渚にての紹介:1959年アメリカ映画。イギリスの小説家ネビル・シュートが1957年に発表した小説『On the Beach』を映画化したSFドラマです。第三次世界大戦が勃発、核兵器によって荒廃した世界を舞台に、絶滅の危機に瀕したオーストラリアの人々が残された日々を思い残すことなく過ごそうとする姿を描きます。
監督:スタンリー・クレイマー 出演者:グレゴリー・ペック(ドワイト・ライオネル・タワーズ)、エヴァ・ガードナー(モイラ・デヴィッドソン)、フレッド・アステア(ジュリアン・オズボーン)、アンソニー・パーキンス(ピーター・ホームズ)、ドナ・アンダーソン(メアリー・ホームズ)、ジョン・テイト(ブライディー提督)、ローラ・ブルック(ホズグッド)、ジョン・メイロン(ラルフ・スウェイン)ほか
映画「渚にて」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「渚にて」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
渚にての予告編 動画
映画「渚にて」解説
この解説記事には映画「渚にて」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
渚にてのネタバレあらすじ:起
1964年1月、第三次世界大戦が勃発しました。大戦には核兵器が使用され、放射能汚染により北半球は壊滅状態となりました。南半球のオーストラリアまでにはまだ放射能は到達しておらず、人々は普段と変わらぬ日常生活を謳歌していましたが、既にガソリンが不足するなどの影響が出始めており、科学調査委員会はオーストラリアに放射能が到達するのは今から5ヶ月後だと推測していました。
オーストラリア海軍のピーター・ホームズ大尉(アンソニー・パーキンス)には妻メアリー(ドナ・アンダーソン)と幼い子供がいました。ある時、アメリカ海軍の原子力潜水艦「ソーフィッシュ」がオーストラリア・メルボルンに寄港、ブライディー提督(ジョン・テイト)に呼び出されたピーターは「ソーフィッシュ」に連絡員として4ヶ月の間同行するよう命じられました。その後、ピーターは「ソーフィッシュ」のドワイト・ライオネル・タワーズ艦長(グレゴリー・ペック)と会い、食事に誘われました。
数日後、ピーターはドワイトを自宅のパーティーに招き、女友達のモイラ・デヴィッドソン(エヴァ・ガードナー)がドワイトを駅まで迎えに行きました。モイラはドワイトに一目惚れし、二人は意気投合しました。パーティーには科学者のジュリアン・オズボーン博士(フレッド・アステア)も参加していましたが、ジュリアンは酒の勢いで大戦で核兵器が使われたことを痛烈に批判、話を聞いていたメアリーはショックを受けてしまいます。
モイラは核兵器が使用された当時の様子をドワイトに尋ねたところ、ドワイト自身は潜水艦で潜航していたため被爆を免れたものの本国に残した妻シャロンと2人の子供は死んだことを打ち明けました。モイラは哀しみに耐えて任務に励むドワイトの心情を考えているうちに酒で酔いつぶれ、ドワイトはモイラを、ドワイトは寝室まで運びました。
渚にてのネタバレあらすじ:承
翌日、「ソーフィッシュ」乗組員たちは出航に向けて準備をしていました。モイラはドワイトの元を訪れ、昨夜の失態を謝罪しました。モイラは「ソーフィッシュ」の艦内を見学させてもらえることとなりました。その後、ブライディー提督に呼び出されたドワイトは、生存者がいないはずのアメリカ・サンディエゴから謎のモールス信号が数日前から発信されていることを知らされ、その調査を任されました。
ピーターは今回の航海が長期に渡ることから、妻子の身を案じ続けていました。ピーターは芝刈り機を買ってほしいとせがむメアリーに強力な睡眠薬を渡し、もし自分が航海中にオーストラリアにまで放射能が及んだら苦しまずに死ねるよう飲めと告げました。ショックを受けたメアリーはその場を立ち去り、ピーターは我が子をも死なせねばならないことに胸を痛めていました。
