泥の河の紹介:1981年日本映画。戦後の匂いが残る昭和31年頃の大阪。9歳の信雄は川沿いでうどん屋をしている両親に育てられている。ある日、同い年のきっちゃんという少年に出会うのであるが、その子の家は廓舟と呼ばれるようなところで信雄にとってははじめての世界であった。人生で出会うはじめてのせつなさが痛いほど伝わってくる映画です。
監督 :小栗康平 出演:田村高廣、藤田弓子、朝原靖貴、加賀まりこ、柴田真生子、桜井稔ほか
映画「泥の河」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「泥の河」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「泥の河」解説
この解説記事には映画「泥の河」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
泥の河のネタバレあらすじ1
雨が激しく降っている。ひとりの男が馬を動かそうとするのだが、なかなか坂を上り切れない。焦れた男は前に回り、後ろに回って馬を引く。すると、雷に驚いたのか馬が暴れ荷台ともどもひっくり返りその下敷きになって馬も男も死んでしまう。そんな刺激的な場面からはじまるのであるが、昭和の匂いはどこまでもどんよりと暗い。その馬が運んでいた鉄くずを盗もうとしている少年がいた。それがきっちゃんであった。信雄はそれをみて止めようとするがなんとなく友達になってしまうのだ。信雄の家にも遊びに行くようになり、きっちゃんの姉である銀子(11歳)も信雄の両親に可愛がられるようになる。
泥の河のネタバレあらすじ2
しかし、大人たちはこの姉弟がどんなところの子かというのを知っているので、その家いは行かないようにと言うし、うどん屋の客も彼らをあざ笑うかのような態度だ。ある日、きっちゃんは自分の舟に誘う。なんともいえないはじめての場所は信雄に違う世界のあることを教える。姿はみえないが声だけの母親。信雄の両親は平凡なうどん屋の夫婦にみえるが、事情をかかえている。父親には別に家庭があり戦争から帰ってきてからの人生はスカみたいだという。それぞれに事情をかかえて大人たちは日を送り、子供たちも共に過ごす。しかし当然きっちゃんらは学校にも行かないで、ときには母親の客引きさえしているという。
泥の河のネタバレあらすじ3
そんなある日、信雄がきっちゃんの舟を訪れると、きっちゃんはいなくてはじめてその母親と対面する。その母から噴き出る汗と匂いにむせ返りそうになりながら、信雄はずっとここにいたいと思うのであった。しかし、ふいな客の出現でその世界はまた現実となる。夏祭りの日、信雄ときっちゃんは一緒にいくが、信雄はもらったおこずかいを落としてしまいがっかりした信雄を連れて舟にきっちゃんが誘う。そこで、きっちゃんは捕った蟹に火をつけてみせるのだ。炎に包まれた蟹はあちこちをはい回り川に落ちる。銀子はその蟹をなんでもないようにつまんでまた川におとすのだ。信雄は戸惑ってふと母親の窓をみると客の相手をしているその眼と合う。しっかりと信雄と視線をあわせてくる。信雄は後ずさりしてきっちゃんを探すがどこにもいない。ただその黒い影だけがみつめているようだった。信雄は響き渡るように泣く。泣きながら靴をはき、泣きながら土手をあがる。その涙はなんだったろうか。はじめて出会う悲しみ、そしてせつなさ。それからすぐにきっちゃんたちの舟はその岸をはなれる。橋の上から信雄は舟を見送り呼びつづける。いつかきっちゃんと見た大きな幻の魚がそのあとを追っていくようであった。
「泥の河」感想・レビュー
