太陽がいっぱいの紹介:1960年フランス,イタリア映画。アラン・ドロン出演、ルネ・クレマン監督の代表作で、パトリシア・ハイスミスの小説を映像化したサスペンス。イタリアに金持ちの道楽息子を連れ戻すためにやって来た貧しい青年が、激情に駆られ、ある犯罪を思い立つ様子を描く。
監督:ルネ・クレマン 出演:アラン・ドロン(トム・リプレー)、マリー・ラフォレ(マルジュ・デュヴァル)、モーリス・ロネ(フィリップ・グリーンリーフ)、エルノ・クリサ(リコルディ)、ビル・カーンズ(フレディ・マイルズ)、フランク・ラティモア(オブライエン)、ほか
映画「太陽がいっぱい」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「太陽がいっぱい」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「太陽がいっぱい」解説
この解説記事には映画「太陽がいっぱい」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
太陽がいっぱいのネタバレあらすじ:起
イタリア、ローマのカフェで話し込んでいるアメリカ人大富豪の息子フィリップ・グリーンリーフ(モーリス・ロネ)と彼の幼馴染みで貧しい青年のトム・ リプリー(アラン・ドロン)。トムはフィリップの父親から、イタリアで気ままに遊び暮らしている息子をアメリカに連れ戻すように報酬条件付きで依頼されていました。
それを知ってフィリップは、貧乏なトムを完全に馬鹿にし、付き人のように彼を従えて傍若無人に振る舞います。一方でトムは苦労知らずで尊大、決して素行が良いとも言えないフィリップを心の中で見下しているのでした。
ある日、息子を連れ戻せない事に痺れを切らしたフィリップの父から契約を打ち切ると書かれた手紙を受け取ったトム。手持ちの資金も底をつき、フィリップと行動を共にせざるを得ないトムですが、日に日にフィリップへの嫉妬と憎しみが募っていきます。
フィリップにはモンジベッロでフラ・アンジェリコの研究をしている婚約者のマルジュ(マリー・ラフォレ)がいますが、マルジュはフィリップがトムと遊び歩いてばかりで、自分をないがしろにしていると感じてすねていました。フィリップはマルジュをおだてて機嫌を取り、トムの目の前で彼女を愛撫し始めます。邪険に追い払われたトムはフィリップの服や靴を身に付け、フィリップの口真似をして時間を潰します。
自分にはけっして手の届かない高価な衣類、そして美しい婚約者…トムの心にフィリップに対する黒い感情が芽生え始めるのでした。
太陽がいっぱいのネタバレあらすじ:承
フィリップ、マルジュ、トムの三人はフィリップの持つクルーザー“マルジュ号”でタオルミナを目指してセイリングに出かけます。貧しい家庭の出身であるトムはクルーザー内では靴を脱ぐなどの基本的なマナーも知らず、ロープの扱いも上手くできません。食事を取る時も上品にやろうとして逆にもたついてしまいます。それをいちいち見咎めて馬鹿にするフィリップ。マルジュはフィリップをたしなめますが、彼は意に介しません。
マルジュと二人きりになりたいフィリップは、トムをクルーザーに繋がった小型ボートに追いやり、マルジュとの情事を楽しみます。その後のんびりと甲板に上がりボートを手繰り寄せようとしたフィリップはボートを曳航していたロープが切れているのに気がつきました。
さすがに慌ててトムを捜しに引き返しましたが、炎天下の中、日光を遮ることも出来ずに太陽に晒され続けたトムは背中じゅうに火傷並みの日焼けを負い、水分を摂れなかったために熱中症で意識を失っていました。フィリップとマルジュの介抱で何とか回復したものの、トムはフィリップへの憎しみを更に募らせます。
