ヒロシマモナムール(二十四時間の情事)の紹介:1959年フランス,日本映画。日本・フランスの合作により制作された恋愛映画で、原爆の爪痕から立ち直ろうとしていた終戦後の広島を舞台に、フランス人女優と日本人建築家の一日限りの恋を描いています。
監督:アラン・レネ 出演者:エマニュエル・リヴァ(女)、岡田英次(男)、ステラ・ダサス(母親)、ピエール・バルボー(父親)、ベルナール・フレッソン(ドイツ兵)ほか
映画「ヒロシマモナムール」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「ヒロシマモナムール」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「ヒロシマモナムール」解説
この解説記事には映画「ヒロシマモナムール」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
ヒロシマモナムールのネタバレあらすじ:起
広島のとあるホテル。フランス人の女(エマニュエル・リヴァ)と日本人の男(岡田英次)が愛し合っていました。女は男に広島で見た光景を語り出し、男は「君は何も見ちゃいない」と返しました。女が見た景色は、原爆資料博物館の展示、フィルムに収められた原爆投下直後の被爆者の姿、キノコ雲の模型、焼け爛れた人の影、平和広場、記念アーチ、橋や川など、数年前に広島が直撃した惨劇の姿でした…。
女と男が知り合ったのはほんの偶然でした。女は広島で反戦映画撮影のため来日した女優で、男は建築家でした。情事を終えた後、女は翌日の今頃にはフランスへ帰国の途につくと告げ、映画の撮影現場に向かいました。
ヒロシマモナムールのネタバレあらすじ:承
女の約は看護師で、病院の前で反戦デモの撮影が行われ、男も現場に来ていました。撮影後、女は男の家に向かいました。男は既婚者でしたが、妻はこの時留守でした。女もフランスに夫を残してきたのです。女は戦時中の出来事を語り始めました…。
フランスがナチスドイツの占領下にあった第二次世界大戦中、故郷ヌベールにいた女は敵国ドイツ兵(ベルナール・フレッソン)と愛し合っていました。やがてドイツの敗戦が濃厚になってきたある時、二人はロワール河にかかる橋で待ち合わせ、共に駆け落ちしようと心に決めていました。しかしドイツ兵は何者かに殺害され、彼女もまた非国民呼ばわりされて住民から頭を丸刈りにされ、実家の地下室に閉じ込められました。その夜、ヌベールはナチスドイツから解放されたのです。ある夜、正気を取り戻した女は母(ステラ・ダサス)の計らいでパリに旅立ち、そこで広島の惨劇を知ったのです。
ヒロシマモナムールのネタバレあらすじ:転
出発まであと16時間。二人は川べりの喫茶店にいました。あの日のことは夫にも話していないと女はいいます。男もまた“8月6日”は夏休みで広島を離れており、男の家族は原爆の焔に焼かれていました。過去の傷跡を舐め合うかのように、女は丸刈りにされた日を振り返り、人間の愚かさをはっきり思い知らされたと打ち明けました。夜になり、女はホテルに一旦ホテルに戻り、夫を裏切って外国人と結ばれてしまったことを悔むものの、どうしても男を忘れられずにホテルを走るように出ました。先程の喫茶店の近くで男と再会した女。やがて雨が降り出し、男は女に広島に残る気はあるのかと問うと、女は「別れることより不可能」と告げました。
ヒロシマモナムールの結末
雨が止み、女は再びホテルに戻りました。男もホテルに入り、二人はただ向き合ったまま立ち尽くしていました。その時、女は顔を覆って泣き出し、男は彼女を強く抱きしめました。女は「私はあなたのことを忘れるわ。もう忘れてしまったわ。私が忘れていくのを見て。私を見て…」と言いました。一日限りの愛の終わりを告げるかのように、広島の街に朝が訪れようとしていました。
「ヒロシマモナムール」感想・レビュー
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ヒ…ロ…シマ。ヒロシマ。それがあなたの名前。
そう、それが僕の名前。君の名はヌヴェール。フランスのヌヴェール。
闇の底から立ち昇ってくるような男女の肌に重なって、
「きみはヒロシマで何も見なかった。何も」
「私はすべてを見たの。すべてを」
というやり取りから映画は始まる。
これは恐らくヒロシマのどこかで、日本人の彼とフランス人の彼女が昨晩知り合い、そしてその夜を共にしたあと、明け方、ベッドの中で交わされる会話の始まりである。
「だから病院、私はそれを見たの。病院がヒロシマにあるのに、どうしてそれを見ないでいられるかしら」
