炎上の紹介:1958年日本映画。1950年に実際に発生した“金閣寺放火事件”を題材とした三島由紀夫の小説『金閣寺』を市川崑監督・市川雷蔵主演で映画化した異色作です。終戦直後、金閣寺をモデルとした「驟閣寺」(しゅうかくじ)に強く心を惹かれた主人公は周囲のいびつな人間関係に飲み込まれていき、そしてある決意をします…。
監督:市川崑 出演者:市川雷蔵(溝口吾市)、仲代達矢(戸刈)、二代目中村鴈治郎(田山道詮老師)、北林谷栄(溝口あき)、浜村純(溝口承道)ほか
映画「炎上」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「炎上」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「炎上」解説
この解説記事には映画「炎上」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
炎上のネタバレあらすじ:起
1950年.21歳の大学生・溝口吾市(市川雷蔵)は警察の取調室にいました。容疑は京都にある国宝「驟閣寺」(しゅうかくじ)に放火したとのことですが、刑事の取り調べに対して溝口は一言も口を開くことはありませんでした。
太平洋戦争中の1944年春。舞鶴の小さな寺の住職だった溝口の父・承道(浜村純)が亡くなり、溝口は父の遺書を携え、父の親友であった田山道詮老師(二代目中村鴈治郎)が住職を務める驟閣寺を訪れました。溝口は生前の父から口癖のように「この世で最も美しいものは驟閣」であると教え込まれており、驟閣に対して強く心を惹かれていたのです。老師の好意で徒弟として住み込むことになった溝口でしたが、かねてから吃音に悩まされてきた溝口は門下生からからかわれてしまいます。
炎上のネタバレあらすじ:承
やがて溝口は、東京から修行にやってきた鶴川(舟木洋一)と友人同士になりました。溝口の母・あき(北林谷栄)は我が子を将来的に驟閣寺の住職に据えようと老師に働きかけ、溝口はそんな母を疎ましく思っていました。結核を患う病弱な父を差し置いて、他の男と不倫関係を結んでいた母に憎しみすら抱く溝口に、父は驟閣寺の美しさを説いて励ましたのです。やがて戦争は終わり、終戦から2年が経った1947年頃には、戦前までは静かな信仰の場だった驟閣寺もすっかり観光地と化し、GHQの米兵を始めとする観光客が押し寄せるようになっていました。そんなある日、溝口は米兵と戯れていた娼婦を見つけ、驟閣を汚すものとして引きずりおろしてしまいます。妊娠中だった娼婦はこれがきっかけで流産してしまいました。
炎上のネタバレあらすじ:転
1950年、小谷大学の学生となっていた溝口は内反足の障害を持つ同級生の戸刈(仲代達矢)と知り合い、奇妙な友情関係を結ぶようになりました。ある時、溝口は驟閣寺の美について語ると、戸刈はこの世に永遠などありやしないと批判しました。戸刈は更に、老師が祇園の若い芸奴を囲っていることを暴露してきました。やがて実家の寺を引き払った溝口の母あきが驟閣寺に炊事係として住み込みで働くことになり、汚れた母を寺に入れたくない溝口は猛反発してあきと口論となり、街に飛び出した溝口は偶然にも新京極の繁華街で芸妓を伴った老師の姿を目撃してしまいました。戸刈は溝口をけしかけてわざと老師が嫌がることをさせ、老師はそんな溝口に対して「ゆくゆくは私の後継者にと考えていたが、今はそんな気持ちはない」と冷たくあしらいました。
炎上の結末
失意の溝口は小刀と毒薬を買い、戸苅から金を借りて故郷の舞鶴に向かい、成生岬の断崖に立ち日本海の荒れくるう波をただ見つめていました。溝口の脳裏には、母に裏切られて寂しく死んでいった父が海岸で火葬された時の青白い炎が浮んでいました。その後、宿にずっと滞在していた溝口は挙動不審を疑われて警察に保護され、驟閣寺に戻ってきたのですが、出迎えた母と老師の態度は非常に冷たいものでした。全てに失望した溝口は、父の修行時代の仲間だった桑井善海和尚(香川良介)が驟閣寺を訪れた際、溝口は「私の本心を見抜いてください」と詰め寄り、善海和尚は何も考えないのが一番良いと諭しました。溝口の決意は固まりました。夜の驟閣寺で溝口は「俺のすることはただ一つのことをすることだけだ。誰も分かってくれないなあ…」と呟きながら震える手でマッチを擦りました。激しく燃え盛る炎に包まれる驟閣寺。溝口はその光景に“美”を感じていました…。懲役1年の刑が確定した溝口は、護送の汽車に乗せられた際、トイレに行くフリをして客車の外に飛び降り、自らの命を絶ちました。