マルジュもフィリップのトムへの態度には賛成しかねているものの、フィリップに恋しているため、タオルミナからは自分達と別れて一人で帰ってくれるようトムに頼みます。嫉妬と屈辱に苛まれるトム。そんな中、フィリップはトムの手荷物の中に自分の口座の明細書を見つけます。トムはもしや自分の財産と命を本気で狙っているのでは?という疑念がフィリップの中に沸き起こりました。
船内には険悪な雰囲気が立ち込めます。更にトムがフィリップのポケットに忍ばせたマルジュ以外の女性のイヤリングで、カップルの間にも亀裂が入ります。マルジュの執筆中の原稿をフィリップが海に捨てたことで、この亀裂が決定的となりマルジュは近くの港でで一人船を降ります。
モンジベッロへの帰途に着いたフィリップとトムは互いの腹を探り合いながらトランプ遊びに興じます。何とかトムの機嫌を取ろうとするフィリップですが、トムの決意は既に固まっていました。トムはフィリップの胸にナイフを突き立て、その遺骸を帆布に包んで海に沈めました。
太陽がいっぱいのネタバレあらすじ:転
モンジベッロへ戻ったトムは、フィリップとよりを戻そうと待っていたマルジュに彼は別の女の所へ行ったと告げて絶望させる一方で、フィリップになりすまし彼の財産を手に入れる計画を実行に移します。
彼そっくりのサインをする練習をし、フィリップの身分証明を偽造、彼の声色も練習し、フィリップになりすます計画は進んでいきました。フィリップの身を案じるマルジュには、タイプライターで打った偽のフィリップからの手紙を渡し、何とかやり過ごします。
しかし身元を偽って泊まっていたホテルにフィリップの友人のフレディ(ビル・カーンズ)が訪ねて来ます。フレディはトムがフィリップになりすましている事に気がつき、トムを問い詰めます。トムはフレディを撲り殺してしまいました。
トムはフレディの死体をホテルから苦労の末、運び出し破棄しましたがすぐに発見されます。警察が動き出しました。やっとのことでホテルから逃げ出したものの、フィリップとしての生活に限界を感じたトムは「フレディを殺害した。財産は全てマルジュに残し、自分は自殺する。」というフィリップの偽の遺書を作り、フィリップが姿を消したようにみせかけ、フィリップの両親やマルジュを騙すことに成功しました。
恋人を失い絶望するマルジュにトムは言い寄ります。優しく親身になり徐々にマルジュの気持ちはトムに傾きとうとう二人は結ばれます。ついにトムはフィリップの財産も婚約者であったマルジュも手に入れたのでした。
太陽がいっぱいの結末
バカンスを楽しむトムとマルジュ。トムは全てを手に入れました。フィリップの遺産の一部としてマルジュに譲られた例のクルーザーを彼女は手放すことにしました。手続きのために業者と話をしに行くマルジュ。ビーチに一人残ったトムは幸福を噛み締めて、売店の従業員に言います。「太陽がいっぱいだ」と。
その頃、業者の立ち会いの下、点検のために引き上げられたクルーザーは何やら大きな包みのようなものを引きずって陸に上がってきました。隙間から覗く腐敗した人間の腕…トムが海に沈めたはずのフィリップの死体は船に引っ掛かっていたのです。マルジュの悲鳴が辺りに響き渡ります。
そんなことはまるで知らないトム。売店の従業員が彼に電話があると告げる呼び声に笑顔で答え、売店へ向かいます。売店には刑事達が待ち構えているとも知らずに。
以上、映画「太陽がいっぱい」のあらすじと結末でした。
「太陽がいっぱい」感想・レビュー
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アラン・ドロン以外は考えらない作品ですね。
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この映画「太陽がいっぱい」は、映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいえる名作だと思います。
