スケアクロウの紹介:1973年アメリカ映画。正反対な性格を持つ男性2人の友情を描くロードムービー。マックスとライオンは、それぞれヒッチハイク中に偶然出会って意気投合した。短気で神経質なマックスと大らかで人懐っこいライオンは、ピッツバーグで洗車業を営むことにする。ライオンに影響され、笑うことの愉快さを知るマックス。しかし旅の終わりには悲劇が待ち受けていた。1973年のカンヌ国際映画祭でグランプリと国際カトリック映画事務局賞を受賞。
監督:ジェリー・シャッツバーグ 出演者:ジーン・ハックマン(マックス・ミラン)、アル・パチーノ(フランシス・ライオネル・デルブッキ)、ドロシー・トリスタン(コーリー)、アン・ウェッジワース(フレンチー)、リチャード・リンチ(ジャック・ライリー)、ペネロープ・アレン(アニー)ほか
映画「スケアクロウ」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「スケアクロウ」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
スケアクロウの予告編 動画
映画「スケアクロウ」解説
この解説記事には映画「スケアクロウ」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
スケアクロウのネタバレあらすじ:2人の出会い
舞台はアメリカ、カリフォルニアの田舎道。マックス・ミランとフランシス・ライオネル・デルブッキ(愛称ライオン)は、道路を挟んでそれぞれヒッチハイクをしていました。ライオンがマックスの煙草に火をつけてやったことをきっかけに意気投合する2人。ピッツバーグで洗車業を始めようと計画していたマックスは、共同経営しようとライオンを誘います。マックスは傷害の罪で6年間刑務所に入っていて、その間稼いだ金をピッツバーグの銀行に預けていました。ピッツバーグに向かう前に、デンバーにいる妹のところへ立ち寄りたいと言うマックス。一方5年間船乗りをしていたライオンは、デトロイトに置き去りにした妻と、留守中に生まれた子どもに会いたいと希望しました。ライオンは我が子に一度も会ったことがなく、名前はおろか性別さえ知りません。互いに承諾した2人はモーテルに移動します。ライオンはマックスにかかしの話をしました。カラスはかかしに怯えているのではなく、かかしを笑っているのだと言います。笑わせて貰ったカラスは畑を荒らして困らせるのはやめようと考えるのだと語るライオン。マックスは「カラスが笑うものか」と言って眠ります。
スケアクロウのネタバレあらすじ:再会と喧嘩
ヒッチハイクとアルバイトを繰り返しながらデンバーへ向かう2人ですが、気性の荒いマックスは行く先々で喧嘩などトラブルを起こしてしまいます。ライオンはそんな彼を冗談で笑わせ、丸く収めながらようやくマックスの妹コーリーの家に到着しました。再会を喜ぶ兄妹。コーリーは友人フレンチーと共に、廃品回収業を行っていました。肉感的な美女フレンチーはマックスを気に入り、頻りにアピールします。すっかり気を良くしたマックスは彼女の家に泊まることにしました。残ったライオンに、コーリーはこの町で洗車業をすればいいと提案します。翌日の夜、4人は店に入り夕食にしました。そこへフレンチーと関係を持っていた男が現れます。幸い喧嘩にはならず、ライオンがトークで店中を盛り上げ、音楽に合わせ皆踊り始めました。ところが結局マックスが先ほどの男と殴り合いの喧嘩をしてしまい、パトカーがやって来ます。マックスとライオンは逮捕され、1か月の強制労働を課せられました。
スケアクロウのネタバレあらすじ:ライリーの思惑
