ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレの紹介:1998年イギリス映画。実在のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの伝記映画です。少女時代からプロになるまで、そして若くして亡くなるまでを描いています。
監督:アナンド・タッカー 出演:エミリー・ワトソン(ジャクリーヌ・デュ・プレ)、レイチェル・グリフィス(ヒラリー・デュ・プレ)、ジェームズ・フレイン(ダニエル・バレンボイム)、デヴィッド・モリッシー(キーファー)、チャールズ・ダンス(デレク・デュ・プレ)、ほか
映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレの予告編 動画
映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」解説
この解説記事には映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレのネタバレあらすじ:起
ロンドンに暮らすデュ・プレ姉妹は、教育熱心な両親のもと、姉のヒラリーはフルートを、妹のジャクリーヌはチェロを、幼い頃から習っていました。最初はヒラリーのほうが、フルートの天才と評されていて、そんな姉の傍らでジャクリーヌは黙々とチェロを練習していました。ところが、音楽大学に入学する頃には、かつては天才と言われたヒラリーもごく一般の人となっていました。その一方、ジャクリーヌは16歳でプロデビュー。ヒラリーは妹を応援しながらも、妹と立場が逆転した事に複雑な思いも抱きます。
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレのネタバレあらすじ:承
ですが恋人ができたヒラリーは、そこに女性としての幸せを見出します。一方、天才少女と評されるようになったジャクリーヌは、著名な演奏家との共演やコンサートで世界中を飛び回る、多忙な日々を送ります。まだ若干16歳のジャクリーヌは洗濯物を自宅へ郵送し、綺麗になって戻ってきた洗濯物の匂いを嗅いで、家族を懐かしがっていました。ヒラリーは恋人と結婚します。普通の主婦として幸せに暮らすヒラリーを見て、演奏活動で多忙を極める自身の生活に疑問を持ち始めたジャクリーヌもピアニストの恋人と結婚します。
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレのネタバレあらすじ:転
名声が高まるにつれジャクリーヌは、連日の公演に疲労していきます。心身共に疲れたジャクリーヌは、自分がチェリストで無かったとしても、ピアニストの夫は、自分と結婚しただろうかと不安に思うようになります。ジャクリーヌが結婚して4年たった頃。ジャクリーヌは指に違和感を感じはじめ、体調も思わしくなくなったため、ヒラリーの家に身を寄せ、しばらく休養する事にします。ヒラリーの家で、ジャクリーヌの体調は回復していきますが精神的には不安定になっていました。
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレの結末
ある日ジャクリーヌは、ヒラリーの夫、キファーと肉体関係を持ちたいと言い出します。ヒラリーは、ジャクリーヌの精神状態に危機感を感じ、精神的に安定する助けになればと複雑な思いでそれを許します。ジャクリーヌは公演活動を再開しますが、からだは急激に悪化していきます。彼女は「多発性硬化症」を患っていました。そしてジャクリーヌは演奏活動に支障をきたすようになり、28歳で引退します。その後、夫はパリで別の家庭を持つようになり、ジャクリーヌは孤独な晩年を過ごします。そしてそのまま1987年に亡くなりました。
以上、映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のあらすじと結末でした。