出航前の休日、ドワイトとモイラはヨットに興じるなどデートを楽しんでいました。ドワイトとモイラはすっかり仲が深くなりましたが、どうしても妻子を失った哀しみから逃れられないドワイトはついモイラのことを亡き妻の名“シャロン”と呼んでしまいました。
それでもモイラは自分がシャロンと間違われたことは気にしていないと語り、むしろ自分のことをシャロンだと思ってほしいと言ってドワイトを慰めますが、ドワイトは今なおも家族を死なせたことを後悔しており、モイラの申し出を受け入れられませんでした。
渚にてのネタバレあらすじ:転
モイラは酒に酔った状態でかつて愛し合っていたジュリアンの元を訪れました。ジュリアンはちょうど愛車フェラーリの整備をしていました。未だに独身のモイラは愛する人がいないまま死ぬことを嘆き、もしドワイトの妻が生きていたら力づくでも彼を奪っていたと気持ちをぶつけました。モイラはジュリアンに一晩泊めてほしいと頼みますが、翌日早朝にも「ソーフィッシュ」で出航する予定のジュリアンはそれを断り、彼女を送っていきました。
翌朝、「ソーフィッシュ」はメルボルン港を出航、安全だと思われていた南極に向かいましたが、南極では予想以上に高い放射線が計測されました。「ソーフィッシュ」は進路を変えてサンフランシスコに向かい、ピーターはメアリーに睡眠薬を渡した時のことをジュリアンに語ると、ジュリアンは心配する者がいるだけ幸せだと応えました。ピーターはジュリアンに感謝し、人生の最期に家族と過ごせればもう愚痴はこぼさないと誓いました。
「ソーフィッシュ」はサンフランシスコに到着しましたが、乗組員たちの目に映ったのは車1台すら走っていないゴールデン・ゲート・ブリッジと完全に人影の失せた街並みでした。サンフランシスコ出身の船員ラルフ・スウェイン(ジョン・メイロン)はドワイトの制止を振り切って勝手に艦を降りてしまい、街の人々が全て死に絶えているのを確認すると海に戻って釣りを始めました。スウェインは潜望鏡のマイクを通じて「死ぬなら故郷で死にたい」とドワイトに伝え、スウェインの救助を断念したドワイトは彼の気持ちを察して別れを告げました。
「ソーフィッシュ」はモールス信号の発信地であるサンティエゴに到着しました。防護服を着た乗組員が周囲を捜索した結果、発信源である発信機は発電所内で発見されました。そこでは窓のブラインドのひもがコーラの瓶に引っかかっており、それが発信機に当たっているだけでした。報告を受けたドワイトは思わず苦笑いし、メルボルンへと引き返していきました。
渚にての結末
「ソーフィッシュ」はメルボルンに帰還、ドワイトはモイラと再会すると熱いキスを交わし、ピーターもメアリーや子供との再会を喜び合いました。ドワイトは海軍の司令長官が退任したことを受けて後任の提督に任じられましたが、その際に放射能の被害は既にブリスベンにまで達しているとの報告を受けました。
カーレースが趣味のジュリアンは愛車のフェラーリで出場、出場車の衝突や炎上が相次ぐなか死を覚悟したかのようなアグレッシブな走りを見せ、ぶっちぎりで優勝しました。祖国の惨状に心の整理がついたドワイトはモイラとの関係を深めていき、二人はマス釣りを楽しんだ後に夜はワインを飲み、一夜を過ごしました。
オーストラリアへの放射能の到達は予想を上回るペースで進んでおり、「ソーフィッシュ」の乗組員の中には被爆の症状を訴える者が現れました。一般市民にも睡眠薬の配布が始まり、配布場所の病院には長蛇の列が続いていました。乗組員たちが祖国に帰りたがっていることを察したドワイトは乗組員たちによる投票を行い、その結果「ソーフィッシュ」はアメリカに帰還することが決まりました。