デンバー郡矯正局に収容された2人。マックスはこんな事態になったのはライオンのせいだと考え、彼を徹底的に拒絶します。そこへ古株の受刑者ジャック・ライリーが声をかけてきました。マックスは「話したくない、向こうへ行け」と命令し怒りを買ってしまいます。古株としてそれなりの権力を持つライリーは、マックスをきつい仕事の養豚場へ送ります。ライオンには洗車の仕事を与えました。ライリーと行動を共にするようになったライオン。ある夜、酒を飲みながら長い服役期間に愚痴をこぼしていたライリーは、「気晴らしをさせてくれ」と言い出します。ライオンを強姦しようとして抵抗されたライリーは腹を立て、ライオンの顔面を滅茶苦茶に殴りつけました。顔を血まみれにしたライオンが房へ戻ると、マックスが物音に気づいて近寄ります。何があったのか聞いたマックスは「かわいそうに」とライオンを抱きしめ、その後ライリーにきっちり報復をして出所します。
スケアクロウのネタバレあらすじ:デトロイトの悪夢
デトロイトに近づくにつれ、ライオンは緊張から表情が硬くなっていきました。店に立ち寄り食事をしながら、自分達をかかしだと言うライオン。マックスが懲りずに他の客と喧嘩を始めようとすると、ライオンは店から出て行こうとします。慌てて引き止めたマックスはかかしの真似やダンスを披露して店中を笑わせました。ライオンも笑っていましたが、どこかぼんやりしています。デトロイトに到着し身なりを整えたライオンは、妻アニーに公衆電話から連絡を取りました。緊張する彼を「お前は立派な人間だ」と励ますマックス。電話を受けたアニーはとても驚き、妊娠中だった自分を捨てたライオンを泣きながら詰ります。2年前に他の男性と結婚し、ライオンとの間に出来た幼い息子を育てているアニー。しかし彼女は、子どもは出産前に死亡したと嘘をつきます。「あんたのせいで息子の魂は地獄へ送られた」と言われたライオンはショックのあまり電話を切ってしまいました。様子を窺うマックスに、ライオンは子どもの死を伏せたまま「男の子だった」と報告して大喜びします。そして彼らはアニーの家ではなく、大きな噴水のある公園へ向かいました。
スケアクロウの結末:笑顔を失ったライオン
公園で子ども達を相手に遊んでいたライオンでしたが、マックスは様子がおかしいと気づきます。ライオンは突然男の子の1人を抱え上げ、冷たい噴水に足を踏み入れました。男の子の母親が驚いて騒ぎ出し、マックスが慌てて男の子を取り返します。ライオンは「救ってやらないと」と言いながら暴れ出しました。病院に担ぎ込まれたライオンは鎮静剤を打たれベッドに寝かされます。医師はライオンを重度の統合失調症だと診断し、ラグナハイツの専門病院に移すと告げました。薬の影響で眠り続けるライオン。マックスが話しかけても何の反応もありません。マックスは「おれ一人じゃ無理なんだ」「一人にするな」と叫んでライオンを抱きしめます。ライオンの治療に金を使うと決めたマックスは空港へ向かいます。彼がピッツバーグ行きの往復切符を購入し、この映画は終わりを迎えます。
以上、映画スケアクロウのあらすじと結末でした。
“アメリカン・ニューシネマの頂点を示すジェリー・シャッツバーグ監督の秀作「スケアクロウ」”
ワーナー・ブラザース映画創立五十周年記念作品である、このジェリー・シャッツバーグ監督の「スケアクロウ」は、1960年代後半から1970年代前半にかけての、いわゆる”アメリカン・ニューシネマ”のひとつの頂点を示す秀作です。
旅をする人間は、アメリカ映画の永遠の登場人物で、この旅する人間を描く事は、アメリカ映画の”永遠のテーマ”でもあり、”ロード・ムービー”と呼ばれていますが、アメリカン・ニューシネマの抬頭以降、このテーマは何度も繰り返して取り上げられ、純化して来たと言えます。
そして、”孤独な人間同士の結びつき、現代人の抱え込んでいる疎外感”などを描いて、アメリカという国の素顔をのぞかせようとする映画が続々と製作されていた時代の正しく、この映画はその思想のひとつの到達点を示す作品になったと思います。
監督のジェリー・シャッツバーグはスチール・カメラマン出身なだけあって、斬新でスタイリッシュな映像表現を見せてくれます。まず、映画の冒頭のシーンが見事です。
タンブル・ウイードと言われる枯草の輪が南カリフォルニアの砂嵐に転んでいきます。そこに、6年ぶりに出獄したばかりのマックス(ジーン・ハックマン)と、船から下りたばかりのライオン(アル・パチーノ)が偶然に出会い、マッチ一本をきっかけに意気投合します。
