盲獣の紹介:1969年日本映画。江戸川乱歩の原作を増村保造監督、白坂依志夫脚本で映画化。実質三人のみの登場人物の間の愛憎を描く。巨大な女体の模型等、主人公の男の歪んだ欲望を具現したような映画美術に注目。
監督:増村保造 出演者:船越英二(蘇父道夫)、緑魔子(島アキ)、千石規子(蘇父しの)、ほか
映画「盲獣」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「盲獣」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「盲獣」解説
この解説記事には映画「盲獣」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
盲獣のネタバレあらすじ:起・誘拐
モデルの島アキのヌード写真を展示した、写真家の個展が評判になる。その会場でアキは、奇妙な男が、アキをモデルにして写真家の友人が作った彫刻をなめまわすように撫でるのを見る。気持ち悪くなって会場から彼女は立ち去る。数日後、同じ写真家の仕事をして疲れ切って帰宅したアキはマッサージを依頼する。初めてのマッサージ師が来る。彼の仕事ぶりが不快で、帰るようにアキは言うが、男の黒眼鏡が外れた時にそれが先日の個展会場の奇妙な男であることがわかる。しかし、アキはクロロホルムを嗅され、男と部屋の外で待っていた彼の母親とによって誘拐される。
盲獣のネタバレあらすじ:承・異様なアトリエ
アキが目覚めた部屋は、その男、蘇父道夫の「アトリエ」だった。生まれつき目の見えない彼にとって、触覚の快楽が最大の喜びであり、中でも女体の手触りが最高であった。マッサージ師をした後、亡父の土地が売れて大金の入った彼は、目、口、鼻、乳、手、足等の女体のパーツの巨大な彫刻を作って壁にはめこむアトリエを作ったのだった。そしてアキこそ彼の探し求めていた最高の女体であり、彼はアキに彼女をモデルにした彫刻、触覚の芸術の完成までこのアトリエにいることを求める。アキはそれを拒否し、ゴムでできた巨大な女体の上を逃げ惑うが、結局捕まえられる。またもクロロホルムを嗅がせられる。
盲獣のネタバレあらすじ:転・逃亡の試みと失敗
翌朝、道夫の母、しのの用意する朝食こそ断ったが、アキはモデルを引き受ける。しかし、仮病で腹痛だと言い、すきを見て逃げようとする。もっとも、しのが買い物からちょうど帰ってきたために逃亡に失敗する。アキは方針を変えて、道夫の触覚の芸術に理解を示すとともに、しのの前で道夫と仲良くする。それは息子を独占していたいしのの嫉妬を誘い、雪の降る夜、しのはこっそりアキを逃がそうとする。だが、道夫に気づかれてしまう。盲人のお前を愛する女などいないと言うしのと道夫はけんかになり、しのは壁に頭をぶつけて死んでしまう。アキは逃げようとするが、道夫につかまってしまう。道夫はアキを力づくで犯し、男になる。
盲獣の結末:触覚のよろこび
二人は朝に昼にセックスを続ける。やがてアキは道夫を愛するようになってくる。そしてそれにつれて彼女も視力を失っていった。二人は触覚のよろこびに溺れる。だが、そのよろこびには際限がなかった。より強い刺激を二人は求める。お互いの体を噛みあい、叩き合う。やがて器具を使って苛み合う。とうとうナイフで互いの体を傷つけ血をすすりあうようになる。衰弱する二人は死期の近いことを悟る。アキは道夫に自分の手足を切り取ることを要求する。痛みと共に究極の触覚のよろこびが得られるはずだ。道夫は包丁と木槌を使ってアキの四肢を切断する。そして最後に自分の胸に包丁を突き刺す。
