キル・ビルの紹介:2003年アメリカ映画。クエンティン・タランティーノ監督がユマ・サーマンをヒロインに迎えて贈るアクション・エンタテインメント大作。結婚式の日、昔のボスに襲撃され何もかも失った女暗殺者の復讐の旅を、壮絶なバイオレンス描写とB級アクション作品のオマージュを込めて描くアクション映画。
監督:クエンティン・タランティーノ 出演:ユマ・サーマン(ザ・ブライド/“ブラック・マンバ”)、デヴィッド・キャラダイン(ビル)、ダリル・ハンナ(エル・ドライバー/“カリフォルニア・マウンテン・スネーク”)、ルーシー・リュー(オーレン・イシイ/“コットンマウス”)、千葉真一(服部半蔵)、栗山千明(ゴーゴー夕張)、ほか
映画「キル・ビル」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「キル・ビル」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「キル・ビル」解説
この解説記事には映画「キル・ビル」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
キル・ビルのネタバレあらすじ:起
ブライドはビル率いる殺し屋軍団の一員として暗躍していましたが、妊娠を機に組織に黙って消息を絶ち、結婚して新しい人生を始めるべく、教会で挙式のリハーサル中でした。そこへビルは手下の殺し屋4人を連れ、教会に居た全ての人間を殺します。妊婦だったブライドへも容赦無く4人からの暴行は続き死亡、したはずでしたが、彼女が目をさますと病院の一室でした。彼女は4年間意識不明だったのです。赤ちゃんをも奪われ打ちのめされるブライドは、全員への復讐を決意します。病院から抜け出し、最初に訪れたのはジーニーの自宅。彼女には4歳の娘もおり幸せに暮らして居ました。娘に気づかれない様にするジーニーとの心理戦と、武器を使った接近戦を繰り広げながら、最終的にジーニーをナイフで刺殺します。それを見た娘に謝罪し、ブライドは立ち去ります。
キル・ビルのネタバレあらすじ:承
次に殺すのはオーレン石井。舞台は4年前の教会惨殺現場へ戻ります。全員が殺されている中で、ブライドの息が残っているのを発見した警察官が彼女を病院へ搬送します。殺し屋の1人、エルは病院に忍び込み、昏睡状態のブライドを毒殺しようとしますが、ビルからの連絡で暗殺は中止になります。4年後、ブライドは奇跡的に目を覚ましお腹に子供がいない事で発狂します。そして看護師の男性が4年間、勝手に彼女を使って男性に売春させていたと知ります。彼女は昏睡状態のふりをして隙をつき、彼女の上に乗ってきた客の男性と看護師の男性を殺害、看護師の車を奪い逃走します。そして1人目のジーニーを殺害に行ったのでした。
キル・ビルのネタバレあらすじ:転
次の目標、オーレンは幼い頃両親を日本のヤクザによって殺害された復讐の為、若くして一流の殺し屋になり、現在では日本ヤクザ会のトップに君臨するまでになっていました。その極悪非道ぶりを恐れ、他のヤクザたちは彼女に反対することすら出来ませんでした。彼女に挑む前、ブライドは沖縄に行き一流の日本刀を作る職人、服部半蔵に刀を作ってもらうよう頼み込みます。今はもう日本刀は作っていないと一度は断られるも、熱意に押され彼女に刀を授けます。東京に戻ったブライドはオーレンと手下達が宴会を楽しむ料亭へ向かいます。そこでオーレン側近の女性秘書ソフィの片腕を彼女の目の前で切り落とし、オーレンを殺すと宣言。手下を次々に倒し、オーレンの最強の手下で女子高生のゴーゴーとの死闘を繰り広げ勝利。その後も数百人もの手下達を倒し遂にオーレンとの一騎打ちが始まりました。料亭の美しい、雪が積もった日本庭園で一進一退の戦いを繰り広げる2人。ゴーゴー達との戦いで負傷したブライドは、オーレンから背中を切りつけられピンチに陥ります。ですが最後の力を振り絞りオーレン石井の頭頂部を切り落とします。雪の上に落ちる頭頂部を見たオーレンは“本当に服部半蔵の刀だったんだ。”と言い残し倒れます。
