風と共に去りぬの紹介:1939年アメリカ映画。1939年に製作され、アカデミー賞主演女優賞を始め10部門に輝いた不朽の名作。大富豪の令嬢スカーレット・オハラが、愛や戦争に翻弄(ほんろう)されながらも、力強く生き抜く姿を描く。
監督:ヴィクター・フレミング 原作:マーガレット・ミッチェル 出演:ヴィヴィアン・リー(スカーレット・オハラ)、クラーク・ゲイブル(レット・バトラー)、レスリー・ハワード(アシュレイ・ウィルクス)、オリヴィア・デ・ハヴィランド(メラニー・ハミルトン)、トーマス・ミッチェル(ジェラルド・オハラ)、バーバラ・オニール(エレン・オハラ)、ほか
映画「風と共に去りぬ」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「風と共に去りぬ」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「風と共に去りぬ」解説
この解説記事には映画「風と共に去りぬ」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
風と共に去りぬのネタバレあらすじ:南北戦争前夜
ジョージア州タラの大金持ちジェラルド・オハラの娘、スカーレットは、幼馴染みのアシュレーのことが好きだった。しかし、アシュレーが彼の従姉妹・メラニーと婚約するという知らせが入り、スカーレットは気が気じゃない。アシュレー家のパーティでスカーレットは、アシュレーに振られる。アシュレーはメラニーのことが好きだったから。そこで、スカーレットはチャールズドン生まれの船長・レット・バトラーと出会う。馴れ馴れしく接してくるバトラーに反発しながらも、不思議と彼に惹かれていくスカーレット。
風と共に去りぬのネタバレあらすじ:南北戦争、開始
南北戦争が始まり、スカーレットは自棄になり、メラニーの兄・チャールズと結婚することに。しかし、チャールズは徴兵され、戦死。スカーレットは未亡人となった。メラニーのいるアトランタに出かけたスカーレットは、そこで、バトラーと再会する。戦況はスカーレットのいる南軍に不利で、アトランタに北軍が接近する。赤ん坊を抱いたメラニーを連れたスカーレットは、バトラーに連れられ、故郷のタラに戻った。しかし、タラにも北軍が責めており、廃墟となっていた。
風と共に去りぬのネタバレあらすじ:戦争が終わる
戦争が終わり、スカーレットたちの南軍は敗北する。捕虜になっていたアシュレーが戻ってきて、告白するスカーレット。しかし、また振られてしまう。戦争に負けたタラは重税がかけられ、スカーレットは土地を守る決意として、バトラーに金を借りに行くが、断られる。スカーレットの妹・スエレンの婚約者が事業に成功したと聞いたスカーレットは、妹から略奪してフランクと結婚。自分が事業を仕切り、金儲けのために生きる。アシュレーのを自分の部下にするが、やはり、彼への想いを断ち切れずに居た。
風と共に去りぬの結末:風と共に去りぬ
フランクの死後、スカーレットはバトラーと結婚し娘・ボニーを出産するも、気持ちはアシュレーのまま。それを知るバトラーは、娘・ボニーへと愛情を注ぐ。しかし、ボニーが落馬をして死ぬ。バトラーは悲しみに溺れた。これにより、スカーレットとバトラーを結ぶものはなくなる。その頃、アシュレーの妻メラニーが病死した。スカーレットがアシュレーのもとに行くと思ったバトラーは、チャールズドンへ去っていく。この時、スカーレットはいつしか自分が愛していたのはバトラーだと気づいた。しかし、彼女の人生で最も大地なのは、故郷・タラ。スカーレットは、タラに戻り、人生をやり直そうと決意した。
「風と共に去りぬ」感想・レビュー
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「風と共に去りぬ」の上映開始と共にセルズニック社のテーマ曲(高らな鐘の音とファンファーレ)に引き続き、マックス・スタイナーの「タラのテーマ」が流れ出して画面いっぱいに【GONE WITH THE WIND】のクレジットタイトルが現れる。その瞬間!万感胸に込み上げて暫し感涙に咽ぶ。いつ見てもオープニングの4分間で同じ現象が繰り返される。「風と共に去りぬ」を何度も観ているファンにとってはオープニングを見た時点で映画鑑賞がほぼ既に成立(完結)しているのである。つまりはオープニングに作品の全てが凝縮され集約されているのだ。初見ではあり得ないが数回リピートを重ねることで、こういう境地に達するのである。デヴィッド・O・セルズニックは製作だけに留まらず、脚本を度々加筆修正して監督にも多くの注文を付ける。そして俳優や女優たちに演技指導を行うこともあるのだ。彼は徹底して完璧主義を押し通すワンマン采配で、主要なスタッフの入れ替えも頻繁に行っている。