今回の映画レビュー(シネマエッセイ)は、私の「クラシック音楽への思い入れ」を考慮して二部構成にしようと思う。その二部構成の前段ではジャクリーヌ・デュ・プレその人の評価(論評)を記し、後段では映画化された「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」についての感想を述べたいと思う。 【第一部】 当時人気絶頂だった女性ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーは1949年の10月28日に30歳の若さで突然この世を去った。航空旅客機の墜落による事故死であった。そのヌヴーもこのデュ・プレも「夭折の天才」として語り継がれる「音楽界のレジェンド」(伝説)なのである。ジャクリーヌ・デュ・プレは1973年の28歳の時に引退し、1987年に42歳でこの世を去っている。デュ・プレの出したレコードやCDなどは限られているので、彼女の演奏に接する機会には余り恵まれなかった。そういう経緯があったのでジャクリーヌ・デュ・プレは歴史に埋もれた過去の人だとばかり思っていた。しかしそれは私の勝手な思い込みに過ぎないことがすぐに分かった。YouTubeでデュ・プレの生の演奏を視聴したからである。彼女は死んではいなかった。「ほんとうのデュ・プレ」は「ほんとう」は生きていたのである。私はこれまで小説や映画は「一つの世界」であると言って来た。この映画の中でも本人とは全く別の(別人格の)デュ・プレが生きているし、YouTubeの動画映像の中でも現役バリバリのデュ・プレが生き続けているのである。コンサートの動画映像を見る限り、ジャクリーヌ・デュ・プレは確実に生きている。 私が真っ先に見たYouTubeの動画は1968年にロイヤルアルバートホールで行われたコンサートで、夫君であるバレンボイムの指揮ロンドン交響楽団との共演で演目は「ドボルザーク作曲チェロ協奏曲ロ短調作品104」である。この動画は2023年12月の段階で409万1168回再生され、47000以上の高評価(いいねボタン)がついている。クラシック音楽の動画としては驚異的な数字でありこれは正に快挙である。このことからもジャクリーヌ・デュ・プレの人気が未だに衰えていないことがうかがえる。デュ・プレは「エルガーのチェロ協奏曲」で一世を風靡したのであるが、私はエルガーは全く聴かないのでデュ・プレの存在を完全に忘れてしまっていた。ところが今回、映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を観たことで私の「音楽魂」に一気に火が付いてしまった。この映画を見終えた直後にYouTubeでデュ・プレの動画を片っ端から漁ったのである。「ドボルザークのチェロ協奏曲」と「エルガーのチェロ協奏曲」と「シューベルトのピアノ五重奏曲」などである。たとえモノクロ映像であろうとレコードやCDよりは余程優れている。何となれば生き生きとした彼女の勇姿が拝めるのは何ものにも勝るからだ。金髪をなびかせながら、長い四肢を巧みに操るダイナミックな演奏スタイルは誠に印象的である。このような長躯を生かした躍動的な演奏スタイルはこれからも数多の音楽愛好家を魅了することであろう。だからこそ彼女は今もこうして生きているのだ。YouTubeではいつでもジャクリーヌ・デュ・プレに逢うことが出来るのだから。それで、私のみた限りではデュ・プレの演奏技術は「当代随一」であると断言する。20世紀と21世紀を通してもジャクリーヌ・デュ・プレはチェロ奏者としてナンバーワン(唯一無二)である。その「超絶技巧」と情熱的で「エモーショナル」な演奏は独特であり、彼女のチェロを一度聴いたならば誰もが一生忘れられないであろう。チェロは人間の声(肉声)に最も近い楽器だと言われている。とりわけデュ・プレのチェロはよく歌う。だから彼女のチェロ独奏は「弾く」ではなく、「歌う」というのが正しい。ところで 歴史的な「名器」と言われるものは数奇な運命を辿るものである。あのデュ・プレが「縦横無尽」に操った名器「1713年制ストラディバリウス・ダヴィドフ」もまた、歴史の荒波に揉まれ数奇な運命に翻弄されて今日に至っている。カルル・ユーリエヴィチ・ダヴィドフはロシアのチェリストであり作曲家であり音楽院の教授でもあった。チャイコフスキーが絶賛したことで彼の名声は一気に上がり、1870年に「1713年制ストラディバリウス」を寄贈される運びとなった。