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意外にも「泥の河」は今回が初見である。私は若い頃からずっと洋画ファンだったので、私には今だに未見の日本映画が山のようにある。ところで、この作品「泥の河」は宮本輝の処女作にして小栗康平の映画監督デビュー作でもある。つまり小栗が初めてメガホンを取ったのが「泥の河」だった訳だ。後述するが、小栗が「泥の河」で初のメガホンを取ったことと、小栗が「寡作」であることが重要な意味を持っているのだ。 この作品の底流には決して拭い去ることが出来ない「罪悪感」が潜んでいる。それが「泥の河」の実体であり、そのドロドロとした「沈殿物(泥)」の正体こそが「罪悪感」そのものなのである。 晋平(田村高廣)は普段は「明朗快活」で「子煩悩」な父ではあるが、戦地での日々を回想しては「自暴自棄」に陥ってしまうのである。終戦から10年の歳月が流れていても、何とも割り切れない思い、決して拭い去れない記憶、どうしても忘れられない光景が、父:晋平の腹の底では「濁流」のようにずっと渦巻いている。晋平のこの心の「濁流」もまた「泥の河」そのものなのだ。 そして「天真爛漫」で朗らかな母の貞子(藤田弓子)もまた、晋平の前妻に対しての負い目をずうっと引きずって生きている。 また一人息子の信雄は父と母からの愛情を一身に受けて、何不自由なくのびのびと暮らしていた。ところが或る日、きっちゃんと出逢ってから信雄は心境の変化を来すのである。信雄は独りのときに「ふと」思いを巡らす。自分は貧しいながらも何不自由ない生活を送っている。でも、きっちゃんとお姉ちゃんは「泥の河」に浮かぶ閉ざされた空間(粗末な小舟の中)で息をひそめて暮らしているではないか。こうして信雄にもまた、どうしても割り切れない思いと、名状し難き「罪悪感」が込み上げて来るのであった。 そしてきっちゃん(喜一少年)もお姉ちゃんの銀子も、日々鬱々として「厭世観」に支配され「絶望感」に苛まれていたのである。きっちゃんも銀子姉ちゃんも、学校に通えない「寂寥感」、友達がつくれない「孤独感」、陸上での生活がままならない「閉塞感」、などなど「重層的」なハンデとギャップに苦悩していたのである。それらの忌まわしき「負の情念」に翻弄されているからこそ、きっちゃんも銀子姉ちゃんも後ろめたさや気後れと言う名状し難き「罪悪感」に苛まれていたのである。 そしてこの映画の中でひときわ異彩を放っているのが、喜一と銀子の母親の松本笙子(加賀まりこ)である。笙子が登場する場面も時間も非常に限られてはいたが、その妖艶で獣(女鹿)のような鮮烈なビジュアルイメージには圧倒された。小舟の狭小なスペース(魔法の部屋)に収まっていて浮世離れした「仙女」或いは「魔女」。信雄が笙子に呼ばれて小部屋に入るシーンはスリリングでゾクっと来た。入って来た幼い信雄の顔をじっと見つめる加賀まりこの「バンビ」のような眼(まなこ)が全てを語っていた。笙子のその目をみて、もうこれ以上の言葉も説明も不要だと思った。笙子が居る魔法の小部屋では、下界とはかけ離れた別の時間が流れていたのである。そして笙子の着物姿の抜き襟から立ち上がるうなじのラインが堪らない。それでふと、芳ばしい香りを放つ女を詠んだ北原白秋の詩を想い出した。きっと加賀まりこ(笙子)のうなじからは、白檀のかほりが仄かに漂っていたに違いあるまい。 この映画の主要人物の信雄と喜一と銀子の3人の子供たちが暗い。殊のほかとても暗いのである。それはそうだろう、3人が3人共に「罪悪感」という影を引きずっているから暗いのだ。 登場人物の内面や「深層心理」は別として、この映画では人肌の温もりや人情の機微の妙趣がありありと描かれている。 手品を通して子煩悩な晋平がきっちゃんに見せる優しい人柄。 銀子と一緒に風呂場で背中を流し合う貞子の豊かなる母性。 泥で汚れた信雄のシューズを洗ってやる銀子の思いやり。 3本のラムネ飲料をそっと持ってゆく信雄の機転。 遊びにおいでと気さくに誘うきっちゃんの屈託のない笑顔。 その「顔」と「顔」と「顔」と「裸の背中」と「裸の背中」が笑っている、みんなが至福感に満ちた満面の笑みを浮かべて大いに笑っているのである。 もしも「泥の河」を黒澤明が撮ったなら、いったいどんな映画になっただろう。或いは木下恵介だったらどういう風に描いたであろう。などとふと考えながら「泥の河」を観ていた。しかしこの映画は黒澤(巨匠)でも木下(天才的職人)でもなく、当時はまだ新人だった小栗康平が正々堂々と真正面から取り組んだ「渾身の力作」なのである。小栗の「泥の河」には匠の技も職人芸もないが、純粋な人間愛と真っ直ぐな志と決して「折れない魂」がある。