「風と共に去りぬ」でもセルズニックが正に本領を発揮して、映画のプロットから事細かなディテールに至るまでの全てを取り仕切っている。だからこの映画はヴィクター・フレミング監督の作品でも、ジョージ・キューカー監督の作品でもない。紛れもなくこれはセルズニックが創り上げた作品なのである。完璧主義者のセルズニックは端役の衣装や調度品に至るまで潤沢な資金を注ぎ込んで本物のゴージャスな歴史絵巻を完成させた。「風と共に去りぬ」は我が最愛の作品なのでビデオ鑑賞も含めて今に至るまで20回以上は味わって来た。その中で一番思い出に残っているのが、1989年に名古屋の映画館で「生誕50年記念上映会」に参加して2回連続で鑑賞したことだ。本編ではスカーレットとレットの軽妙且つ皮肉たっぷりの会話や、乳母のマミーを交えての三者による丁々発止のバトルが誠に面白い。マーガレット・ミッチェル女史の大ベストセラーを見事に脚色しているので、登場人物が繰り広げるスリリングな会話が面白くて飽きさせない。レット・バトラーと娼館の女主人ベル・ワトリングとの成熟した大人の会話などもなかなか味わい深い。ところで、この映画は前編と後編で趣がガラリと変わるのでそこでの評価が分かれやすい。初見の人や若い人達はそこに戸惑って思考停止に陥るケースが多い。この作品の独特な癖と取っ付きにくさはそこにあるのだ。だから「ドラマチックで美しい絵巻物」の前編だけで完結させた方がより人口に膾炙することは間違いない。後編はシニカルでシリアスな人間ドラマに仕立てられているので純真な人々には少々キツイだろう。クラーク・ゲーブルは「風と共に去りぬはスカーレットの映画なので私は所詮引き立て役に過ぎない」と言っていた。またゲーブルは、「映画を見に行く人たちは原作を読み込んでいるのでバトラーのイメージを壊したら大変なことになる」とも。故にゲーブルは冷静に自分の役割を分析し演技においても慎重を期していた。一方で若きヴィヴィアン・リーは自分の将来を賭して、全身全霊を込めて自らを熱心に売り込んでいた。スカーレット・オハラとヴィヴィアン・リーが一卵性双生児であることは、映画が完成する前から関係者の間では公然たる事実となっていた。ヴィヴィアン・リーのスカーレット・オハラは正に自他共に認める絶対的な存在にまで昇りつめたのである。ヴィヴィアン・リーことスカーレット・オハラは前編では麗しき王女(お姫)様として華やかに登場し、後編においてはアトランタの美しき女王として傍若無人に振る舞う。この作品の「華」であり、「命」そのものであるスカーレットを演じたヴィヴィアン・リーのプレッシャーと心労は計り知れないものがある。後編で贅を尽くした豪邸に収まるスカーレットは、まるでロココ調の絵画から抜け出した藝術作品そのものだ。スカーレットに命を与え、ひときわエレガントな女王に仕立て上げたのも女優ヴィヴィアン・リーの存在があってこそ。またマミーという乳母を貫禄タップリに、或いはユーモラスに演じてみせたハティ・マクダニエルの存在もことのほか大きい。この映画ではアイルランドから渡来してジョージア州に入植した人々の波瀾万丈の歴史と、スカーレットと言う気丈な一人の女の成長をメインに描いている。彼等はジョージア州クレイトン郡のジョーンズボロの地をケルト民族の聖地「タラ」と呼んだ。辺境の地にあるという設定の架空の土地「タラ」に込められた願いとはいったい何だろうか。それは映画化された時点で最早アイリッシュの血統や誇りだけに留まるものではなくなった。つまり、南部(ディキシー)を中心とした古き良きアメリカを体現しているのが正に聖地「タラ」なのである。更に言うと、人種や国籍や時代を超えた「郷土愛」と「人類愛:ヒューマニズム」がこの映画を支えているのだ。それゆえに映画のオープニングで万人が涙をみせるのである。昨今は人種問題(黒人差別)が争点化され本家のアメリカでの上映拒否が相次ぎ今ではすっかり上映禁止が定着している。偏狭な心根(世界観)に基づく歪んだ解釈は人類の掛け替えのない財産・良貨を駆逐する悪貨となる。「風と共に去りぬ」のラストでスカーレットが世紀の名言を吐く、「今日の事はもういいわ、明日は明日の風が吹くのだから」。今日(こんにち)の上映禁止を乗り越えて「明日以降に良き風が吹く」ことに託したい。そして最後に、この空前絶後の大河ロマンであり歴史的大傑作である「風と共に去りぬ」がアメリカ人を始めとする全人類が共有する至宝であることを改めてここに宣言する。
この映画は、アメリカ合衆国の南北戦争前後の時代を生き抜いた女性、スカーレットオハラの波乱万丈な人生を描いた不朽の名作である。スカーレットは何度も大好きなアシュレーに振られますが、それでも何度も告白します。そして、スカーレットに寄り添うバトラーとの愛も最後の最後でやっとわかる恋愛には一途だけど鈍感、それでいて、芯の強すぎな感じのアメリカ南部女性だったのかもしれません。彼女の生きざまは、多くの人の人生にも影響を与え、何度も見たくなる映画です。