それから「ストラディバリウス・ダヴィドフ」はジャクリーヌ・デュ・プレのもとで名声を博し、現在は「チェロ界の巨匠」ヨーヨー・マの手によって寵愛を受けている。「ストラディバリウスのダヴィドフ」は非常に神経質で気難しい「気分屋さん」でもある。なので「難物」にして「問題児」のこの楽器を弾きこなせる演奏家は極めて数少ない。デュ・プレも終生ダヴィドフには難儀したそうな。かように名器で難物のダヴィドフをチューニングして見事に弾きこなしたデュ・プレも、私生活を含む人生はチューニング(調整或いは修正)出来なかったのである。彼女の人生は「エルガーのチェロ協奏曲」のモチーフ(主題)のように誠に数奇的で悲劇性に満ちたものであった。ただしかし、コンサートの合間に見せる屈託のない笑顔や外連味がない素直な態度がとても魅力的だ。ジャクリーヌは「smiley」と言うニックネームで愛されていた。もしも私の目の前にジャッキーが居たなら万策を弄してデュ・プレを口説くに違いない。私は期せずしてジャクリーヌ・デュ・プレにどっぷり惚れ込んでしまったのである。 【第二部】 今回の初めての映画鑑賞では、字幕なしだったので英語のセリフを理解するのに大変苦労した。但し字幕なしなのでその分映像に没入できるメリットは充分にあった。この映画ではジャクリーヌを神経質で気分屋さんの難物として描いている。果たして彼女の実像はその通りだったのであろうか。邦題は「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」となっていて、額面通り受け取れば「素顔のジャクリーヌ」ということになる。だが私はこの作品の中のジャクリーヌは見事にデフォルメされ戯画化されていると推測している。映画とは「もう一つの世界」であり「パラレルワールド」なのだから。邦題にしても「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」ではなく、数奇な運命に翻弄された姉妹の葛藤を炙り出すと言う意を込めて、「落日の系譜/二人のデュ・プレ」の方がより当を得ていると思うのだが。兎にも角にもただただひたすら美しい映画ではある。冒頭の海岸のシーンから音楽院のエントランスなどの風景も視覚効果が抜群であった。映画のラストで冒頭のシーンが反芻(はんすう)される。冒頭、波打ち際に立っていたのはジャクリーヌ本人だったのである。幼い頃の自分に対し慈愛に満ちた温かな目線で、「黄泉の国」へ旅立った未来の自分が一言、「心配しなくていいのよ」と諭す。幼いジャクリーヌが「What you want 」「何がお望みなの?どうして欲しいの?」っと聞くと 未来のジャクリーヌが「Just see you」「会いたいからいるのよ」と言い、最後の「何も心配しなくていいのよ」で幕を閉じる。この繊細で優しい感性:センスの良さが堪らない。「長命だの短命だなどと」言っても人間は誰しも早晩必ず死に至るものである。しかし人は死んでも「思いだけ」は残る。その情念や執念が不滅の魂となって「エンドレスの旋律」を奏でるのである。そして過去と未来を繋ぐ「不滅のコンチェルト」こそが「エルガーのチェロ協奏曲」であったのだ。二人のデュ・プレを演じた子役の演技や存在感も素晴らしかった。そしてジャクリーヌ・デュ・プレを怪演して見せたエミリー・ワトソンのプロ根性にも賛辞を贈りたい。事情が事情だけに元の伴侶であったダニエル・バレンボイムや、師匠であったロストロポーヴィチ、友人だったパールマンやズーカーマンらの抗議やボイコットもやむを得ないであろう。内容が内容だけにジャクリーヌ・デュ・プレを誹謗中傷していると言われても仕方あるまい。そう言った反論や逆風を考慮しても尚、この作品の価値が不当に貶めらることだけはのぞまない。この映画と出逢わなかったら、私は終生ジャクリーヌ・デュ・プレとは接点がなかったのだから。前段で語ったジャクリーヌ・デュ・プレ本人の演奏会も、後段で触れた映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」も、どちらのデュ・プレも私にとってはかけがえのない大切な宝物なのである。だからこの映画は私にとっては、「落日の系譜/二人のデュ・プレ」こそが相応しいのである。