映像は、現実のヒロシマの病院の入院患者たちを映し出す。
「きみはヒロシマで病院なんか見なかった。きみはヒロシマで何も見なかった」
「博物館には4度」
「ヒロシマのどんな博物館?」
「博物館には4度だわ。私は、人々がゆっくり歩いているのを見た(略)」
映像は、病院のあと原爆資料館の中を映し出す。
こうして、フランス語で、岡田英次とエマニュエル・リバにより、ヒロシマの惨劇が観客の前に再現される。
この、導入部の再現の過程で、なんだ、この映画はつまらなそう、となってしまうと、もう「ヒロシマわが愛」の卓越した芸術性に出会うことができなくなってしまう。
だからここで、少しガマンしていただきたいのだ。
この映画は、たとえばジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」に代表される、それまでの映画の常識を打ち破る、ヌーベル・バーグと呼ばれる作品群の1つで、それまでのように、最初から面白く、観客を物語に引き込むような作り方がされていないのだ。
しかし、間もなく映像はヒロシマの街中に移っていく。
広い道路や、土産物店や、映画館もあれば商店街もある。それに重なるのは、次のようなセリフである。
「私はあなたに巡り会った」
「私はあなたを思い出す」
「あなたは誰?」
「あなたは私を殺す」
「あなたは私を幸福にしてくれる」
(略)
ここから、ああ、彼女は詩を口にしているのだ、という感覚を少しずつ覚えるようになる。
映像も、そして音楽も、次第に郷愁を覚えるような、不思議な懐かしさをたたえたとても美しいものになってくる。
このあたりが、映画に引き込まれていくこの映画に合った感性を持った方と、そうでない、この映画と感性のタイプが異なる方が分かれていく所ではないだろうか。
つまり、ある観客はつまらないと感じるだろうし、ある観客は少しずつ心地よくなっていくと思う。
もし、多少なりとも心地よいと感じることができた観客は、とてもマイナーとはいえ、映画史に燦然と輝く不朽の名画に出会えることになるのだ。
彼と彼女は色々語り合う。
戦争が終わった頃、彼女はイヨンヌ県のヌベールにいた。彼女は20歳。彼は22歳。
「同じ年頃、というわけね」
と彼女は言う。
彼女は映画の撮影のために広島へ来ている女優だった。一方彼は建築技師。
彼女には夫がいる。彼にも妻がいる。
場所は平和記念公園へ移る。時刻は昼時だ。
そこで撮影が行われていて、もう彼女の出番は終わっていた。
群衆シーンの撮影が行われる。
群衆は、原爆がいかに恐ろしいものであるか、現在世界で製造されている原水爆の数のはかりしれない破壊力の批判などをしたプラカードを持っている。
このあと、2人は彼の家で休む。
そこで初めて彼女の過去の物語が明るみに出る。
彼女は17歳の時、ドイツの兵士と恋に落ちた。
イヨンヌ県のヌベールでのことだ。
この2人の逢瀬は名状しがたいほどの美しい映像の中に描かれる。
それは本当にただの美しさではない。写真としても完璧で、心に染み入り、心を揺さぶる、見事な映像なのだ。
しかし、ドイツ兵は誰かに殺される。
彼女は恥さらしとして頭を丸刈りにされ、地下室に閉じ込められてしまう。
音楽が美しい。映像が何とも言えない。
ここでひとつ特筆すべきことは、彼女の記憶は、時間的秩序や、物語的な連鎖が欠如しているということだ。
普通、人は何か過去の出来事を思い出す時、時間の流れに沿って順序立てて思い出すだろうか。
大抵の場合、そうではないだろう。
特に、つらい、心の中に封印していたような出来事は、必ずしもそうした秩序を伴って思い出されるとは限らない。
この映画の、彼女の場合も同様なのである。
そしてある夏、彼女は真夜中にパリに向かって自転車で旅立つ。
広島に原爆が投下された頃であった。
もう再び夜中である。
ヒロシマの街を2人さまよいながら、彼は彼女に言う。
「僕と一緒にヒロシマに残ってくれないか」
彼女は残るわけにはいかないのだ。
彼女はやがて彼を忘れるだろう。彼も彼女を忘れるだろう。人々は、戦争をも忘れていくかもしれない。2人には、そのことが分かっていた。
「1週間」
と彼は言う。
「だめよ」
「3日間」
彼女は、彼女のホテルの部屋で彼に向かって叫ぶのだ。
「私はあなたのことを忘れるのよ! もう忘れるの! 私が忘れていくのをよく見てちょうだい!」
この作品、フランスでは大ヒットしたそうだ。もちろん、日本でもそれなりには観客を動員したようだ。
この、一編の詩のようなマイナーな作品は、一部には熱狂的なファンがいるようだ。
ある意味で、これはどんな名作よりも、その支持者たちによって後世へ受け継がれていくのではないか。
そんな映画だと思う。