つまり、キャリアや技量だけでは到達できない世界があったのだ。これらのことが重なって「泥の河」という映画に数々の奇蹟をもたらすことになる。3人もの「稀代の名子役」に恵まれたこと。その出逢いが「一期一会」であったこと。更に「子役の熱演」は小栗康平でしか成し得なかったことも「重要な奇蹟」の一つなのである。また田村高廣も藤田弓子もその持ち味を十分に発揮していたし脇役の俳優女優たちも皆いい仕事をしていた。結果として「泥の河」という映画は、「天の恩寵」と映画の「神の恩恵」を受けた「奇蹟の作品」となった。 ところで、私は無類の子供好きであり、幼児をあやしたり子供と一緒に遊んだりするのが「特技」の一つである。子供らと膝を交えて心が触れ合う時には大人もふと「童心」に帰る。「人間愛」など、「慈愛に満ちた」この映画の「手作り感」と誠実なスタンスが、私の「人生観」や「価値観」や「世界観」とも合致するのである。 そして、最後に最も印象に残ったシーンと、ひとりの人物を挙げて結びとしたい。私には藤田弓子(貞子)と柴田真生子(銀子)の「入浴シーン」が最高に眩しかった。貞子の豊満な「裸体」は大らかな「母性」そのものであり、銀子の華奢な肢体を受け留める「観音菩薩」そのものでもあった。そして、貞子と銀子の「裸の肌」のふれあいは「神聖なる後光」が差して涙が出るほどの「感銘」を受けた。それは、娘が欲しいと言う貞子のささやかな願望と「慈愛」の精神(ホスピタリティ)がもたらせた「奇蹟の瞬間」なのであった。 そして私には銀子の眼が、瞳が、その眼差しが忘れられないのである。俯き加減にして、「きっ!」と見据える複雑なニュアンスの眼差し。寂しく悲し気でな眼差し。恰も「達観」したかのような瞳の輝きと立ち居振舞い。恥ずかしそうにはにかんでみせるその笑顔。それらの全てが銀子の「一途で健気」な生きざまを、そして「純真」な少女というものの本質を見事に体現していたのである。自分の(人間の)価値や評価は他人が決めるものではない。自分の価値は自分が決定するものなのである。銀子は繊細で脆弱だが、銀子には誰のものでもない、「凛とした品格」が備わっていた。銀子はまだ11歳の幼い少女ではあるが、彼女には決して大人にも負けない「不屈の魂」が宿っていたのである。この「高貴で高潔な少女像」がこの映画での最大の「収穫」なのであった。名作映画「泥の河」では色々と教えられることが多く、またひとつ、人間的に成長するためのヒントと糧を与えられた。このような詩情に溢れた稀有な「人類の傑作」に出逢えたことを、私は「映画の神様」に心から感謝したいと思っている。
この作品は、宮本輝先生の、太宰治賞を受賞した小説の映画化だ。
舞台は昭和31年の大阪。
画面は全編白黒で、それがまだ貧しかった日本の、みすぼらしい時代感覚を映し出しながらも、非常に上質で美しい。
物語は、川辺でうどん屋を営む家の1人息子の信雄と、そのすぐ近くの岸に繋いだ小舟で生活するきっちゃんと、その姉の銀子との交流と別れを描いた、心に染み入る名作である。
まだこれから原作を読むという方もいらっしゃるだろうから、細かく物語に触れることは避けるが、映画の中で、列車に乗っている信雄の父親(田村高廣)が見ている新聞に、『もはや戦後ではない』という見出しが載っているのが、この映画のテーマを象徴していると思う。
信雄がきっちゃんと姉の銀子と仲良くなったあと、信雄の両親は2人をあたたかくもてなすが、父親は信雄に、夜はあの舟に行ったらあかんで、と釘を刺す。
それがなぜかはここには書かない。是非原作を読んでいただきたい。
ひとつだけ、特に注目したいカットがある。
最後のほうで、きっちゃんの舟が岸を離れた頃、父親が信雄をじっと見ると、信雄は自分が見たものを悟られまいとするように、そっと目をそらす、というカットだ。
私はそれまで、外国映画でこういうカットを見たことがないように思う。
日本映画らしい名場面だと思う。
ラストは、しみじみと、身につまされるような感動が湧いてくる、実に立派な映画だった。
まだご覧になってない方は是非ご覧になって、原作とも比較してみてはいかがだろうか。
きっと、何か発見するものがあるはずだから。