この映画「太陽がいっぱい」は、原作がパトリシア・ハイスミスで、彼女の長編第一作がアルフレッド・ヒッチコックによって映画化された「見知らぬ乗客」で、1956年に「太陽がいっぱい」を発表しました。
このトム・リプリーを主人公とする小説は、”太陽がいっぱい”の後、”贋作”、”アメリカの友人”、”リプリーをまねた少年”、”死者と踊るリプリー”と計5部作とシリーズ化されました。
第3作目の”アメリカの友人”は、1977年に鬼才ヴィム・ヴェンダース監督によって、デニス・ホッパー主演にて映画化されています。
パトリシア・ハイスミスといえば、最近では映画「キャロル」の原作者としても有名な作家ですね。
アラン・ドロン演じるトム・リプリーという野望に燃える青年が、南フランスを舞台にして行なった無計画な殺人を描いた、倒叙形式のミステリーで、この小説を「禁じられた遊び」、「居酒屋」のフランスの名匠、ルネ・クレマン監督が映画化した映画史に長く残る青春映画、サスペンス映画の金字塔ともいうべき名作ですね。
パトリシア・ハイスミスの小説は、文章が巧緻で、サスペンスに満ち溢れていて、ストーリー性にも富んでいますが、少し才走り過ぎている上に、推理自体の骨格がどうも弱過ぎると思っています。
この彼女の原作を下敷きにして、”貧しく、育ちも悪く、劣等感にさいなまれている野心的な青年”の完全犯罪と、その破綻といった形で”青春映画の傑作”を撮ったのがルネ・クレマンで、原作のラストでは主人公のトム・リプリーはまんまと逃げて、続編の小説では裕福なフランス人と結婚したりして、悠々自適の生活を謳歌しますが、この映画では、もう映画ファンなら、すでにご承知のように、ラストでの衝撃的で、鮮やかなドンデン返しとなり、原作と全く違ったラストにしていて、それが結果的にこの映画を成功させ、映画史に長く残る永遠の青春映画であり、サスペンス映画たらしめていると思います。
ストーリー自体は極めてシンプルです。
金持ちのアメリカ人青年がいる。
フィリップ(モーリス・ロネ)といい、彼は大金持ちの息子で、ローマを中心に南ヨーロッパで遊び呆けている。彼にはマルジュ(マリー・ラフォレ)という恋人がいる。
このフィリップを、アメリカに連れ戻しに来た青年がトム・リプリー。トムはフィリップのかつての友人で、彼をアメリカに連れ戻す事を彼の父親に依頼されて、ローマにやって来ます。
成功報酬は5万ドルという条件で——–。だが、フィリップは、トムをまるで召使いのように扱い、トムの目の前で、これみよがしにマルジュといちゃついたりします。
その内に、報償契約を打ち切るという通告がアメリカから届きます。トムの胸に激しい怒りと嫉妬と屈辱感が渦巻き、それは、やがて殺意へと変質していきます。
フィリップを殺して、自分がフィリップになり澄まそうとする底意を秘めた殺意です。これらのトム・リプリーという複雑で屈折した若者像を、アラン・ドロンは、”妖しく悪魔的な魅力を発散させ、フィリップに媚びるような上目遣いの仕草や、育ちの悪さを漂わせた、下卑た煙草の咥えかた、マルジュに対する自分の魅力を背伸びして、最大限に示そうとする時の流し目”など、計算高く、野心的な若者を鮮烈に演じ切っていて、ここに世紀の大スター、アラン・ドロンが誕生したのだと思います。
この映画の大成功の大半は、主人公のトムを演じたアラン・ドロンの功績だと思いますが、彼は幼い時に父親を失くし、孤独な少年時代を送った事は良く知られていて、母親の再婚相手にもなじめず、中等教育を終えると17歳で志願して軍隊に入隊し、インドシナ戦線に従軍した後、映画俳優になったという経歴の持ち主です。
典型的な二枚目俳優でありながら、アラン・ドロンには、何故かフランスの暗黒街との関係が常に取り沙汰され、政財界の暗部に絡むマルコヴィッチ事件で、殺人容疑を受けた事もありました。
