少年の紹介:1969年日本映画。両親のために犯罪を行わざるをえない1人の少年の心理を緻密に描いた秀作。実際の当たり屋一家をモデルとしている。前衛的かつ挑発的な作風で知られる大島渚監督としては珍しくリリカルな作品で、海外の映画祭でも好評を得た。
監督:大島渚 出演:渡辺文雄(父)、小山明子(母)、阿部哲夫(少年)、木下剛志(チビ)
映画「少年」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「少年」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「少年」解説
この解説記事には映画「少年」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
少年のネタバレあらすじ:起
小学生らしい少年が、交通量の多い道路脇を歩いています。やがて彼はひとりきりで泣き真似をしたり、隠れんぼの真似事をしたりと、おかしな行動を始めます。どうやら友だちもいない様子です。夜になり、少年は出店のラーメン屋で父母、そして弟のチビに合流。翌朝、旅館の宿泊費を払わずに逃げ出した一家は、早速商売を始めます。まず母親が車の前に飛び出し、道に転倒。しかし車に触れることが出来ず、失敗に終わります。実は彼らは車の前にわざと飛び出し、怪我のフリをして示談金をせしめる”当たり屋”なのです。荷物も持たず全国を放浪しては、そうやって生活費を稼いでいるのでした。
少年のネタバレあらすじ:承
バスで他の町へ移動。そこでは仕事はうまくゆき、まんまと金をせしめます。しかし母親は実際に軽い怪我をしたため、不機嫌に。父親は体調が悪いと言い張っているため、車の前に飛び出すのは健康な母親の仕事なのです。やがて、少年も父親に命じられて”仕事”をすることになりますが、気が進みません。母親はそんな彼に黄色い帽子を買ってやり、何とか車の前に飛び出させるのです。一家は四国からフェリーに乗船。孤独な少年にとっては弟のチビしか話し相手がいません。仕事はうまくなりましたが、悪いことをやっているという意識で、少年の心はいつも暗く沈んでいます。
少年のネタバレあらすじ:転
尾道へやってくると再び仕事を始める一家。5万円を手に入れ、また旅館に泊まります。少年は町を1人で歩くうち、学生に黄色い帽子を汚され、さらに彼が逃げ出したと勘違いした母親にその帽子を捨てられてしまうのです。一家はさらに別の町・城崎へ移動。仕事は続きますが、少年は今の暮らしが嫌になり、密かに旅館を抜け出し、夜汽車で天橋立へ。真っ暗な海辺で1人泣き出します。結局少年は両親の元へ帰り、また仕事をすることに。敦賀、西舞鶴、金沢、富山と日本海の沿岸を進み、稼ぎも良くなってきますが、少年は本当に体のあちこちに傷ができ、痛みに耐えながらの旅となります。
少年の結末
一家は北海道へゆき、函館、岩見沢、帯広、釧路、網走、旭川、稚内とまわります。日本最北端まで来ると仕事に関して夫婦のいさかいがひどくなり、疲れ果てた一家はもう仕事をやめ、高知を経て大阪へゆき、文化住宅に定住することに。しかしこれまでの当たり屋犯罪がばれ、父と母は逮捕されます。現場検証には少年も付き合わされることに。刑事と一緒に列車に乗った彼は、海を見ながら泣き出すのです。
大島渚の「少年」は日本映画を代表する稀代の名作であり、世界の映画の中でも「ベスト100」の上位に食い込む「大傑作」である。この「少年」と言う映画は、妙に生々しくて痛々しい「悪夢」のような作品である。悪夢が厄介なのは、これは悪夢だと解っていても決して逃れることが出来ない点にある。少年はまるで蟻地獄に落ちた小さな「虫けら」のように、もがけばもがくほど深みにはまってゆくのである。私はこの「純真」な少年の目の動きがとても気になった。岸田劉生の「麗子像」を思わせる少年の顔がアップになると、その切れ長の目は何かをじっと見つめている。