「盲獣」は誠に画期的な素晴らしい作品である。これぞ「江戸川文学」の真骨頂、これこそ「耽美ズム」(耽美主義を文字った私の造語)の極致ではないかと私は思う。冒頭のシーンではモノクロのヌード写真の数々が画面いっぱいに映し出される。60年代~70年代にかけてのヌード写真はどこか浮世離れしたストイックな藝術作品であり、抽象的でシンボリックな一種の「トルソー」(或いはオブジェ)のようなものだった。それが80年代に入ると「写真時代」というアダルト雑誌の登場と共にガラッと変わってしまう。生活臭が漂う「赤裸々なヌード写真」が脚光を浴びるようになったからだ。その場の中心にいたのが「アラーキー」こと荒木経惟である。だからこの「1969年の映画」は、「ヌード」イコール「藝術作品」といった条件反射の下に(もとに)創作された「耽美ズム」の極致なのである。ヌード写真というものは非日常的な所にこそ「エロティック」な魅力がある。 家風呂が完成する小学3年生の「夏休み」(1968年)まで私は母と一緒に「銭湯の女風呂」に入っていた。銭湯では女の裸には違和感もなかったし興味もなかった。しかし近所の散髪屋で初めてヌード雑誌を見た時(小学2年生の1967年)には随分と感動した。銭湯の女風呂で見る全裸の女性は日常風景であり、ヌード雑誌で見る女性の裸体は非日常の「桃源郷」であったわけである。このヌード写真が持つ魔力に私が打ちのめされてから今年で55年目を迎える。時にアナーキーで危険な香りを放つ偉大なる「ヌード写真」のヒリヒリするような感覚が堪らないのである。 アトリエに並ぶ女体を形どった巨大なパーツの数々は「オブジェ」そのものである。しかし生きている生身の人体はオブジェ(物体)ではない。「生命とは現象」であり流れそのものである。人体(生命)は川の流れのようなものなので、静的な物体では決してあり得ないのである。人間が死ねばその瞬間に生命の流れ(生現象)が止まって、死体と言う物体(オブジェ)に様変わりするのである。蘇父道夫(船越英二)は典型的な「性的倒錯者」である。彼は一種のネクロフィリア(死体愛好家)ではないかと思う。個展会場で彫刻を撫でまわす女体への異常な執念と、恍惚感に満ちた異様な目つきは尋常ではない。女にクロロホルムを嗅がせて無抵抗にした段階で、これは立派な「ネクロフィリア」:「性的倒錯者」なのである。また蘇父道夫は倉庫を改造して自分のアトリエにしている。このアトリエが一つの世界を形成していて、言わばこれは「小宇宙」であり、具体的には「女の胎内」(子宮の内部)なのである。女性の「卵巣」自らが歯や毛髪などのパーツを作り出すように、このアトリエからは女の手や足や胴体などが無数に作り出されている。本物の死体をコレクションすることは無理なので、この男は実在する女の身体をコピーした精巧なオブジェを収集しているのだ。だからこの男は筋金入りの「ネクロフィリア」なのである。 ヌードモデルの役を演じた緑魔子は「脱ぎっぷりのよい女優」「アングラ劇団を立ち上げた反骨の女優」と言うイメージがある。華奢な身体に大きな瞳の「小悪魔」と言ってもよかろう。また緑魔子は陰がある「薄幸そうな女」なので、駆け出しのヌードモデルという役どころはピッタリである。 この映画はフェリーニの「女の都」やベルトラン・ブリエの「Calmos」を彷彿させる「エッジが効いた作品」に仕上がっている。このような夢と現実が錯綜するシュールな世界を具現化した増村保造には敬意を表するしかあるまい。「フェミニズム」だの「LGBTQ」などがもてはやされる現代において、女体や女体のパーツに拘った映画などは到底作れまい。そもそも擦れっ枯らしで空疎な世の中においては「耽美主義」などは受け入れられないのである。 この映画の主人公である全盲の蘇父道夫(船越英二)という男は、女体に巣食う「寄生虫」なのである。彼は新たなる「宿主」を求めて女体から女体へと渡り歩く定めなのだ。そして遂に「島アキ」という「理想郷」に辿り着き自分の死に場所(安住の地)を確保すると言う「哀しくも可笑しい」物語なのである。増村保造による「シュールレアリスム」の造形美(女体のオブジェ)が最大の見所である。