山猫の紹介:1963年イタリア,フランス映画。イタリア貴族の子孫であるジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの同名小説を、同じくイタリア貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ監督が映画化した歴史ドラマで、第16回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞した大作です。1860年代のイタリア統一革命に揺れるシチリアを舞台に、没落の一途を辿る貴族と野心的な甥の対照的な生き方を描いていきます。
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 出演:バート・ランカスター(サリーナ公爵ドン・ファブリツィオ・コルベーラ)、アラン・ドロン(タンクレーディ・ファルコネリ)、クラウディア・カルディナーレ(アンジェリカ・セダーラ)、パオロ・ストッパ(ドン・カロージェロ・セダーラ)、ジュリアーノ・ジェンマ(ガルバルディ軍将軍)、マリオ・ジロッティ(カヴリアーギ伯爵)、セルジュ・レジアニ(チッチョ)、ロモロ・ヴァリ(ピローネ神父)、リナ・モレリ(マリア・ステラ(サリーナ公爵夫人))ほか
映画「山猫」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「山猫」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
山猫の予告編 動画
映画「山猫」解説
この解説記事には映画「山猫」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
山猫のネタバレあらすじ:起
1860年、イタリアはジュゼッペ・ガリバルディ率いる“赤シャツ隊”がイタリア統一のため闘争を繰り広げていた時代。13世紀から代々受け継がれてきたシチリアの名家の現当主で“山猫”の紋章を持つサリーナ公爵のドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)はパレルモ近郊の屋敷で家族と共に暮らしていました。
ある日、ファブリツィオはお抱えのピローネ神父(ロモロ・ヴァリ)と共に神に祈りを捧げていた時も屋敷のすぐそばまで戦禍が広がっており、一足早くイギリスへ疎開したという友人のマルヴィーカ公爵から疎開を勧められる手紙が届いていました。手紙を見るなり、ファブリツィオは思わず「腰抜け!」と怒りを露わにしました。しかし、それでもファブリツィオは夫人のマリア・ステラ(リナ・モレリ)を差し置いて暴徒が蔓延るパレルモの街へ出かけ、愛人の元へと向かっていきました。
翌日、ファブリツィオの甥で野心的なタンクレーディ(アラン・ドロン)は叔父の元を訪れ、赤シャツ隊に参加すると告げてきました。これまで先祖代々この地を治めてきたナポリ王国に恩義を感じるファブリツィオは戸惑いを見せるも、甥のためにと軍資金替わりとして宝石を手渡しました。タンクレーディに思いを寄せるファブリツィオの娘コンセッタ(ルッチラ・モルラッキ)の心配をよそに、タンクレーディは赤シャツ隊に合流するため屋敷を離れていきました。
山猫のネタバレあらすじ:承
戦闘はますます激化、ファブリツィオは家族やピローネ神父たちと共に別荘のあるパレルモ近郊のドンナ・フガータへと出発しました。途中の検問所で一行は止められますが、片目を負傷しながらも生き延びていたタンクレーディの差し金によって一行は検問を潜り抜けることができました。
ドンナ・フガータへ到着したファブリツィオ一行は市長ドン・カロージェロ・セダーラ(パオロ・ストッパ)らの歓迎を受け、晩餐会に招待されることとなりましたが、直前にファブリツィオはピローネ神父からコンセッタがタンクレーディに想いを寄せていることを初めて知らされました。しかし、ファブリツィオはタンクレーディの野望を叶えるためには娘では不相応だと考えていました。そして晩餐会でファブリツィオはセダーラの娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)を紹介されましたが、彼女は妖艶ながらも場違いの挑発的な態度を取り、ファブリツィオらは機嫌を悪くして晩餐会をお開きにしてしまいます。ところが、アンジェリカはタンクレーディの戦争話に興味を示すと、コンセッタを差し置いてタンクレーディと惹かれあっていきました。
やがてシチリアはイタリア王国に統一されましたが、旧ナポリ王国に忠誠を尽くす別荘の使用人チッチョ(セルジュ・レジアニ)は冷ややかな態度を崩さず、ファブリツィオに対してはセダーラは革命を利用して成り上がった強欲な成金だと批判、アンジェリカの母は絶世の美女ながらも下品な女だったと皮肉をこぼしました。しかし、ファブリツィオは裕福で美人であるアンジェリカこそがタンクレーディの結婚相手に相応しいとの考えを崩さず、貴族の名を汚すことになるというマリア・ステラの反対を押し切って独断で結婚の準備を進めていきました。
