーだったが、署はすでに包囲されており脱出が困難だと悟ります。そこにトラウトマン大佐が一人で説得にやってきます。
ランボーの結末
「ランボー、もう戦争は終わったんだ!」
「何も終わっちゃいない!みんな死んでしまった。あんたらが始めた戦争だ。ベトナムじゃあ、何百万もする兵器を扱えた。でもここじゃあ駐車場の仕事もない。俺たちは必死に戦った。そんな俺たちが帰って来た空港で”子供殺し”なんて言いやがる。奴らに何がわかるんだ!」
そこでベトナム帰還兵の本当の苦悩を聞いた大佐はランボーを抱きしめ投降させます。
カメラのライトの中、ランボーの悲しげなアップで終わるラストからはアクション映画のスカッとした結末はなく、戦争の悲しみがにじんでいる気がします。
以上、映画「ランボー」のあらすじと結末でした。
この映画「ランボー」は、ヴェトナム戦争を経験したアメリカの抱える内部矛盾を描いた傑作だと思います。
映画「ランボー」はデヴィッド・マレルの小説「一人だけの軍隊」の映画化で原題を”FIRST BLOOD”といい、”ランボーシリーズ”の記念すべき第1作目の作品となっていますね。
シルヴェスター・スタローン演じるランボーは、かつてヴェトナムで戦った特殊部隊グリーン・ベレーの生き残りで、ヴェトナム帰りの彼が地方の小都市をひたすら暗く絶望的な表情で、まるで浮浪者のように歩いているシーンから映画は始まります。
これから何かが起きそうな予感を漂わせた鮮やかな冒頭シーンで、これから始まる映画的世界への期待と興奮でワクワクさせる見事なテッド・コッチェフ監督の演出です。
死線を越えてようやく帰ったアメリカなのに、故郷は彼を歓迎してはくれず、ヴェトナム時代の戦友を訪ねてこの小都市へやって来たのだが、その戦友も戦争後遺症ですでに死んでいました。
虚脱状態でこの町を歩いている時、ランボーは保安官から浮浪者として留置される事になります。
そして、この留置された時のエピソードがこの映画の中で非常に重要な意味を持つ事になります。
終始無言のランボー、保安官助手たちはそんな彼に暴行を加えます。
初めはじっと耐えていますが、彼のヒゲを剃ろうと持ち出した剃刀を見た時、彼は突然、暴れ出し、数人の署員を全部叩きのめして脱走します。
ランボーの脳裏にヴェトナムの血の記憶と共に戦闘意識が甦るこのシーンは、寡黙で生気を失っていたランボーが、かつての特殊部隊員としての血に目覚め、戦う男として復活する鮮やかなシーンを実にうまく演じています。
山林へ逃げ込んだ彼は、保安官や軍隊を相手にたった一人で戦います。
それまでだったら、スティーヴ・マックィーンがぴったりだったような役柄をスタローンは「ロッキー」以上にシェイプアップした肉体で演じ切ります。
“肉体の躍動こそ俳優の基本”である事をスタローンはあらためて教えてくれます。
このランボーが近くの山林へ立てこもり、彼を逮捕にやって来る警官を特殊な戦闘能力を身に付けたランボーは、次々と鮮やかな方法で殺していきます。
そこへ、ヴェトナム戦争時の上司のリチャード・クレンナ演じるトラウトマン大佐が現われ、保安官に、「お前のかなう相手じゃない、ランボーは。グリーンベレーの精鋭だった。ゲリラの名人、殺人の天才だ」と語り、ここでランボーの正体が明らかになり、我々観る者は納得するという映画的な仕掛けになっています。
このようにして、山林の中はランボーによる陰惨な殺しの場面となっていきますが、スタローンの寡黙で暗く、厳しくハードな表情には鬼気迫る凄みがあり、「ロッキー」のアメリカン・ドリームを基調とした楽天的な根性に対して、「ランボー」のスタローンは、いわば陰画的な色彩を帯びた人物像をうまく体現しています。
そして、遂に町を火の海と化してしまい、壊滅状態に陥らせますが、説得に来たトラウトマン大佐を前にして彼は、「ヴェトナム時代には、まだ友情もあった。だが、戦争が終わった今の俺は何だ。誰にも相手にされない。全くの孤独だ。あれは一体、何のためにやったんだ」と内なる心の叫びを声に出して言います。
この映画の原題名の”FIRST BLOOD”というのは、”最初に見た血の記憶”という含みと共に、”仕掛ける”という意味もあります。
今回の事件を本当に仕掛けたのは、一体誰なのか? 保安官の指示に従わなかったランボーか、彼を痛めつけた保安官たちか。
この映画には、3人の主要人物が登場します。
極限まで鍛えられた肉体で戦い続けるランボー。
戦う事のみを教えられた彼は、社会的な順応が出来ません。
次に、その彼を追う保安官。
自分たちの町の平和を守るための行動ですが、よそ者を排除するという行為にアメリカ人の心の奥底に潜む保守性がまざまざと見え隠れします。
保安官は、州警察の指揮をも拒否し、「ここは俺たちの町だ!」と叫びます。
この保安官のキャラクターは、任命採用される警察官ではなく、住民たちの選挙で選ばれた保安官であるという事が、重要な鍵になります。
つまり、保安官というのは住民の象徴になっているのだと思います。
そして、もう一人がランボーを特殊部隊グリーン・ベレーの戦闘員に育て上げた元上司のトラウトマン大佐。
ランボーの戦い方を得意気に見抜き、強さを語る、鼻持ちならない男。
彼こそ戦争を仕掛けた男かもしれません。
映画を観終えた後に思うのは、テッド・コッチェフ監督が描きたかったのは、権力に対する抗議の戦いというものではなく、ヴェトナム戦争を経験したアメリカが当時抱えていた内部矛盾のその姿ではないでしょうか。
この映画の3つの人間像はその象徴であるような気がします。
ヴェトナム戦争の後遺症としての深い傷が、当時のアメリカには根強く残っていて、この映画「ランボー」は、派手なアクションの背後に、意味じくもこの事を映し出し、我々観る者に強い衝撃を与えたのだと思います。
そして、ラストの解決は、一見甘いようにも見えますが、戦争のプロによる平和恢復というところに、”もの凄い皮肉と不安”があるような気がしてなりません。