秋日和の紹介:1960年日本映画。自身の名作「晩春」の父娘を母娘に置き換え、結婚の問題を抱えた親子の関係を独自のスタイルで描いた小津安二郎監督の秀作。「晩春」で娘を演じた原節子が今回は母親を演じている。
監督:小津安二郎 出演:原節子(三輪秋子)、司葉子(三輪アヤ子)、佐分利信(間宮宗一)、岡田茉莉子(佐々木百合子)、中村伸郎(田口秀三)
映画「秋日和」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「秋日和」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「秋日和」解説
この解説記事には映画「秋日和」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
秋日和のネタバレあらすじ:起
東京タワーの見える麻布の寺で営まれた亡夫の七回忌の席で、未亡人の秋子は久しぶりに田口、平山、間宮といった亡夫の旧友たちと顔を合わせます。彼らは若い頃、秋子を巡って恋の鞘当てを演じた仲間なのです。秋子の娘・アヤ子もそばに控えていました。そして、彼女が未婚だと聞いたことから、その嫁入り先を世話しようという話が旧友たちの間で持ち上がります。
秋日和のネタバレあらすじ:承
田口が東大の建築科を出た大林組の若手社員を勧めるものの、妻に聞くともう結婚が決まったとの事。商事会社の常務である間宮は、部下である後藤という早稲田出身の若者を紹介しようとしますが、アヤ子は当分結婚する気がないと断ります。アヤ子としては、自分が嫁に行くと母の秋子が一人暮らしになってしまうため、そんな仕打ちが出来かねるのです。しかし、アヤ子の会社に後藤と先輩後輩の関係の人間がいたことから、縁談話とは関係なく2人は親しくなってゆきます。アヤ子が縁談を断る理由が未亡人である秋子への遠慮だと知った間宮たちは、秋子自身の再婚話も進めようとし、寡夫である平山との縁談も同時進行。まるで遊び半分のような世話の焼き方に、彼らの妻たちは呆れ顔です。
秋日和のネタバレあらすじ:転
作戦として、間宮はアヤ子を呼び出し、秋子の縁談の件を持ち出します。その結果が良ければアヤ子自身も結婚するか、と訊ねるのですが、母親の縁談など寝耳に水のアヤ子は帰宅すると秋子を責め、家を飛び出してしまいます。友だちの取りなしで、アヤ子は怒りを沈め、母親の再婚を認める気になります。そして秋子本人も平山との再婚を承諾。
秋日和の結末
2人は誤解を解き、一緒に伊香保温泉へ旅行にゆきます。布団の上に座りながら、やはり再婚するつもりはない、と秋子が告白。再婚の承諾は、アヤ子に後藤との結婚を決心させるための嘘だったのです。母の気持ちを知り、泣き出すアヤ子。その後、無事後藤とアヤ子の挙式が行われ、2人は新婚旅行へ。1人自分の部屋に残された秋子。分かっていたとは言え、やはり寂しげでした。
今回「秋日和」を鑑賞していて私が小津安二郎に傾倒し心酔する理由は、「小津映画」と「クラシック音楽」との共通性にあると言う事に気が付いた。小津監督は昭和25年に公開された「晩春」で「小津調」と呼ばれるスタイルを確立している。この小津調にこそ小津映画の魅力が凝縮しており、クラシック音楽とも相通じる「様式美」が成立するのである。ローアングルを多用した独特の撮影方法(カメラワーク)や徹底した美意識で構成される緻密で精巧な映像こそが正に様式美の極致なのである。小津映画を建築に例えるとすれば、虚飾を排してシンプルな線と面だけで構成される「数奇屋造り」の究極の美である。また「映画芸術」としてのモノクロ映像も一種独特で奥深いものがあるが、小津の晩年のカラー作品の美しさは圧倒的で他の追随を許さない。