祇園囃子(ぎおんばやし)の紹介:1953年日本映画。巨匠・溝口監督の秀作で、戦前に作られた自身の「祇園の姉妹」を思わせる花柳映画。「西鶴一代女」「雨月物語」などと比べて知名度は低いが、その完成度の高さから戦後の代表作にあげる批評家もいる。
監督:溝口健二 出演:木暮実千代(美代春)、若尾文子(榮子)、河津清三郎(楠田)、進藤英太郎(澤本)、菅井一郎(佐伯)、田中春男(小川)、小柴幹治(神埼)、伊達三郎(今西)、浪花千栄子(お君)、ほか
映画「祇園囃子」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「祇園囃子」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「祇園囃子」解説
この解説記事には映画「祇園囃子」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
祇園囃子のネタバレあらすじ:起
まだ幼さの残る年頃の女の子が、荷物を下げて祇園の路地を歩いてきます。ある芸者置屋の玄関から中をのぞくと、金のなくなった客の一人がけんもほろろに追い出されるところでした。
女の子は恐る恐る三和土に入り、女主人の美代春に会いたいと告げます。彼女の名前は榮子。まだ16歳です。澤本という男が旦那となって芸妓に産ませた子で、母親が死んでからは実の叔父に引き取られました。
ところが、何かと辛い仕打ちを受けるため、思い切って母の朋輩だった美代春を頼って祇園に来たのです。
祇園囃子のネタバレあらすじ:承
榮子の容姿の良さを認めた美代春は彼女を引き取り、舞妓として育てる気になります。父親である澤本にも一応了解を取り付けますが、今はすっかり左前になった彼は文句を言う余裕もありません。
もともと舞妓になりたかった榮子は熱心に茶の湯、鼓、三味線、舞などの修業に励み、さらに置屋の掃除、炊事といった下働きも文句を言わずにこなします。
1年経ち、どうにか芸事を身につけた榮子は美代榮という名をもらい、いよいよお座敷に出ることになります。
祇園囃子のネタバレあらすじ:転
その店出しの晩から車両製造会社の若旦那・楠田に目をつけられた美代榮は、祇園で権勢を振るう「よし君」の女将・お君から、彼を旦那にするように強制されます。実は店出しに当たっての衣装代一切は、楠田が工面していたのです。しかしアプレゲールで反抗心の強い美代榮はそれに素直に従いません。
やがて美代榮は、中央官庁との折衝のため東京に出張する楠田に、美代春とともに同伴。美代春の方は、以前から接待していた役人の神埼の夜伽を務めるように言われますが、それを拒否します。また美代榮の方は無理やりキスをしてきた楠田の舌を噛み、大怪我を負わせることに。
祇園囃子の結末
このことでお君に嫌われた2人は祇園のお座敷に上がることができなくなり、困窮してしまいます。
やがて、美代春に執心する神崎は再び祇園へ。お君に請われた美代春は仕方なくお茶屋へあがり、神埼の夜伽を務めます。翌日、お土産を持って帰ってきた美代春に対し、美代榮は「好きでもない男を相手にした」といって責めますが、美代春は「あんたの体をキレイにしときたいのや」と語ったため、美代榮は号泣。
ようやくお座敷からの声もかかり、2人はそろってお茶屋に出かけていきます。
以上、映画「祇園囃子」のあらすじと結末でした。
「祇園囃子」感想・レビュー
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きらびやかな京都の舞妓さんの世界の、汚い裏側を描いていて、客の男たちや女将のクズ加減には腹わたが煮えくり返るような思いで見ていたが、それ以上に二人の師弟関係が美しすぎて、心が浄化された。
溝口作品は他に7作見て、どれも女性が強く描かれていたが、この作品はズバ抜けて素晴らしかった。
