音楽の紹介:1972年日本映画。東大でクラスメイトだった三島由紀夫の同名小説を元に、増村保造が演出した心理ドラマ。監督が自ら設立した独立プロ「行動社」の最初の作品で、珍しく増村監督が自分一人でシナリオを担当している。
監督:増村保造 出演:黒沢のり子(弓川麗子)、細川俊之(汐見和順)、高橋長英(麗子の兄)、森次浩司(江上隆一)、三谷昇(麗子の許婚)、松川勉(花井)、ほか
映画「音楽」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「音楽」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「音楽」解説
この解説記事には映画「音楽」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
音楽のネタバレあらすじ:起
都心で精神分析の診療所を開いている汐見和順のところに、貿易会社に勤める若い女性が治療を受けに来ます。名前は弓川麗子。まぶたがヒステリーのせいでチック症状を起こし、いかにも落ち着きがありません。彼女は「音楽が聞こえない」と汐見に訴えます。テレビやラジオをつけていても人の声は聞こえるのに、音楽が流れ出すとそれだけが耳に入ってこないというのです。麗子には江上隆一という恋人がいました。江上とは肉体関係がありましたが、麗子は以前親の決めた許婚である又従兄にレイプされた経験があり、そのことを江上に打ち明けることができません。「そのせいで体の不調が起こるのでは?」と麗子は自己分析を行います。汐見は麗子に勝手な分析をすることを禁じ、毎週診察に来ることを命じます。
音楽のネタバレあらすじ:承
やがて麗子の本格的な治療が始まりました。汐見が話を聞くうち、麗子は「音楽が聞こえない」というのは実は不感症のメタファーだということ、幼い頃に男の子たちと性的な遊びをしたこと、それ以降ハサミに異常な執着を持つようになったこと、温泉宿で叔母が男と逢引した場面を見てしまったことなどを語り始めます。そしてある日、診療所にひとりの男が怒鳴り込んできます。彼は麗子の恋人である江上でした。江上は麗子の日記を盗み読みし、そこに書いてあった嘘の記録から汐見と麗子が肉体関係を持ったと勘違いしたのです。汐見の説明で江上は自分の行為を反省。「麗子の精神疾患を治してほしい」と汐見に頭を下げます。
音楽のネタバレあらすじ:転
麗子の治療はまだまだ続きました。夢判断がキッカケとなり、麗子は高校生の頃の体験を思い出します。それは実の兄が指先で麗子の女性器を探り、麗子もエクスタシーを感じたという出来事でした。そして温泉宿で叔母が逢引したのもその兄だったのです。叔母との関係がバレて兄は勘当され、今は行方知れずになっています。治療が続くうち、麗子はその兄と再会。彼のアパートに行くと、兄は水商売の女と同棲していました。彼女から妹との関係を疑われた兄はヤケになって麗子をレイプ。ついに近親相姦の関係になってしまいます。
音楽の結末
麗子はそのことを汐見に報告。汐見は「麗子は兄への肉体的欲望とそれを拒否する良心に引き裂かれている」という診断を下します。完治には荒療治と判断し、汐見は麗子と一緒に彼女の兄に会いに行きます。そこには兄と同棲女性の間にできた赤ん坊がいました。その赤ん坊を抱きしめながら泣き出す麗子。結局、麗子は兄との間に赤ん坊を作りたいという強い気持ちに捕らえられ、他の男とのセックスに没頭できなかったのです。妊娠してしまっては兄との赤ん坊が作れないからでした。そのことが分かった麗子は兄への執着を捨て、江上と再び恋人の関係に戻ります。江上が汐見に当てた手紙によると、今度はちゃんと「音楽」が聞こえ、麗子はエクスタシーを感じられるようになっていました。