研ぎ澄まされた、鋭利な刃物を思わせる彼の美貌の裏側には、実生活の上での犯罪組織との繋がりも指摘されている俳優ですが、そういった暗くて謎めいた部分が、アラン・ドロンという20世紀を代表する世紀の二枚目俳優の美貌に、独特の陰影と翳りを加え、この「太陽がいっぱい」での彼の演技に、妙なリアリティを与えているような気がします。
映画の冒頭に近いシーンに、映画史に残る名シーンとして名高い、この殺人計画の重要な伏線ともなる見事な描写があります。
「フィリップの部屋へトムがだまって、ギターを持って入って来る。
数個のトランクが開け放しのまま放り出され、贅沢な衣類が散乱している。
ギターを放り出し、トランクの前にトムは座り込み、”素敵だ”と白い靴下を見つけて履いてみる。床に寝転んで白い靴下を履いた足を真っすぐに上げてみる。
起き上がって、椅子に投げ出してあった上着を着て、ネクタイを締め、三面鏡の前に膝をついてにじり寄り、髪の毛をフィリップのように横に分け、額にかける。フイリップの声を真似て、鏡の中の自分に向かって、僕のマルジュ、僕のアミ、僕の恋人と陶酔し切った表情になるトム—-彼女は僕が愛している事を知っている。
鏡にキスして、マルジュへの恋は僕を盲目にする。
そのように恍惚の表情をトムが浮かべている時に突然の鞭の音——-。
トムははっとして立ち上がる。手に鞭を持ったフィリップが入って来て、険しい表情でトムを睨む。するとフィリップは命令するように、その服を脱げ!とトムに言うと、トムは額の髪を掻き揚げ、おずおずと、ふざけていたんだ」という名シーンです。
ここに描かれたフィリップとトムの関係が、この映画の全てを物語っています。
金持ちの残酷さの象徴としての鞭。
金持ちになりたいという、屈折した貧しい若者の変身願望と鏡に向かってキスをするナルシシズム——-。ここでは、二人の間に友情というものが成り立つわけなどない事を簡潔に、また象徴的に描いていると思います。
尚、生涯、映画を愛してやまなかった映画の伝道師とも言うべき、映画評論家の淀川長治さんは、この有名なシーンというのは、監督のルネ・クレマンが、トムのフィリップへの複雑で屈折した”同性愛的な感情”を暗示するシーンとして演出していると、映画的文法から深読みして解釈されていましたが、それも、ある意味一つの見識だろうと思います。
トムは、やがてフィリップをヨット上で殺し、死体をロープで縛り、重しを付けて海へ捨てます。そして、トムはフィリップになり澄ますために、フィリップのサインの筆跡を真似ると共に、身分証明書の写真も貼り替えます。
その上、フィリップの友人が訪ねて来ると、この男を殺し、フィリップの仕業に見せかけます。
それだけにとどまらず、フィリップは、この友人を殺した事を悩んで自殺したかのように見せかけ、フィリップの遺書を偽造します。トムの完全犯罪は、見事に成功したかのようにみえたのだが——–。
かつて、探偵作家の江戸川乱歩は、彼の”変身願望”というエッセイの中で、「人間は、あるがままの自分に満足せず、人間がいかに他人に化けるかという事に心を砕き、それが犯罪の動機に結びつきやすいか」とトリックの一つになると語っていましたが、「太陽がいっぱい」は、そのトリックを駆使して、大胆にストーリーテリングを進め、いわゆる”倒叙形式のミステリー”の傑作を作り上げたのだと思います。
そして、作品の主な舞台を海にした事も、この映画の成功の大きな要因になっているとも思います。
“青春の揺れ動く心をそのまま写し取ったかのような波”を、カメラは執拗にとらえていきます。“希望と絶望、不安と期待、友情と憎悪”——-。
矛盾し、相反する二つのものが、激しくせめぎ合っている、野心的な若者の心の内側を正確に切り取ったかのように、カメラは荒々しく波立つ海を、克明に映し出します。
この映画の撮影監督は、今や伝説的な名カメラマンのアンリ・ドカエ。