“不世出の夭折の大スター市川雷蔵の初めての現代劇出演作「炎上」”
37歳という若さで亡くなった、不世出の夭折の大スター、市川雷蔵。
雷蔵はどんな役柄でもこなせて、現代劇でも時代劇にも喜劇にも悲劇にも、娯楽映画にも芸術映画にも、あらゆるジャンルの映画でそのカリスマ的な魅力を表現出来た、稀有の役者だったと思います。
特に、歌舞伎界の出身という事からくる彼の”口跡の素晴らしさ、立ち姿、立ち居振る舞い、所作の美しさ、華麗さ”は、他の追随を許さない程の見事さだったと思います。
もう彼のような華のあるカリスマ性のあるスターは、二度と現われないだろうと思える程です。
しかも、彼は23歳で映画界入りして以来、「眠狂四郎シリーズ」「忍びの者シリーズ」「陸軍中野学校シリーズ」「若親分シリーズ」などのシリーズものの当たり役を数多く生み出して、我々、日本映画ファンを楽しませてくれました。
その背景には、昭和30年~40年代の映画界の黄金時代の活況というものがあったとしても、こんなに多角的で質、量ともに優れたスターは珍しいと、今更ながら思います。
恐らく、大袈裟ではなく、戦後の日本映画のスターの中では、ナンバーワンじゃないかと思います。
やっぱりスターというものは、”顔”なんですね。
いかにも歌舞伎出身らしい面長中高の顔だちで、瞼が薄い切れ長の目、長めの鉤鼻。
とりたててハッとする程の美男ではない。
端正だが、平凡で標準的な日本人顔なんです。
しかし、この”平凡で標準的”というのが貴重なのだと思うのです。
雷蔵は自分の”平凡で標準的”な日本人顔を、無個性のサッパリ顔を、まるで能面のように様々なニュアンスをもたせて、自由自在に操るのです。
この市川崑監督の映画「炎上」は、市川雷蔵が27歳の時の出演作で、もちろん三島由紀夫の小説「金閣寺」を映画化したもので、以前から三島由紀夫のファンだった雷蔵は、周囲の反対を押し切って、主人公・溝口吾市の役に挑戦したと言われています。
溝口吾市は、驟閣寺がこの世で最も美しいものだと考えていますが、老師(中村鴈治郎)の女色を初めとするこの寺の俗化に復讐を企てようとするのですが——–。
市川雷蔵初めての現代劇出演作で、流麗で美しいモノクロ映像が絶品の味わいがあります。
小説「金閣寺」は、ある吃音症の青年が「美への反感」から、国宝の金閣寺に放火したという実際の事件にヒントを得て書かれたもので、三島由紀夫独特の、「美」や「絶対的なるもの」に対して、美の使徒である青年が美に殉じる姿を計算され尽くし、確固とした構築された文体で華麗に描いていましたが、映画の方は、金閣寺は驟閣寺と名前を変えられ、原作の小説ほどには、溝口吾市の屈折した心理はあまり伝わっては来ません。
しかし、監督・市川崑、撮影・宮川一夫という黄金コンビによる画面作りには素晴らしいものがあり、雷蔵の顔のアップが正面に捉えられていて、彼の頭に昔のいまわしい記憶が甦る時、彼の顔はそのままで、背景がスーッと変わっていきます。
こういう映像技法に、あらためて映画という物の凄さを感じてワクワクしてしまいます。
原作の小説でもそうでしたが、私が一番強い印象を受けたのは、溝口の大学のクラスメートである戸苅という男の登場シーンです。
溝口はドモリですが、この戸苅という男は足が不自由で、ほとんど前衛舞踊みたいな歩き方をするのです。
この辺りの表現は、実に三島由紀夫的な高等心理作戦なのだと思うのです。
この映画では、戸苅の役をまだ若々しい仲代達矢が演じていて、ポーンと広い、人影のない校庭を仲代が黒いシルエットになって、思いきり体を歪ませて歩くのです。
この場面は妙にシュールで、痛ましい美しさがあって、この映画の中でも強く印象に残っています。