三島由紀夫原作の映画「音楽」は、1964年の「卍」69年の「盲獣」などとも連なる、増村保造による72年製の「愛の変奏曲」なのではないかと思う。 三島が書いて増村が撮ったこの作品は、「女の深層心理」に日常的に潜む「母性のパラドックス」或いは「痴情の迷走」を具現化(ビジュアル化)させたものである。 恰も「双極性障害」のように「両極に振り切る」弓川麗子の「倒錯と狂気」及び「常軌を逸した奇行」の数々。 ハサミを手にした麗子の相貌は人智を超えた「鬼神の領域」にまで達していた。 吉行淳之介も述懐するように、鬼の形相の女に睨まれると途端に男の股間が縮み上がるのである。 また部外者には奇行と映る振る舞いであっても、麗子本人は案外「達観していた」のかも知れない。 この作品の本質/エッセンスはタイトルシークエンスの部分に凝縮されている。 その印象的なタイトルシークエンスではハサミが画面いっぱいにフューチャーされ、やがてそのハサミの開閉に呼応/同調するかたちで「全裸の女・麗子」が股間を開閉させてゆく。 このハサミの規則的なリズムと、官能的でエモーショナルな麗子の表情と喘ぎ声の対比はたいへん見事であった。 そして三島や増村の「企図したもの」からは外れるかも知れないが、私は本来「音楽」とは極めて「ユニバーサル(普遍的)」な概念であり、それは文字通り「宇宙の調和」を意味するものだと考えている。 学者(思想家)の系譜で言うと、数学者のピタゴラスは「宇宙が音楽を奏でており、それがこの世の調和をもたらしている」と定義する。 後に続く哲学者のプラトンや天文学者のケプラーも「宇宙と音楽と調和」について詳しく言及している。 三島由紀夫は生前この 小説「音楽」に関して、「人間の生命力の完全なる調和が音楽を醸し出すのだ」と言っていた。 そして三島は、この小説は「自分の心と身体の中の音楽が聴こえなくなった女の半生の物語だ」とも言っている。 ところで女性特有の「月経」(いわゆる生理)は、「月の満ち欠け」とほぼ完全に重なっている(月経周期と月のリズム)。 実は女性だけでなく世の男性も「月の満ち欠け」に影響を受けている。 これまでも「満月の夜は犯罪が増加する」とか、「満月時には事故が起きやすい」など各方面から多くの事例がが報告されてきた。 私は、「人体の60%を占める水分」と「脳の血流」が月やその他の天体の影響を受けているとみている。 この「音楽」のケースでは、弓川麗子(黒沢のり子)の「体内のハーモニー」が乱れて、そこで発生した「不協和音」(ノイズ)が更に子宮の奥の「胎内で増幅」され「暴走した悲劇」なのだと思う。 女の欲望(性欲・本能的な母性・独占欲)が暴走=制御不能⇒「uncontrollable」ということだ。 そして何と言ってもこの映画で弓川麗子を演じ切った黒沢のり子のパフォーマンスが最高に素晴らしかった。 映画の冒頭から私の眼は黒沢のり子に釘付けになり、彼女に「身も心も魂さえも」すっかり奪われてしまった。 また増村保造の創作した「音楽」は、三島由紀夫のオリジナルをも凌駕していた。 賛否はあれども増村は「増村の手法と方程式」で新たなる「音楽」を創造したのだ。 実際この作品は実相寺や勅使河原の匂いと空気感を彷彿させる。 この、ある種の冷徹で乾き切った「無機質の感覚」が堪らないのである。 つまりこの映画は三島由紀夫の原作ではあるが、部分的には仄かに「安部公房の匂い」がするのである。 余談になるが三島と安部は度々対談などを重ねてそれなりの交流を持っていたようだ。 「孤高の文学者」(共にノーベル文学賞候補と目されていた)として互いにシンパシー抱いていたのであろう。 増村は我々の目の前で女の「子宮の奥」に込められた「怒りと歓び」を取り出して見せ、更には「女の骨の髄の髄」までスクリーン上にぶちまけたのだ。 私は女の執念と男の業の深さに唖然とし戦慄を覚えたのである。 こんなにも「怖ろしく美しい作品」を私は未だ見たことがなかった。 この作品を私の大切な「増村コレクション」として、今回4Kに迫る高画質で鑑賞し保存できたことは望外の喜びである。