キル・ビルの結末
傷だらけのブライドは、片腕を切り落とした秘書ソフィを車のトランクに詰め込み病院の救急入り口に放り込んで立ち去ります。彼女を生かした理由は二つ、他の殺し屋所在を聞く為、そしてビルに今日起こったことを全て話し、ビルを殺害すると伝える為でした。ボロボロになったソフィに会ったビルは彼女を慰めます、そして最後に聞きます。“ブライドは自分の子供が生きていると知っているのか”と。
クエンティン・タランティーノ監督が敬愛、偏愛する香港のカンフー映画や日本のチャンバラ映画、任侠映画に限りなきオマージュを捧げた映画が「キル・ビル Vo.1」だ。
この映画「キル・ビル Vo.1」は、公開当時、6年間の長い沈黙を破りタランティーノが帰って来たと話題になった作品で、乱れ飛ぶ多くの前情報から、とんでもなくハチャメチャな映画を予想していたところ、その想像の遥か上を行く、タランティーノ・ワールドが全開で炸裂し、狂喜乱舞した思い出があります。
もう、とにかく腕が飛ぶわ、脚が飛ぶわ、首が飛ぶわの凄まじいゲテモノ・バイオレンスのオンパレード。
映画の冒頭、第一の復讐シーンで見せる乾いたユーモアとクールなバイオレンス演出で、いつもと変わらぬタランティーノのセンスの良さを感じてしまいます。
包丁を背後に隠し持ったまま、娘に「学校はどうだった?」と尋ねるシーンなど、いかにもタランティーノらしく嬉しくなってきます。
その後の展開も、例によって、倒錯した時系列の処理が巧妙であったり、さすがと思わせてくれる演出で溢れていて、我々タランティーノ・ファンを楽しませてくれます。
しかし、何といっても目が画面にくぎ付けになるのは、タランティーノが敬愛、偏愛する香港のカンフー映画や日本のチャンバラ映画、任侠映画、それもB級映画に限りなきオマージュを捧げたという、破天荒なタランティーノ的世界感です。
「自分にはアジアの文化がよくわかるんだ」と公言して憚らないタランティーノですが、よく言うよと内心思いながら、この言葉、半分位は正しいのかなと思ってしまいます。
というのは、日本の大衆文化でよく見受けられた、劇的すぎるヒーロー像やドラマ展開、荒唐無稽な殺陣などを我々日本人の目には、”カッコいい!”と感じさせる一方で、どこか滑稽に映っていたように思います。
この”滑稽”という感覚を、タランティーノはよく理解しているなと思います。
我らが千葉真一演じる沖縄で寿司屋を営む刀作りの名人、服部半蔵という日本人像や、日本刀用のホルダーがある飛行機の座席、更には、ユマ・サーマンやルーシー・リューが、大立ち回りの最中にぎこちない日本語で啖呵を切ったりするのも、”滑稽”という感覚を突き詰めて行くプロセスの延長戦上にあるものだと思います。
ただ、さすがに、日本映画に漂う独特の風情、情緒、粋な感覚に対しては、一応、枠にこそはめ込んでいたものの、少々紋切り型であったような印象を受けます。
しかし、そこはタランティーノ、このような感情に関わる部分を、何とマカロニ・ウエスタン的な感覚とノリで処理してみせたのです。
この演出テクニックには、正直、唸らされ、タランティーノが映画の天才と呼ばれる所以なのだと心の底から思います。
これだけ、ある意味、ごった煮モードの世界観を剛腕でねじ伏せ、展開してみせたタランティーノ、誠に恐るべしです。
この映画は、かなり唯我独尊的なオタク映画で、”滑稽”さの追求といい、綱渡り的な面白さの映画になっているため、この手の映画がダメな人には究極の駄作に見えてしまうというのも、わからないでもありません。
しかし、タランティーノは何もリアルな日本を描こうとした訳ではなく、彼が愛した日本映画の記憶を、オーバーに愛情をこめて甦らせただけなのです。
そして、この映画はタランティーノ以外の誰にも作れない、というより許されない映画だろうと強く感じます。
そう感じさせてくれたのが大変嬉しく、タランティーノ映画はこうでなくちゃいけません。