コッホ先生と僕らの革命の紹介:2011年ドイツ映画。イギリスから持ち帰ったサッカーを、故郷ドイツ国内に広め、“ドイツ・サッカーの父”と称された英語教師コンラート・コッホと教え子たちとの交流を描いた歴史ドラマです。イギリスへの偏見や階級社会が支配する学校で、サッカーはもとよりフェアプレイの精神や自由と平等の理念を生徒たちに伝えようとしたコッホの軌跡を描きます。
監督:セバスチャン・グロブラー 出演者:ダニエル・ブリュール(コンラート・コッホ)、ブルクハルト・クラウスナー(グスタフ・メアフェルト)、ユストゥス・フォン・ドホナーニ(リヒャルト・ハートゥング)、テオ・トレブス(フェリックス・ハートゥング)、アドリアン・ムーア(ヨスト・ボーンシュテッド)、カトリン・フォン・シュタインブルク(クララ・ボーンシュテッド)ほか
映画「コッホ先生と僕らの革命」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「コッホ先生と僕らの革命」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
コッホ先生と僕らの革命の予告編 動画
映画「コッホ先生と僕らの革命」解説
この解説記事には映画「コッホ先生と僕らの革命」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
コッホ先生と僕らの革命のネタバレあらすじ:起
1871年、フランスに勝利したドイツは皇帝ヴェルヘイム1世の支配のもと、強大な“ドイツ帝国”を築き上げ、“体操の父”ヤーシによって学校の体育の授業に機械体操が取り入れられるようになっていました。
1874年、ブラウンシュヴァイクにある学校「M・ カタリネウム校」に、サッカーボールを抱えた教師コンラート・コッホ(ダニエル・ブリュール)が赴任してきました。ドイツ帝国は他国に負けないよう近代化を推し進めており、イギリス留学帰りのコッホは“ドイツ初の英語教師”として、早速赴任当日から教壇に立つことになりました。
校長グスタフ・メアフェルト(ブルクハルト・クラウスナー)の秘書から担任を受け持つことになる第4学年の教室へと案内されました。ところが、生徒の中にはイギリスを野蛮で帝国主義的な国と見なすなど、偏見を持つ者も少なくなく、誰一人としてまともにコッホの授業を受けたがろうとはしませんでした。
そんな中、学校の備品が何者かにノコギリで切断される事件が発生、クラスのリーダー格であるフェリックス・ハートゥング(テオ・トレブス)は罪を同級生のヨスト・ボーンシュテッド(アドリアン・ムーア)に擦り付けました。ヨストは退学処分を受けることになり、フェリックスは地元の有力者で学校の後援会会長でもある父リヒャルト(ユストゥス・フォン・ドホナーニ)に、クラス唯一の労働者階級出身のヨストを学校から追い出したことを報告しましたが、労働者階級を見下すリヒャルトは、退学処分が正式決定ではないことから、ぬか喜びするなと釘を刺しました。
コッホ先生と僕らの革命のネタバレあらすじ:承
工場で働くヨストの母クララ(カトリン・フォン・シュタインブルク)は、我が子には労働者の道は歩ませずに、アメリカに行かせることを考えており、校長に掛け合って処分を取り消してもらうおうと考えました。
体操器具製造会社のイベントを訪れたコッホはリヒャルトから声をかけられ、学校ではドイツ式のルールに従ってもらうと釘を刺されました。その翌日、コッホは授業を中断して生徒たちを体育館に連れていき、初めて生徒たちにサッカーボールを見せ、器械体操の平行棒をゴールポスト代わりにしてサッカーを実演してみせました。
続いてコッホは教室でサッカーのルールや戦術などを教え始め、当初はやる気がなかったり戸惑っていたりしていた生徒たちも、少しずつサッカーの魅力に惹かれていきました。時にヨストは覚えが早く、的確にシュートを決めるなど才能を発揮し始めていましたが、それでもフェリックスはヨストを認めようとせず、相変わらずいじめを加えていました。
そしてドイツ帝国と皇帝への服従を優先する他の教師の中には、コッホの教えに不満を持つ者もおり、コッホは他の国でもサッカーは授業に取り入れられていることを説明しましたが、リヒャルトはコッホに、今後一切学校でサッカーを教えることを禁じ、フェリックスに気のあるメイドを解雇しました。
コッホ先生と僕らの革命のネタバレあらすじ:転
ヨストはサッカーの授業中に他の教師に怪我を負わせてしまったことから、8時間の監禁処分を受け、学校に駆け付けたクララはコッホに、息子の将来を台無しにしないでと責められました。
コッホは学校のサッカー禁止令には従うとしながらも、学校の外ならば話は別だとして課業外にサッカーの練習をしようと生徒たちに呼びかけ、フェリックスとヨスト以外の全員が賛同しました。ヨストはサッカーを辞めるつもりでしたが、コッホから「サッカーには貧富の差などない」と説得されてサッカーを続けることにしました。
コッホは生徒たちにフェアプレーの精神を教え、そしてあれほどコッホを嫌っていたフェリックスも、リヒャルトに勉強会に行くと嘘をついてサッカーの練習に参加するようになりました。そしてコッホはイギリス・オックスフォード大学に勤める留学時代の友人に対抗試合をしたいという手紙を書きました。
生徒たちは高圧的な他の教師に反発、コッホはその教師に謝罪するよう生徒たちに命じましたが、フェリックスを問い詰めたリヒャルトはサッカーをしている生徒たちを捕らえ、今度こそヨストを退学処分にすると宣告しました。コッホは責任を取って学校を辞めることにしましたが、父への反発心を抱いていたフェリックスは、コッホと和解して捕らえられていた生徒たちを開放、政府もサッカーへの教育の有効性を実証すると学校側に通達してきました。
コッホ先生と僕らの革命の結末
学校には政府の視察団が訪れることになり、学校側はサッカー禁止を解除しました。コッホは再び生徒たちにサッカーを指導しましたが、リヒャルトはマスコミを操作してコッホとサッカーを激しく糾弾しました。恋人が仕事をクビになったとヨストから聞いたフェリックスは、屋敷を抜け出そうとして怪我を負ってしまい、リヒャルトはこれを機に今度こそヨストを退学にし、コッホを学校から追い出そうとしました。
コッホは全ての責任を取って学校を辞め、生徒たちに別れを告げてイギリスに向かおうとしましたが、ちょうどその時にコッホのイギリスの友人が、イングランドのサッカーチームを連れて現れ、同時に政府からの視察団もやってきました。フェリックスもリヒャルトに反発してコッホらに合流、政府の視察団、リヒャルトを除く町の有力者たち、労働者階級など様々な人々が見守るなか、コッホ率いる生徒たちと、イングランドのチームとの試合が始まりました。
序盤はコッホのチームは劣勢を強いられ、政府視察団は一時はサッカーの教育への導入を取りやめにしようかと考えましたが、ヨストの活躍と生徒たちがひとつにまとまったことにより、試合はコッホのチームが2対1で勝利を収め、これまでサッカーに否定的だった人々を大いに唸らせることとなりました。
その後、1875年にコッホは生徒たちとサッカークラブを設立、サッカーはドイツ国内に広まっていきました。そして最後までサッカー禁止だった地域でもサッカーが解禁されたのは1927年のことでした。
以上、映画「コッホ先生と僕らの革命」のあらすじと結末でした。
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