薔薇の葬列の紹介:1969年日本映画。実験映画の作家として高名だった松本俊夫が初めて手がけた長編劇映画で、製作配給はATG。ピーターにとっても俳優としてのデビュー作に当たる。当時の新宿の様子を取り入れた前衛的な内容となっている。映画解説者・淀川長治がゲスト出演。
監督:松本俊夫 出演:ピーター(エディ)、土屋嘉男(権田)、小笠原修(レダ)、東恵美子(母)、ほか
映画「薔薇の葬列」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「薔薇の葬列」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「薔薇の葬列」解説
この解説記事には映画「薔薇の葬列」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
薔薇の葬列のネタバレあらすじ:起
美しく化粧で彩られた顔。それはまるで女性のようですが、むき出しになった胸にはふくらみがなく、あくまで男性のものです。その体を抱擁し、愛撫する中年男。男同士の性交でした。やがて行為は終わり、中年男はズボンをはくと、カーテンを開けます。外は白昼。そこはラブホテルです。「明るすぎる」と文句を言う相手の男。ベッドから降り立つと、まだ少年の面立ち。彼の名前はエディです。エディは「ジュネ」という新宿のゲイバーで働いていて、相手の中年男・権田がその経営者。権田はエディに惚れ込むあまり、店のママであるレダをやめさせ、エディをその後釜に据えようと考えています。しかし、レダの方では偶然、2人がラブホテルから出てくるところを見ていました。
薔薇の葬列のネタバレあらすじ:承
その夜、店に出勤すると、レダはエディに嫌味を言います。権田は揉め事を避けるために、レダのご機嫌を取ることも忘れません。昼間、エディは新宿をさまよいながら、ストリートパフォーマンスを見物し、やがて男性からナンパされます。しつこいその男性から逃れて、彼はある画廊へ。そこに飾られてある絵を見るうちにエディはめまいを感じ、床に倒れてしまいます。店で黒人客に誘われ、彼とホテルへゆくエディ。その執拗な愛撫に声を上げます。しかしそれは映画の撮影現場でした。
薔薇の葬列のネタバレあらすじ:転
エディは仲間のゲイボーイと一緒に街に繰り出します。男子用トイレで小用を足していると、入ってきた男性がびっくりした顔に。その後、アングラ映画を見にゆくのですが、エディにはチンプンカンプンでした。その上映会の会場でエディを含めた全員がマリファナを回し飲みします。ハイになり、みんな服を脱いで踊り回る乱痴気騒ぎに。その後店に出たエディはレダと激しい喧嘩をします。そしてアングラ映画の監督とともに東京タワーに登るエディ。下を見ると、人がまるでアリのように見えます。エディはふと自分の過去を振り返りますが、家族写真では父親の顔だけがすべて煙草の火で焼かれていて、その面影の記憶もないのです。そしてエディには母親が父親以外の男と関係を持とうとした現場に踏み込み、出刃包丁で彼女を刺殺した経験がありました。
薔薇の葬列の結末
アングラ映画の監督と性交したあと、エディは偶然過激派の学生を助けます。権田はついにレダにクビを言い渡し、その結果、彼女は自殺。エディは念願のママになります。邪魔者がいなくなった後、ご機嫌でエディと抱き合った権田は、エディが持っていた家族写真を見て、驚愕します。そこに写っているのはかつての自分の家族だったからです。エディが自分の息子だと知った彼は、バスルームに入り、ナイフで自殺。その死体を見たエディも同じナイフで両眼を突き、盲目となるのです。
今や伝説として語り継がれる幻のカルトムービー「薔薇の葬列」について。紀元前ギリシャの悲劇詩人ソポクレスの「オイディプス王」を下敷きにし、パゾリーニの「アポロンの地獄」の影響を受け、キューブリックの「時計じかけのオレンジ」に影響を与えた貴重な作品である。従って、この映画は正に歴史的な必然性を負わされた「曰く因縁」ありきの作品となっている。そしてこの映画の「ディーバ:プリマ」は女性でも男性でもないピーターと言う個性的なアーティストなのだ。かつてボーボワールが言及した「第三の性」こそが、ピーターの本質でありこの映画の重要な肝でもある。メイクを施し妖艶でゴージャスな美人に変身するピーターと、化粧を落とした時に素朴な少年に戻る池畑慎之介の不思議。実を言うと私は、女性関係に疲れた折にゲイバーやボーイズバーへ通った時期があった。東京では新宿二丁目の大阪では堂山町界隈の店を贔屓にしていたのだ。この手の店は文化人や識者の隠れ家にもなっていた。なので映画を含めた「藝術論」「藝術談義」の「場」として大いに利用したのである。深夜から始めて翌朝を迎えてもまだ飲み続けて熱く語り合ったものだ。だから「薔薇の葬列」で描かれている世界は私にとっては身近な存在であり日常的な風景にしか過ぎない。「毎度です、ご無沙汰しております」ってな感じ。監督の松本俊夫の映画では「修羅」がお気に入りで、この作品と共にコレクターズアイテムとして【保存版】にしている。「薔薇の葬列」は69年の世相を反映した「ゲバゲバ」で「ビンビン」の作品となっている。映画の中での若者たちの言行が即物的で直情的なニヒリズムとアナキズムに裏打ちされた時代の寵児と言ったところであろうか。改めて69年の意味と重さを痛感する次第。その実験的な作風は寺山修司の短編の世界観にも通じているが、私は寺山の「トマトケチャップ皇帝」と「ジャンケン戦争」などの実験映像を所有している。これらの作品は「薔薇の葬列」と酷似した表現がてんこ盛りなのだ。いずれにしてもこれらは一種のカリカチュアであり「戯画」なのである。風刺と皮肉とアンチテーゼが原動力になっている。激動の60年代を生き抜いてきた者たちにはその先(1970年)が世紀末のように思えたようだ。だからこそデカダンスであり文化的な退廃とアンチテーゼの出番となるのだ。そしてこれらこそが松本俊夫の「薔薇の葬列」の本質なのである。理屈はさておき、ピーターの挑発的な眼差しと表情は男女の性差を超えてすこぶる魅力的だ。笑った時の口元が「いつでもおいで!」と誘っている。女性にもオッサンが居るように、若き男性にもお姉ちゃんが居ると言うことだ。悲劇的な最期を迎える映画の解釈は、「循環」若しくは「逆再生」と決めている。そうすればまた冒頭のシーンに回帰することが出来る。当たり前に過ぎるが、これこそが映画の利点であり醍醐味なのだと思う。