ノスタルジアの紹介:1983年イタリア,ソ連映画。「惑星ソラリス」のアンドレイ・タルコフスキー監督が贈る、イタリアを舞台に自殺した18世紀のロシア人音楽家の足跡を追って旅を続けるロシア詩人の愛と苦悩の軌跡を描いた魂の抒情詩です。
監督:アンドレイ・タルコフスキー 出演者:オレーグ・ヤンコフスキー(アンドレイ・ゴルチャコフ)、エルランド・ヨセフソン(ドメニコ)、ドミツィアナ・ジョルダーノ(エウジュニア)、パトリツィア・テレーノ(アンドレイの妻)、ラウラ・デ・マルキ(髪にタオルを巻いた女)ほか
映画「ノスタルジア」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「ノスタルジア」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「ノスタルジア」解説
この解説記事には映画「ノスタルジア」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
ノスタルジアのネタバレあらすじ:起
イタリア中部トスカーナ地方。モスクワから来たロシア人の詩人アンドレイ・ゴルチャコフ(オレーグ・ヤンコフスキー)は通訳の女性エウジェニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)を伴い、18世紀に活動していたロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの伝記を書くためのその足跡を追う旅をしていました。サスノフスキーはイタリアを放浪し、故国ロシアに帰れば農奴になると知りつつも帰国して自殺を遂げたのです。しかし、アンドレイは持病の心臓病が悪化し、余命いくばくもありませんでした。マドンナ・デル・パルトの聖母画を見るため古都シエナ南東の村を訪れた二人でしたが、アンドレイは一人行動を別にし、エウジェニアひとりだけ教会を訪れます。
ノスタルジアのネタバレあらすじ:承
エウジェニアはピエロ・デラ・フランチェスカが描いた出産の聖母像に敬虔に祈りを捧げる女たちの儀式を見学しますが、跪こうとしても跪けず、神父に「女だけがこれほど神にすがるのはなぜ?」と問いかけるも返ってきた言葉は「女の役目があるからだろう」という一言のみでした。一方、アルセニー・タルコフスキーの詩集を読んでいたアンドレイは夜遅くにエウジェニアとホテルで合流します。エウジュニアにサスノフスキーがなぜ危険を冒してまでロシアに戻ったのかを問われたアンドレイは「ボローニャに宛てた手紙を読めば分かるよ」と答えました。その夜、アンドレイは自分の故郷の夢を見ました。そこには霧に包まれ、走り回る少女と森の風景が広がっていました。
ノスタルジアのネタバレあらすじ:転
翌日、アンドレイはエウジュニアと共に近くにあるヴィニョーニ温泉へ行き、そこで、信仰心に厚く世界を救おうと考える変わり者のドメニコ(ユルラルド・ヨセフリン)という人物と出会います。ドメニコに興味を持ったアンドレイは、ロウソクを手に広場の温泉を渡り切ることが出来たら世界は救済されるというドメニコの言葉を聞き、代わりにその苦行を受け持つと約束します。その夜、アンドレイはまた夢を見ます。霧の立ち込めるロシアの大地で、犬と少年、少年の姉が戯れていました。その後、インドへ恋人と共に行くというエウジェニアと行動を別にし、アンドレイはヴィニョーニ温泉に留まって苦行を続けることにします。
ノスタルジアの結末
ある日、ドメニコはカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス像に上り、人々を前に演説を行っていました。「我々の心は影に囚われている。私たちは無駄と思える声に耳を傾けなければならない。私たちの耳と目に大いなる夢の始まりを満たすのだ」と言いながら突然頭からガソリンを被り、ベートーベンの「第九」を流しながら焼身自殺を図ります。心配になったエウジュニアが駆けつけた時にはもう時既に遅く、ドメニコは炎の中で息絶えました。その頃、アンドレイはヴィニョーニ温泉でロウソクを手にして苦行に挑んでいました。何度かの失敗を経てようやくロウソクの炎を絶やすことなく進んだアンドレイでしたが、心臓病の悪化により倒れてしまいます。アンドレイは幻を見ていました。そこには懐かしい故郷と、雪が降り続ける風景が浮かんでいました。
「ノスタルジア」感想・レビュー
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イタリアの中部地方の山間には、不可思議な町、あるいは村が存在する。それはまさに「存在」そのものだ。
アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジー」が描くのは、幻想の「水」を辿る旅であり、タルコフスキー自身の、故郷ロシアへの郷愁が、主人公アンドレイ・ゴルチャコフの心象風景として表われていると思います。ゴルチャコフは呟く。「この風景は、どこかモスクワに似ている」と。霧の漂う丘陵地帯。白い馬。佇む女たち。
そこには、動くことを止めた時が、うずくまっている。
かと思うと、深い谷底から生えてきた角のような台地に、ひしめきあって建つ、赤っぽい石造りの建物。周囲を濃い緑の山々に囲まれた一握りの台地は、霧の切れる一瞬、幻想ではなかったかと、私は目を疑ってしまう。
しかし、確かに実在する土地なのだ。「ノスタルジア」の旅は、こうして、幻想の中でスタートする——–。イタリアで、ロシアの詩人ゴルチャコフは、恋人のエウジェニアとともに温泉地を訪れ、世紀末の世を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ることに執着する老人ドメニコと出会う。
エウジェニアは、ロシアへのノスタルジアにとり憑かれたゴルチャコフの、果てしない思案に耐え切れず、別の恋人のもとへ去ってしまう。
そして、ドメニコは焼身自殺し、残されたゴルチャコフは、ドメニコの遺志を継いで、ひとりで温泉を渡り切った時、力尽きてしまうのだった——–。タルコフスキーにとって「水」は、地上で最も美しく、謎めいた物質なのだろう。だから、ドメニコは俗世の人間に狂人扱いされながらも、水=温泉を渡ろうとする。
俗世間の人々から、このように狂人扱いされているドメニコは、世紀末の世界を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ろうとする。
「水」は、禊に使われるように、ここでもある種の力を持っている。
そして、「水」はあの世とこの世の間の川。ドメニコは、その川の渡し守なのだ。また、この「水」は、母胎の中の羊水でもあり、世紀末を世界の始まりに戻そうとすることは、胎内への回帰等、胎を持たない男の発想であり、そんなことでもたつくゴルチャコフに嫌気がさして去ってゆくエウジェニアは、中性的な魅力にあふれている。
この映画の中で、特に印象的だった場面は、水溜まりの向こうに横たわるゴルチャコフ。雨が降っている。屋根のない柱廊。
廃墟と化し、屋内であり、屋外でもある奇妙な建物、映画全体を支配する幻を、この建物に感じてしまいました。
1983年の、イタリア、ソ連合作映画です。
今年は例年に比べても雨が多いそうだ。
休みの日などにベッドに身体を横たえて疲れを癒していると、ぽつん、とん、とん、とん、と雨が軒先から落ちる音がして、そぼ降る雨脚の音にも包まれ、自分が「ノスタルジア」の主人公になったような気分になる。
メジャーな感覚で言えば、ショパンの「雨だれ」を思い出す、ということになるのだろうが、私はマイナーな人間なので、アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジア」の世界に紛れ込んだという方がずっとしっくりくる。
それくらい、この作品は雨と関わりが深い。
イタリアのトスカーナ地方を、ロシアの詩人アンドレイが旅するというただそれだけの話なのだが、アンドレイ・タルコフスキー監督の希有の才能と感性によって、世界でも例を見ない個性的な作品になったと言っていい。
古いホテルの一室で、アンドレイは故郷の風景を想う。それも何度も。
霧の立ち込める中に佇む家。家族の姿。家の屋根の上に朝日が昇る。この場面は白黒である。
アンドレイはドメニコという老人と知り合う。ドメニコは、ろうそくに火をつけ、火が消えないうちに広い温泉を渡り切れば世界は救われる、と言う。しかし彼は人々から狂人扱いされている男だった。
雨が降る。
雨音が絶えず部屋に忍び込む。
ドメニコは言う。
「一滴に一滴を足すと、大きな一滴だ。二滴にはならない」と。
壁には1+1=1と書かれている。
映像が実に見事だ。目を見張る美しさ。それがじわじわと見る者の感性に溶け込んでいく。
ドメニコはローマへ行き、演説をしたあと、ベートーベンの第九をかけて焼身自殺を図る。
聞き飽きたはずの第九が、これほど劇的な音楽だったのだということを、ここで観客は思い知ることになる。
その頃アンドレイは、ろうそくに火をつけ、温泉を渡ろうとしている。しかしろうそくの火は、温泉の途中で消えてしまう。
この、ただろうそくを持って温泉を渡るというアンドレイの行為を、カメラは執拗に追い続ける。
そこには、観客が、かつて経験したことのないような緊迫感と、息を飲む緊張がある。
そしてついにそれが成功した時、アンドレイの死とともに、観客の気分の高揚と恍惚は頂点に達する。
他のどこにもない、世界で唯一のかけがえのない個性を持った一本の映像詩がここにある。
世界が賞賛した。