健気な少年の視線の先には「理不尽」な現実と、未来に対する漠然とした「不安」が同居している。そして少年が家族から離れた時に見せる「孤独感」も尋常ではない。その少年の後ろ姿は「身も世もないよ」とばかりに泣いているではないか。「墓場」では独りでかくれんぼをし、夜中の「海辺」では独り寂しく喋り続ける孤独な少年。いったい、何処にも救いの手はないものだろうか。これは過酷だろう、これでは酷すぎるじゃないか、そして余りにも「無慈悲」なのである。幼い弟のチビにはいつも「空想話」をしてやる優しい少年。そこには「怪物」や「宇宙人」などが登場するが彼らもまた「孤独な存在」なのである。そしてここでもアンドロメダなど、「広大無辺の宇宙」を語る少年の孤独がより浮き彫りになるのである。期せずして冨田勲の「宇宙幻想」が脳裏をかすめた。その中の「アランフェス」や「ソルヴェーグの歌」は孤独感を湛えた「哀しい旋律」なのである。その旋律は漆黒の宇宙に漂う「寂寞たる孤独」そのものだ。そして2つの映像が私の網膜に焼き付いた。少年の黄色い帽子が泥にまみれる「無残」な映像と、事故死した娘が履いていた赤い長靴が雪に埋もれている「哀れな」映像。少年はひとりでその長靴を拾って「死のう、僕は死んだらええんじゃ」っと言い放つ。幼い弟のチビは訳が解らないままに兄の後を追って、兄の学生服の裾を掴んで泣きじゃくる。このシーンは演技なんぞではない、チビは本気になって引き留めているのだ。このチビの「悲痛な表情」は視聴者の肺腑を抉り万人の涙を誘う。そして広大な雪原をバックにした幼い兄弟が、少年がこさえた「異形」の雪ダルマに向かって話しかけているシーンへと続く。全編にわたり「高知弁(方言)」で繰り広げられるので、言葉が非常に聞き取りにくい。しかし言葉は一種の「造形芸術」であり、つまり「彫刻」のようなものだから、高知弁の固有の「フォルム」は説得力(パワー)があって胸に迫ってくるのである。またこの4人の「インスタント家族」はそれぞれがみな、「エキストラ」のようにバラバラで繋がりが希薄なのである。とりわけ少年だけが浮いていて、まるで借り物の「子役」そのものなのだ。父親はその息子の冷めた目付きと、反抗的な振る舞いに絶え間なくイラついている。食堂でも旅館でも何処であっても少年だけが「ポッカリ」と浮いているのだ。大島渚のこの映画では何と言ってもカメラが素晴らしい仕事をしている。画面の手前の道路は左右にワイドな映像世界が広がり、それと交差する縦方向の道路の遥か彼方には遠くで行き交う自動車や歩行者の姿が綺麗に映し出されている。この立体感を伴った「臨場感」は抜群であり、その「映像の美しさ」たるや格別なのである。60年代の街並みや商店街も視聴者の「郷愁」を誘うし、「駅舎」や「温泉旅館」などの木造の佇まいが「ノスタルジック」でとても美しい。少年役の「阿部哲夫」がキャスティングされたのはハッキリ言って「奇蹟」である。もしも阿部哲夫と出逢ってなければ、この映画の価値は半減したに違いない。彼が本物の孤児であったのも、彼と出逢えたのも、彼が純真で健気な少年だったのも大島渚の「強運と実力」の成せる業である。これもひとえに大島渚の「人徳」なのかも知れない。渡辺文雄の安定感のある力演も良かったが、小山明子の「存在感」が最高に素晴らしかった。神経質ゆえに過敏に反応し、常にヒステリックで癇癪持ち。被害者意識や自意識が過剰で「傲慢な女」、という難しい役どころを小山は見事に演じて見せた。もしも私が映画の神様だったならば、小山明子にこそ「アカデミー助演女優賞」を贈りたい。またチビ役の大下剛志は演技ではなく、「映画の一部」として見事に作品に溶け込んでいた。だからこそ私はこの作品はもっともっと高く評価されるべきだと思う。この映画は大島渚の作品と言うことに留まらず、日本映画の代表的な名作として更に広く認知され、より多くの人々にこそ語られるべき作品だと思うのである。