この二人の出会いのシーンの演出の素晴らしさで、我々、観る者は、一瞬にしてこの”スケアクロウ”という映画的世界へ引き込まれてしまいます。
名画と言われる映画は、いつも冒頭の場面とラストの場面が素敵です。
喧嘩早い粗野な大男のマックスと人を笑わせる陽気な小男ライオンの、正に弥次喜多道中とも言うべき旅が始まります。
性格の全く違う二人の男が、友情を抱きながらカリフォルニアからデトロイトまで旅を続ける事になりますが、ジーン・ハックマンとアル・パチーノというメソッド演技の神髄を知り尽くした二人の名優が、まるで演技競争のようにして、ある意味、人生に敗れた、しがなさ、ダメさを、時にユーモラスに、時に切なく演じて、本物の演技のうまさ、凄さというものを我々、観る者に強烈なインパクトを与えてくれます。
アメリカ大陸を東に横切ってマックスの妹の住むデンバーと、ライオンが5年ぶりに会おうとする妻子の住むデトロイトへ、その間約3,000km。
そして、最後は、二人で洗車屋を開く予定のピッッバーグへ。
シネ・モビルによる野外でのオール・ロケーション撮影は、敗残者と老人たちのうごめく街々の底辺と、広漠とした大陸の広がりをただひたすら淡々と映していきます。
途中の酒場でのドンチャン騒ぎの末に、ぶちこまれる豚小屋ならぬ、刑務農場、これもアメリカの知られざる隠れた一面を見せつけられます。
この映画でのアメリカ大陸横断には、かつての「イージー・ライダー」のような若々しい直線的な気負いというものがありません。
ダメになったアメリカ、しかし、”男同士の無垢な友情が絶望を突き抜けた希望”というものを育み、オプティミズムの明るい光を照射して来ます。
しかし、この映画のラスト近くで、暴力のみに頼るマックスに笑いで生きる事の意味を教えたライオンが、妻子に裏切られたショックで錯乱しますが、マックスの力強い愛情によって救われます。
そこには、力のみで生きて来た大国アメリカの反省と、それを乗り越えて来た開拓者の自信といったものを考えてしまいます。
“スケアクロウ”とは、案山子の事ですが、「風采の上がらない、みすぼらしい奴」という意味もあり、「そう見られて、馬鹿にされるから、かえっていいんだ」という気負いを捨てた姿を言っているのと共に、「案山子を見てカラスは脅かされるのではなくて、カラスは実は笑っているのだ」、そして笑って馬鹿にして、「だからあいつの畑を襲うのはよそう」と畑にやって来ないのだという裏返しの見方が重なっているような気がします。
このように、ジェリー・シャッツバーグ監督の現代を視る眼は複雑だと思います。
脅しが、本当は笑われているのだと力の空虚な誇示を批判しながらも、やはり、みすぼらしいながら案山子のタフさを言おうとしているようにも思えます。
それは、”頑固者。無駄骨だが、ひたすら一生懸命努力をする者”の事で、このように”スケアクロウ”は、マックスとライオンの二人をそれぞれ指しているのです。
ジェリー・シャッツバーグ監督はこの映画の製作意図として、「スケアクロウは純真無垢についての映画である。イノセントであるために犠牲になる人々についての映画である。主人公がアメリカ的な物質的な富というものを捨ててまで、より重要な豊かさ、つまり誰かを愛するということに達しようとする意味で、オプティミズムの映画である。この映画で私の言いたいのはこうだ。世界中、至るところに純真さとポエジーの鉱脈はある。それを探すには、少し掘ってみさえすればいい」と正しくこの映画のテーマの核心を見事に語っています。
この映画を観終えて思う事は、アメリカでは開拓者の時代の昔から男たちが、東から西へ、北から南へと歩いて行ったわけですが、この映画に描かれた人間たちも良いにつけ、悪しきにつけ、そういう人たちの一種で、当時の荒廃したアメリカも、やはり依然として開拓者としての友情を求めてやまない社会であり、そして本質的に男の世界である事をこの映画は描こうとしているんだなと改めて感じました。
尚、この映画は1973年度の第26回カンヌ国際映画祭で、最高賞であるグランプリを受賞し、併せて国際カトリック映画事務局賞も受賞しています。