小暮実千代さんは悪女役のイメージがあったが、この役はハマリ役だったと思う。彼女じゃなければこの作品の美しさは出なかっただろう。
美しい日本映画を、埋もれさせてはいけない。
かつて昭和中期の日本には「完璧な美」によって構成された世界があった。その一つが昭和中期の京の「花柳界」や「色町」で垣間見る、哀しくも「美しい日常風景」だったのである。 溝口は、京の色町で生きる女の「日常の悲哀」を、「耽美主義とリアリズム」の折衷にのせて「完璧な美」にまで仕上げてみせた。 これぞまさしく「溝口美学」の集大成であり、これこそがまさに「溝口文学」の最高傑作ではないかと私は思う。 この作品は虚飾を排してシンプルな線と面だけで構成される「数奇屋造り」の究極の美にたとえることができる。 そしてこれは極限にまで磨かれた「大吟醸」と似ていて、生粋の日本人にしか味わえない「純文学の世界」なのである。 それはまた淀みなくとうとうとながれる「清流の水」でもある。 つまりこれは祇園に流れる「賀茂の水」ではなくて、貴船の山の「シルキーな奔流」のことなのである。 「掃き溜めに鶴」「水清ければ魚棲まず」「郷に入らば郷に従え」 この三つが、映画「祇園囃子」の意味するところでありエッセンスなのだ。 まるで「野いちご」のように愛くるしい「おぼこ娘の栄子」(若尾文子)は、日々、思春期特有の「潔癖症という強迫観念」と「罪悪感」に悩んでいた。 それは「自身を捧げて」上客をとる、或いは旦那になってもらうことへの「苦悩」「葛藤」であり抵抗でもある。 美代春(小暮美千代)を頼って(懇願して)祇園の敷居を跨いだ時点で、栄子は自らがすすんで「身売りしたのも同然」である。 祇園の芸者に志願して、置屋に身を寄せて寝食を共にする美代栄はもう稀少なる「鶴」ではいられない。 祇園では美代栄(栄子)は「丹頂鶴や白鳥」ではなくて、家禽のアヒルやガチョウでなくてはならないのだ。つまりここでは「掃き溜めに鶴」は許されないのである。 限りなく従順でなければ祇園では生きてゆけないという厳然たる事実。 その一方で「封建的な父性社会」が伝統を支えてきたこともまた事実なのである。 西陣織の「縦糸と横糸が織りなす世界」がそこにある。縦糸が伝統文化であり、横糸はそこで生きる人々の日々の営みである。 これを由緒正しき日本の「伝統」と捉えるか、忌まわしき「因習」と吐き捨てるかは本人次第であろう。 「自己矛盾や葛藤」などの理不尽な「パラドックス」はどこの世界にでもある。 とりわけ「芸術芸能」「文化伝統」の世界では寧ろあたりまえでありそれが「前提」なのだ。 それをどこまで許容し容認するのかの匙(さじ)加減がモノを言う、まさにそこが芸術家の腕の見せ所であり、 そこでアーティストの手腕(力量)が問われるのである。 「水清ければ魚棲まず」 潔癖症を通して、上客の誘惑を固辞すれば信用を失う。逃げた魚は戻らないのである。 また舞妓や芸者を仮に悪しき伝統や因習の犠牲者だとしても、これらの「花柳界」や「色町」の存在なくしては「溝口美学」も「溝口文学」も成立しない。 「郷に入らば郷に従え」と言うことである。 誤解を恐れず喝破すれば、「美やアートの世界」においては必ずや「犠牲が伴う」ということである。 それはとりもなおさず、「芸術至上主義」や「唯美主義」とも一脈相通ずるものなのだ。 それにしても美代春(木暮)や美代栄(若尾)の艶やかな着物姿はもう絶品である。「祇園囃子」では小暮美千代と若尾文子の「贅沢なツーショット」が満載になっている。 映画のプロットやシークエンスに拘らずとも、それぞれのシーンやカットを見ているだけでも幸せになれる。 どこをとってもどこから見ても限りなく美しい。 だからこそ溝口健二の「祇園囃子」は、「美」がテンコ盛りの「美術館」のような作品なのである。 ところでこの美しすぎる「祇園囃子」を通して溝口健二は美代春や美代栄に何を託そうとしたのであろうか。