にっぽん昆虫記の紹介:1963年日本映画。今村昌平の傑作で代表作のひとつ。コールガール組織の経営者をモデルに、オールロケと同時録音によって本物らしさを追求。自然主義リアリズムを極めた作品としてオールタイム・ベストにしばしば挙げられる。当時のキネマ旬報ベストテンでも1位を獲得。
監督:今村昌平 出演:左幸子(松木とめ)、北村和夫(松木忠次)、吉村実子(松木信子)、河津清三郎(唐沢)、佐々木すみ江(松木えん)、北林谷栄(蟹江スマ)、長門裕之(松波守男)、春川ますみ(谷みどり)、ほか
映画「にっぽん昆虫記」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「にっぽん昆虫記」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「にっぽん昆虫記」解説
この解説記事には映画「にっぽん昆虫記」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
にっぽん昆虫記のネタバレあらすじ:起
大正7年の冬、山形の山村で松木とめは産まれました。母親のえんは生来の好色で誘われれば誰とでも寝ていたため、父親が誰なのかはわかりません。
ただ、えんの夫である忠次は知的障害者なので、素直にとめの誕生を喜びます。忠次のとめへの愛情は深く、それはとめが大きくなっても変わりません。
とめの方でも素直な父親を慕っており、地主の息子の種を宿して女の子を出産した後も、乳が張ると忠次に吸ってもらうくらいです。ただ、いつまでも家にはいられないため、とめは以前勤めていた製糸工場でまた女工として働き始めます。
にっぽん昆虫記のネタバレあらすじ:承
終戦の日、とめは以前から好きだった同僚の松波という男に抱かれます。民主主義の世の中になると松波は組合の活動家になり、とめも婦人部長として組合の仕事に精を出します。
ただ松波が課長代理に出世して組合から離れると、とめは後ろ盾を失って馘首されてしまい、松波からも捨てられてしまいます。
とめは思い切って東京に出ると、アメリカ兵のオンリーをやっている女性にベビーシッターとして雇われます。ところが彼女の寝室での睦言に気を取られているうちにうっかり娘を死なせてしまい、解雇されます。
にっぽん昆虫記のネタバレあらすじ:転
罪悪感から新興宗教に救いを求めたとめはその集まりで幹部である女性から声をかけられ、その下で働き始めます。
彼女は旅館をやっているのですが、そこはいわゆるあいまい宿でした。最初は女中だったとめも結局は体を売ることになります。やがて唐沢という旦那が出来たとめは自分で商売を仕切るようになり、かなり羽振りも良くなります。
そんなところへ実家に預けてあった娘の信子がやってきます。彼女は高校を中退して開拓村で働いているのですが、村のために20万円を借りに来たのです。
にっぽん昆虫記の結末
とめにはそんな大金は用意できません。唐沢は信子の美貌に目をつけ、金を出す代わりに彼女を囲い者にしてしまいます。その後、とめは自分のもとで働いていた女たちに裏切られてしまい、逮捕されます。
そして刑期を終えて出てきた時、信子から唐沢との関係を知らされます。とめは娘が結局自分と同じ境遇に落ちたことを絶望するものの、信子は戦後派で母親より抜け目がありません。潮時を見越してうまく唐沢を騙すと、20万を手に開拓村へ戻ってしまうのです。
信子に未練のある唐沢は彼女を連れ戻すよう命じ、仕方なくとめは馬鹿正直に開拓村のある山に向かいます。その険しい山道は苦労だらけの彼女の半生を象徴するようでした…
以上、映画「にっぽん昆虫記」のあらすじと結末でした。
この映画のタイトルがなぜ「にっぽん昆虫記」なのか。そもそもどうして「日本」ではなく「にっぽん」なのか。そして「昆虫」とはいったい誰のことを言っているのか。私は今村昌平がどう言っていたのかは知らない。ただ、この件について巷では諸説が飛び交っている。
映画のオープニング(タイトルシークエンス)では、「オサムシ」(昆虫)が不器用な様子で砂地を這い上がる映像が流されている。そして映画のラストは「とめ」(左幸子)が孤りで難儀しながら悪路を登ってゆくシーンで終わる。この二つの象徴的な「絵」(映像)は、ほぼピタリと符合している。では、今村はどうして女を昆虫になぞらえたのであろうか。それは「生を享受」する為には、なりふり構わず他人の「性を貪る」女の哀しき性(さが)ではないか。今村はこの哀しくも可笑しい女の「貪欲な姿」を、不恰好な「オサムシ」になぞらえたのである。これは「滑稽でグロテスクな光景」なのかも知れない。しかし「貪欲」なのは女ばかりではあるまい。