小津のカラー映像はとてもこの世のものとは思えない極楽世界であり「美の極致」なのである。我が目を癒し我が心を潤おす最高の妙薬であり良薬なのだと思う。小津作品の映像が物理的な眼球から心のフィルターを通過することで芸術を愛でる「心眼が開花」するのである。私はもっぱら、この現象を【小津マジック】とネーミングしている。映画が始まり、登場人物をカメラがローアングルで追って行く。すると、もうこれで完全に小津映画の魔術に取り込まれてしまい、鑑賞者としての自分の存在が消えて映画の中に入り込み映像と一体化するのである。小津映画の最大の魅力は繰り返し観ることで追体験する「共感と共鳴」とその先にある「至福感」なのである。そしてとことん色彩に拘る「小津美学」はこの作品でも見事に生かされている。小津が拘る「紅い色」は冒頭の紅い花のアップから始まって随所に配置されてゆく。今回驚いたのは、郵便局の本局を見下ろした映像と酒宴の席での一コマである。郵便局の発着場に深紅の郵便車両が一堂に会している情景を見て、「どうだい」っと言わんばかりの小津の拘りに改めて感心した。初老の旧友3人が酒を囲むシーンでは定番のジョニ黒ではなくて、意表を突く「ジョニ赤」が何度も登場させられていた。当然ながらこの作品でもいつも通りに小道具や調度品なども俳優の役割を担っている。繰り返される役者のセリフや俳優同士での重複(シンクロ)する所作の数々など、小津は綿密に計算を重ねた上でこの「予定調和」を実現させている。小津安二郎が嫌いな人や苦手な観客はこの徹底した様式美が耐えられないのであろう。さてこの「秋日和」でも、魅力に溢れた女優陣の共演が観る者の心をグッと鷲づかみにする。中でも原節子と司葉子の母子は男にとっては理想の組み合わせであろう。この2人を見ていると時の経つのも忘れて正に忘我の境地に陥る。この映画で原節子は齢を重ねて娘役から母親役へとポジションを変えた。丁度40歳の節目を迎えた「秋日和」で原は、積極的に「女の体臭」と「エロティシズム」を放っていた。小津は自分の作品に品格と清廉さを求めるストイックな求道者でもあるが、人間の本性にはより複雑で重層的な本音が隠されていることも事実である。間宮(佐分利信)と田口(中村伸郎)の会話が面白かった。「君は娘の方かね、それともお袋のほうかね?」「そりゃあ、俺はお袋のほうだよ」間宮と田口のやり取りに平山(北竜二)が割って入る「そんなにいいかね?」すかさず二人は「ありゃあいいよ」「あれはいい!」っとダメ押しをする。ところで原節子はこの3年後に映画界から静かに身を引くが、小津にとっても原にとっても「秋日和」の撮影は感慨深いものがあったに違いあるまい。そして風呂上がりの清潔な石鹸の香りと柑橘系の爽やかさが魅力的な司葉子の存在感。司は上品さと庶民的な親しみやすさが身上の嫌みのない稀有な女優である。更にこの映画のポイントゲッターの一人が岡田茉莉子が演じる佐々木百合子なのである。岡田はエグゼクティブの職場に乗り込んで丁々発止で直談判をする「女豪傑」を見事に演じて見せた。そして3人の親父共を実家の寿司屋に連れ込んで煙に巻く下りは何とも爽快で最高に高揚させられた。また田口の細君役の三宅邦子の和装姿も色っぽくて熟女のエロティックなフェロモンを発散していた。総括すれば小娘から大年増の器量よしが勢揃いで揃い踏みを果たしたので、これはもう男冥利に尽きるというものだ。そして女優陣も俳優たちも作品の重要な一部であるから小津はアドリブや例外を決して許さない。小津は家庭的でほのぼのとした温かさを貫く為に無駄を排したストイックさを追求するのである。まだまだ語り尽くせはしないがキリがないのでここで筆を置く。もしかしたら「秋日和」は小津映画の中で最も好きな作品なのかも知れない。どちらにせよこの「秋日和」は内外を問わず史上最高の傑作であることには間違いがない。