ブライディー提督は女性秘書のホズグッド(ローラ・ブルック)と最後の酒を酌み交わし、ジュリアンは愛車フェラーリの排気ガスを車庫内に充満させて自ら命を絶ちました。ピーターはメアリーと子供に睡眠薬を渡し、夫婦が初めて出会った渚での思い出を語り合いました。ドワイトはモイラにアメリカへ帰国することを伝え、別れのキスをしました。モイラは出航する「ソーフィッシュ」をいつまでも見つめていました。それから間もなく、メルボルンの街からは人影が消え失せました。
以上、映画「渚にて」のあらすじと結末でした。
このスタンリー・クレイマー監督の映画「渚にて」が、反戦的なテーマを持っていることは自ずと明らかであるように思います。
遂に、誰もいなくなった広場にかかっている「まだ時間はある。兄弟たちよ」という横断幕が写し出されるシーンで、この映画は終るのですが、明らかにこの横断幕は、この映画を観ている人々に対して提示されているのだと思います。
この映画が製作された1950年代終盤というのは、冷戦下における、東西陣営の両極化が明瞭になり、軍拡の時代がまさに到来せんとしていたような時代でありました。
まだ時間があるというメッセージは、そういう軍拡競争が手遅れなポイントまで達するのを阻止することが、今ならまだ出来ると我々観る者に向かってアピールしているように思えます。
この映画の面白いところは、戦争の残虐さを残虐なシーンを見せることによって訴えるというような、通常よくある手法を用いるのではなく、逆に全くそういうシーンを描くことなく、見事に戦争の無益さというテーマを表現している点です。
例えば、核戦争で世界が壊滅したのなら、TV映画の「ザ・デイ・アフター」(1983)のような、どこもかしこも廃虚になっているような舞台を想像してしまうのですが、この「渚にて」には、ガラガラに崩れた廃虚など、どこにも登場しないんですね。
この映画においては、核戦争が発生したならば、軍事施設の次にターゲットになるであろうはずのサンフランシスコのような大都市ですら、無傷で残っているのです。
ただし、そこには誰一人生存者はいないわけであり、無傷で残った大都市に、ただの一人も人間が住んでいないという不思議な光景が、実に奇妙な虚無感を生み出すことに成功しているように思われます。
それから、放射能汚染による即時の生命の壊滅から免れた、地球上で唯一の国であるオーストラリアにも徐々に放射能が迫ってくるのですが、そこで営まれている生活が、最後の最後まで通常通り続いていく様を描いた後に、最後のシーンで、そのオーストラリアも無人の廃虚と化したシーンが写し出されます。
今まであったものがなくなってしまう様子を通じて、なんとも言えない虚無感、あるいは無為感が表現されているように思います。
こういう表現になったというのも、恐らくこの映画が製作された時代の、時代的な背景も一役買っていたのかもしれません。
もちろん、先ほど述べたような、東西の冷戦の初期の頃という背景もそうなのですが、この時代が、第二次世界大戦及び朝鮮戦争が終った後で、なおかつ、ベトナム戦争はまだ先であったという、中間的な時代であったということです。
戦争をリアルな戦争シーンとしてではなく、いわば”what-if”的なシナリオで描くような、婉曲的な表現方法が好まれたのかもしれないということです。
この映画の数年先には、キューバ危機のような事件も発生するのですが、「渚にて」という映画は、戦争の無益さを描いた、東西冷戦時代の映画の先駆けだと言ってもいいのではないでしょうか。
いずれにしても、「渚にて」は常套的な手段に頼らない、非常に変わった印象のある映画であり、カテゴリー的には、時としてSFとして扱われることもありました。
だが、製作意図という見地から見た場合には、時代的背景も考え合わせてみれば、SFというよりは、もっとより現実感覚へのアピールという側面が強い映画だったのではないかと思います。