エレファント・マンの紹介:1980年アメリカ,イギリス映画。自主映画「イレイザーヘッド」によって注目を浴びたデヴィッド・リンチが初めて商業作品として監督した名作。アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞などにノミネート。リンチの名前を一般に知らしめた。
監督:デヴィッド・リンチ 出演:ジョン・ハート(ジョン・メリック)、アンソニー・ホプキンス(フレデリック・トリーブス)、アン・バンクロフト、ジョン・ギールグッド、ウェンディ・ヒラー、ほか
映画「エレファント・マン」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「エレファント・マン」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「エレファント・マン」解説
この解説記事には映画「エレファント・マン」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
エレファント・マンのネタバレあらすじ:1
画面に現れる美しい女性。続いて象の群れ。象は長い鼻でその女性でなぎ倒します。悲鳴を上げる女性。これは主人公ジョン・メリックが生まれる場面の暗喩のようです。次に場面は19世紀のロンドン、見世物小屋が立ち並ぶ裏通り。そこを群衆に混じって1人の紳士が歩いてゆきます。彼はフレデリック・トリーブス。外科医です。別に目的もなくその通りをぶらついていたのですが、ある小屋で興味をひかれるものを見ます。それがジョン・メリック。「エレファント・マン」として見世物にされている男です。顔は額と後頭部が果実のように膨れ上がり、背骨が異様に曲がっています。発音もまともにできず、歩くのにも杖が要ります。衝撃を受けたトリーブスは彼を学会へ。大きな反響がありました。
エレファント・マンのネタバレあらすじ:2
やがて、メリックがその所有者から虐待を受けていることを知ると、トリーブスは彼を引き取ります。そして治療を目的として自分の勤める病院の屋根裏部屋に住まわせますが、院長は彼の勝手な行動を非難。しかし実際にあって見ると、メリックは聖書や詩を自在に暗唱するインテリでした。院長も感銘を受け、態度を改めます。
エレファント・マンの結末
知性人らしく立派な背広を着たメリックはトリーブスの家庭に招かれます。トリーブス夫人は彼に優しく接し、嫌な顔ひとつ見せません。感激したメリックは泣き出してしまい、彼女に自分の母親の写真を見せるのです。彼のことは新聞などで喧伝され、すっかり有名な存在になります。有名人も彼に会いにゆきますが、とりわけ名女優とうたわれたケンドール夫人は彼に対して熱心でした。名前が知られるにつれ、損をしたと考えた前の所有者はメリックを勝手に連れ戻し、ヨーロッパ大陸を巡業させます。ひどい扱いを受け、体調もボロボロになった彼はようやくロンドンへ。トリーブスが彼を再び救い出します。ケンドール夫人のおかげで舞台も鑑賞でき、自分の部屋に戻ったメリックは、寺院の模型を完成させてサインを入れます。そして彼にとっては死に等しい仰向けの姿勢で眠りにつくのです。
この映画「エレファント・マン」を初めて観た時、奇形の人間が主人公の映画だとの前情報で、観るのをどうしようかと、ちょっとためらった思い出があります。
奇形、業病—-シチュエーションの異常さで見せる映画が元々嫌いで、不幸な人々を、ある種の見世物にして満足するような映画があまりにも多いから—-。
けれども、この映画はそういう”イージーな感動”を当てにした映画ではなかったのです。
頭巾を脱いだエレファント・マンを画面に登場させる時に、敢えてアップで撮らずに、遠景にした、そういうところにも、素材の異常さに頼っていない映画だということがわかって、好感が持てたのです。
世にも稀な奇形に生まれつき、「エレファント・マン」と呼ばれ、見世物にされていたジョン・メリック。彼は19世紀末のイギリスに実在した人物だと言われています。
見世物の口上では、奇形の原因は、母親が象に踏み倒されたためという(だが、本当のところは全くの原因不明なのだが)。
この映画の冒頭は、そのイメージ・シーン。美しい女の顔のアップ。唸り声をあげて襲いかかる象の群れ。
戦慄を覚える、非常に怖いシーンだ。
19世紀末のロンドンの陰鬱な暗い街並み。
モノクロの画面はアンチック・カードのような暗い美しさに満ちている。
そして、見世物小屋から小びと、シャム双生児、巨人などのフリークに助けられて逃亡するシーンも、幻想的な美しさに満ちている。
産業革命当時の、鉄と火とじゅうじゅうと煮えたぎる水—-
これが冒頭の象のシーンとなぜか一つになって、荒々しい”恐怖イメージとなって、観ている私の胸に迫ってくるのだ。
私にとっては、これはエレファント・マンの醜い肉体よりも、もっと深い恐ろしさだった。
そして、エレファント・マンが目前に現われた時の、様々な人々の様々な反応。
恐怖の叫び声をあげる看護婦。好奇心をむきだしにする夜警や子供たち。
ひとすじの涙を流す外科医—-。
それは、全て私たちの心の内側にある反応である。
私たちは天使でも悪魔でもない。あるいは、天使でも悪魔でもある。
野卑な好奇心も、他人の不幸を思いやる想像力も持っているのだ。
そういう意味で、登場人物が善玉悪玉に色分けされすぎていることには、かなり不満が残ってしまった。
エレファント・マンの不幸は、彼が醜い肉体に生まれついたことと共に、インテリジェンスを持っていたことだと思う。
自分と、世間とを映し出すインテリジェンスという”鏡”を持っていたことだと思うのです。
見世物であるためには、あまりにもインテリジェントでありすぎた。
それは、見世物にも人間にもなりきれないという不幸を、背負っていたのかも知れない。
そして、エレファント・マンはやっと人間扱いされた時に、初めて自らの意志で死を選ぶのです。
それは私には、ある種、”甘美な死”に感じられた。
彼は命をかけて叫んだのだ。「私は、お化けではない。人間なのだ」と。
この、人間であるということは、彼にとっては”見果てぬ夢”だったのだ。