「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)のカメラマンですが、ヌーベル・ヴァーグの代表的なカメラマンを起用したあたりに、ルネ・クレマン監督の野心があったのだと思います。ヌーベル・ヴァーグより一世代前に、すでに巨匠の地位にあったルネ・クレマンは、今更、若い監督たちに対抗意識を持つ必要もなかったとは思いますが、ヌーベル・ヴァーグに対する、彼なりの一種の挑戦状のつもりでこの映画を撮ったに違いありません。
そして、忘れてはならないのは、「ゴッドファーザー」(フランシス・F・コッポラ監督)でも有名な世界的な音楽家のニーノ・ロータによる、揺れ動く青春の”希望と絶望”、”不安と期待”、”友情と憎悪”を、哀愁を帯びた旋律で奏でるテーマ曲。
永遠に心に残る名曲として、このメロディを聴くたびに、永遠の青春像であるトム・リプリーの姿が、アラン・ドロンの姿と二重写しになって、鮮やかに私の脳裏に甦って来ます。
そして、この映画の白眉ともいえる、ラストの衝撃的で鮮烈なドンデン返し。
トムが偽造したフィリップの遺書では、全財産は恋人だったマルジュに贈ると書かれています。
マルジュに接近したトムは、密かに愛の告白をします。
マルジュは、やがてトムの告白を受け入れます。貧しい若者が、密かに夢みていた財産と美しい女は手に入った。
若者の頭上には、今、”太陽がいっぱい”輝いています。
正しく、トムにとって人生最高の時を迎えようとしていました。フィリップのヨットは売却される事になり、船体検査のため、陸に引き揚げられる事になります。
みんなが見守る中で、スクリューに絡んだ長いロープが、ずるずると海面上に姿を現わし、その先にはフィリップの死体が絡みついていた——–。これからも、ずっと永遠に語り継がれるであろう、衝撃的なラストシーン——、見事の一語に尽きます。
まず言えば、これほど何から何まで美しい映画は稀だろうということ、しかもこれは殺人の映画なのだということだ。
人を、殺すのである。それも2人も。
主人公の貧しい青年トムを演じるのは、当時24歳のアラン・ドロン。恐るべき美貌である。
そしてそのトムの友人フィリィップをモーリス・ロネ、フィリィップの恋人マルジュをマリー・ラフォレが演じているが、この2人も実に美貌である。
トムは、ヨットで地中海で遊び回るフィリィップをアメリカに連れ戻せば、彼の父親から多大な報酬を受け取る約束になっている。
しかし、トムはフィリィップやマルジュと一緒に遊び回るうち、自分を蔑むフィリィップを殺し、何もかも手に入れてやろうと思うようになる。
トムはヨットの上でフィリィップの胸にナイフを突き立て、死体を海に捨てるとフィリィップのサインを真似、声まで真似てフィリィップになりすます。
トムは自分の行動を怪しんだフィリィップの友人フレディまで殴り殺し、なんとか警察もごまかし、ついには美しいマルジュも手に入れて、全財産をマルジュに譲るというフィリィップの遺書を偽造し、と、こうしたサスペンスがこの映画の見所なのだ、が、しかし、この映画の本当の魅力はそのサスペンスだけではない。
美しい地中海や、イタリアの街や市場の情景なども主役の1つだし、なんと言っても、ニーノ・ロータという作曲家の、甘美な、どこか愁いをたたえた不朽の名曲があってこそ、この映画は大成功したのだと思う。
「太陽がいっぱい」とは、つくづくいい題名をつけたものだと思う。この映画の構成要素全てに、太陽のような眩しさが溢れている。
主役のアラン・ドロンを「恐るべき美貌」と書いたが、恐るべきというのは、彼が長年右に出る者がいない2枚目俳優として活躍できたのは、まさにこの時の美貌あってこそと思うからである。
「太陽がいっぱい」がなかったら、「アラン・ドロン」という大スターもいなかったかもしれない。
「太陽がいっぱい」はサスペンス映画である。しかし、それ以上に観客の心をとろけさせる甘い魅力に満ちていた。
そういう映画もあったということだ。