終着駅の紹介:1953年アメリカ,イタリア映画。ローマの駅を舞台に道ならぬ恋に落ちたアメリカ人の人妻とイタリア人青年の別離に至る過程をドラマティックに描いたメロドラマ。 主演は「聖処女」のジェニファー・ジョーンズと、「地上より永遠に」のモンゴメリー・クリフト。監督はネオリアリズムの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカが務めました。
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 出演者:ジェニファー・ジョーンズ(メアリー・フォーブス)、モンゴメリー・クリフト(ジョヴァンニ・ドリア)、リチャード・ベイマー(ポール)、ジーノ・チェルヴィ(警察署長)、パオロ・ストッパ(セールスマン)、ほか
映画「終着駅」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「終着駅」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「終着駅」解説
この解説記事には映画「終着駅」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
終着駅のネタバレあらすじ:起
舞台はローマの中央駅。妹の家を訪ねていたアメリカ人のメアリーは、パリの自宅へと帰るところですが、どこか落ち着かない様子です。一人娘への土産を買い、ミラノ行きへの列車へと乗り込んだメアリーが、見送りに来た甥のポールとの別れを惜しんでいると、若いイタリア人の男ジョヴァンニが近づいてきます。
メアリーの帰国を知らされていなかったジョヴァンニは、ひどく思いつけた様子で彼女をなじり始めます。メアリーはポールを先に帰らせ、さらに予定していた帰国の時間を遅らせることにしました。メアリーとジョヴァンニは駅構内のカフェへと入ります。
終着駅のネタバレあらすじ:承
メアリーはローマの街でジョヴァンニと知り合いました。そして街をガイドしてもらっているうちに二人は激しい恋に落ちましたが、人妻のメアリーには帰るべき家があり、結局ジョヴァンニに黙って帰国することを決意したのでした。
突然の別れを受け入れられないジョヴァンニは復縁を迫りますが、メアリーは夫と娘を捨てることはできないと告げます。ジョヴァンニはひとまず自宅のアパートへメアリーを連れて行こうとしますが、その途中で再びポールと遭遇します。
メアリーは彼を口実にしてジョヴァンニの誘いを断ろうとしますが、これがジョヴァンニの逆鱗にふれてしまいます。ジョヴァンニはメアリーの頬を平手打ちして去っていきます。メアリーはショックのあまり泣き出してしまいました。
終着駅のネタバレあらすじ:転
メアリーはポールに飲み物を御馳走してやり、駅の待合室で列車出発までの時間を潰します。隣には三人の子を連れる身重の女性が座っていましたが、体調不良に陥っている様子で助けを求められました。メアリーは彼女を医務室まで運んでやり、子供達にはチョコレートを買ってあげました。
一方その頃、ジョヴァンニは怒りに任せて暴力をふるってしまったことを後悔しており、構内でメアリーの姿を探し回っていました。プラットフォームの脇に佇むメアリーを見つけたジョヴァンニは、危険を承知で線路を横切り、無我夢中でメアリーのもとに駆け寄ります。
二人は抱擁を交わすと、使われていない空列車に身を潜め、愛を語り合います。しかしこれが公安委員に見つかってしまい、二人は逮捕されてしまいます。
終着駅の結末
連行された二人は警察署長から取り調べを受けます。裁判になるかもしれないと聞かされて青ざめるメアリーとジョヴァンニ、しかし結局署長はメアリーに夫と子供があることを憂慮し、家族のもとへ帰ることを条件に起訴を取り下げることを約束してくれました。
列車の発車時刻が迫っていました。もはや帰国しか道がなくなったメアリーは列車に乗り込み、ジョヴァンニとの別れを惜しみます。やがて列車が動き始め、ホームへと投げ出されたジョヴァンニは失意のうちに駅を後にするのでした。
以上、映画「終着駅」のあらすじと結末でした。
ヴイットリオ・デ・シーカ監督の「終着駅」。
テーマ曲の”ローマの秋”のやるせない旋律が流れ、秋深いローマ駅の黄昏の風景の中で、激しい恋の最後の炎が燃える。
かなり通俗的な設定だが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の演出は、ドキュメンタリーのように、リアルに時間を追い、オール・ロケの効果と共に、緊迫した映画空間を創り出している。
段々と暮れてくる駅の様子と、恋の終わりを上手く溶け合わせたところ等、憎い演出で、秋の冷気と別離の淋しさを感じさせるラストが、実に秀逸だ。
それにしても、この「終着駅」という映画は、モンゴメリー・クリフトという俳優のナルシスティックな一面が全開した映画として、実に印象深い。
ローマに旅行中のアメリカの夫人ジェニファー・ジョーンズに恋をしてしまい、帰国しようとする夫人をローマ駅まで追って来る、イタリア青年を演じているが、恋というよりは、年上の女にすがろうとする、孤独な青年のドラマという感じで、フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」を思わせるものがある。
発車する列車から飛び降り、ホームに転んでしまうクリフトの姿は、まさに淋しい少年そのものだ。
この甘さ、このやるせなさは、演技で出せるものではないと思う。
ジェームス・ディーンがそうであったように、この男の少年性は、クリフト本人が持っているものに他ならない。
最後の会話を交わすシーンで、クリフトの見せる表情と、列車が発車してしまってからの表情のデリケートな違いに、私はいつもこの映画の、いやクリフトの謎を見る。
すがりつこうとする弱さと、それを振り切ってしまう強さ。
クリフトは、この二つの表情の間で、実にセクシーに揺れているのだった。