実は今村昌平こそが映画の為には手段を選ばない、「貪欲なオサムシ」そのものなのである。 そして今村は女を昆虫になぞらえたように、戦後の日本を「日本」ではなく「にっぽん」として「戯画化」してみせたのである。これを私は今村の「諧謔的な批判精神」と定義(ネーミング)したいと思う。戦後の日本は、正に女たちにとっての「にっぽん」なのであった。生きる為にはなりふりなど、もうどうでもよかったのである。そして男が女性を蔑むときに、「娼婦とか売女」(ばいた)などと言って吐き捨てる。これは人間としても最低であり、「男の美学」にも反するルール違反である。たとえ金銭のやり取りがあろうとなかろうと、一旦は抱いた女性に汚名を着せたり、罵ったりするのは下衆であり「クズの極み」である。本来は女を抱くことも命懸けでなくてはならない。少なくとも「戦時中は命懸け」であったはずだ。究極的には(この世には)「裸の男」と「裸の女」しかいないのである。ごちゃごちゃしたものを身にまとうから話がややこしくなる。倒錯してしまうのである。
この映画の中では老父(北村和夫)が、実娘(じつじょう)「とめ」の乳房を口に含んでいる。また行水(ぎょうずい:入浴)している孫娘が、「じっちゃん早く入れや洗ってやっから」とも言っている。つまり昔の田舎では「夜這い」(或いは近親相姦)などもあったのだ。これらを「グロテスク」と言って、バッサリと切り捨てたのが戦後の「欺瞞」であり「偽善」(似非の道徳)なのである。生きる為にはみな、人それぞれ(村それぞれ)の事情があるものだ。神秘的で深遠なる「多神教の包容力」は、借り物の「一神教の価値観」(偏狭なキリスト教文化や共産主義)では計り知れないものなのだ。
そしてこの作品では「とめ」を演じた左幸子の「怪演」振りが終始際立っていた。その「とめ」は、様々な状況に応じて、様々な仮面を着けて「女と言うもの」を演じ分けていたのである。家族の為に身を捧ぐ若き「殉教者」としての神妙なる顔。急ごしらえの家政婦の薄情で「無責任」な顔。実業家としての冷徹で「ビジネスライク」な顔。ことほどさように女というものは色んな役柄を演じ分けないと務まらない。私の持論は、「女とは、女の役を演じている者のことである」「女は常に女を演じなくてはならない」これが物事の核心(本質)なのである。世の中には抜け目のない女もいれば、狡猾でしたたかな女もいる。しかしどこまでいっても決して憎めないのが女と言うものなのだ。
偉大なる藝術家の一人である岡本太郎氏は生前に、「モーツァルトを聴きながら女のお尻を撫でるのが好きだ」と言っていた。岡本太郎は人生を達観した「大人の男」だった。 そして映画では、一見すると純情そうな娘の信子(吉村実子)が、そういう「大人の男」(唐沢)を手玉に取ったのが圧巻であった。最後の最後で狡猾な「ひひおやじ」が小娘にコロッと騙された。ひょっとすると唐沢は「それも織り込み済み」(想定内)だったのかも知れない。孫娘のような十代の乙女を抱いたのだから、唐沢もそれはそれで「さだめし本望」であったろう。もしも本当に左幸子と吉村実子が親子であったなら、唐沢でなくとも不謹慎な下心が湧き上がるに違いない。
かのルーテル(マルチン・ルター)は「酒と女と歌を愛さぬ者は生涯馬鹿で終わる」と言い放ち、「酒と女と音楽を愛さぬ者が、どうして神に愛されようか」とも言っている。私はキリスト教(一神教)は好きでなないが、これはこれで「言い得て妙なる名言」であると思っている。私も御多分に漏れず「酒と女と音楽を溺愛」する凡夫、「か弱い葦」であり、また「迷える子羊」でもある。だからこそ「森羅万象を統べる神」を尊崇しているし溺愛してもいるのである。
この映画に出てくるような「新興宗教」(典型的なカルトであり偏狭な一神教)だけは絶対に駄目! それと究極の一神教である「偏狭なカルト」の代表選手の「共産主義」(コミュニズム)も絶対に駄目! 「新興やカルト」(唯我独尊:独裁)ではなく、この作品に度々登場する極めてプリミティブな「山の神:女神」こそが、人間の原型(プロトタイプ)たる「女の本質そのもの」なのである。ゆえに女は「アダムの肋骨」から造られたのではない。
それとは逆で、女が繁栄する為に、「男が女によって造られた」のである。だからこそ男が「自分の故郷を目指して」女の聖域(大切な秘部)に「触手を伸ばす」のである。幾つになっても、どこまで行っても、「山の神に愛される存在」でありたいと私は思う。 「にっぽん昆虫記」は万人が認める今村昌平の代表作であり、「映画史上に燦然と輝く傑作」であることは間違いない。だが同時に、とても引き出しが多い作品なので、「にっぽん昆虫記」を集約して論ずることは非常に難しい。そこで私は案外見逃されている、「女の本質」と「山の神」は本来は同じものであるという点に絞り込んで論じてみたのだ。これを仮に「合一性」と言っても良いだろう。
「にっぽん昆虫記」(The Insect Woman)は海外のマニア(シネマギーク)からは熱狂的に支持されている。日本人として、また、「シネマギークの一人として」これは嬉しい限りである。であるならば、であればこそ、欧米諸国の民にこそ、この作品を通じて寛容で多様性を尊ぶ「多神教の真意」(本質)を見極めて欲しいと熱望するのである。なぜならば究極的には(行き着く先は)、相互理解を拒否する「一神教」の「排他的で偏狭な概念」によって「人類が滅ぶ」と踏んでいるからである。