山猫のネタバレあらすじ:転
やがて赤シャツ隊は解散、早々にイタリア王国正規軍の将校に転身していたタンクレーディが盟友のカヴリアーギ伯爵(マリオ・ジロッティ)と共にシチリアに舞い戻ってきました。カヴリアーギ伯爵は傷心のコンセッタに恋心を抱き、タンクレーディはアンジェリカに婚約指輪を渡すと愛を確かめ合いました。
程なくしてパレルモにイタリア王国から代理人が訪れ、ファブリツィオの人徳と実績、社会的地位を買ってシチリア代表の貴族院議員に推薦してきましたが、ファブリツィオは古いしがらみの中でしか生きられない自分には相応しくないと固辞、シチリアの現状を変えなくてもいいのかという代理人に「シチリアの人間は変化を求めない。求めるものは永い眠りだ」と告げ、代わりにセダーラを貴族院議員に推薦しました。やがて本土に帰る代理人に対してこれまでは自分たち“山猫”がこの地を治めていたがやがて“ジャッカル”に取って代わられるだろう、そして、山猫もジャッカルもそれぞれが自分を”地の塩”と思い込むのだろうと告げました。
山猫の結末
ファブリツィオは友人の主催する舞踏会に家族と共に招かれました。舞踏会にはタンクレーディとアンジェリカ、セダーラも参加、大勢の貴族たちに交じってイタリア王国軍の将校らの姿もありました。時代の流れの変化に疲れの出たファブリツィオは誰もいない別室で休憩を取り、そこに飾られていたグルーズ作の絵画“正義の死”に目を奪われました。それは、ベッドで最期を迎える老人と看取る娘たちを描いた重苦しい作品であり、ファブリツィオは部屋に入ってきたタンクレーディとアンジェリカに「私も死ぬときはこんなものか」と呟き、タンクレーディは不吉な言葉を口にするファブリツィオを心配しました。
アンジェリカはかつて舞踏の名手として名を馳せていたファブリツィオに一緒に踊って欲しいと頼み、ファブリツィオはワルツならばと受け入れました。そしてファブリツィオとアンジェリカは大勢の人々の前で優雅な踊りを披露、人々を魅了していきました。そしてファブリツィオはアンジェリカとタンクレーディを二人きりにさせるために席を外し、タンクレーディはコンセッタと休憩を取っていたアンジェリカの元に向かいました。イタリア王国の将校と話していたタンクレーディは明日にも反逆者たちが処刑されるという話を得意げに語り、コンセッタはタンクレーディが変わってしまったことに深い哀しみを覚えました。
舞踏会も終わり、ファブリツィオは誰もいない部屋で一人涙を流したあと、タンクレーディや家族らを先に帰路に就かせ、自らはたった一人で荒れ果てた街を歩き始めました。そしてファブリツィオは星空を見上げ、「いつも変わらぬ金星よ。いつになれば永遠の世界であなたと会えるのか…」と問いかけました。
以上、映画「山猫」のあらすじと結末でした。
この映画「山猫」は、イタリアのシシリーの貴族の壮麗な挽歌であり、失われた貴族文化へのオマージュに満ちたノスタルジックな、ルキノ・ヴィスコンティ監督の最高傑作だと思います。
この映画「山猫」は、イタリアの世界的な巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の作品で、1963年度のカンヌ国際映画祭で最高賞であるグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞している、映画史に燦然と輝く珠玉の名作です。
この映画の題名である「山猫」とは、イタリアのシシリー島で、アラゴン、スペイン、ブルボンなどの各王朝の下で栄えてきたファルコネーリ家の家紋であると共に、現在の当主サリーナ公爵(バート・ランカスター)の呼称でもあり、彼は旧家の権威と新時代への対応力と併せて、変革に不易な深い人間性をも備えている人物として描かれています。
それまでは、どちらかというと野卑でタフガイのイメージであったバート・ランカスターに、”貴族の家父長的な尊厳さ”を与えたヴィスコンティ監督は、その後も彼を自作の「家族の肖像」にも起用していて、ミラノの公爵の御曹子で、その思想的な背景から”赤い公爵”とも言われた自らの孤独な姿を、バート・ランカスターに投影しているものと思われます。
原作は、シシリーの貴族ランペドゥーサ公爵が、自らの没落過程を描いた唯一の作品であり、1958年に自著が公刊されるのを待たずに世を去っています。
このように、原作、映画の監督ともイタリアの旧貴族ですが、ヨーロッパの華麗な芸術を伝えてきた彼等の文化的な役割は、ルキノ・ヴィスコンティという偉大な芸術家を失った今日でも、彼等が残した作品は決して色褪せる事なく、永遠に輝き続けるのだと思います。
時は1860年、”復興”の波に乗ったガルバルディの率いる赤シャツの義勇軍は、シシリー島のマルサラに上陸しブルボン王朝軍を圧倒して、その後、破竹の勢いで進軍し、パレルモを占領しましたが、映画はこの革命戦争の様相を生々しく描いていきます。
サリーナ公爵の甥タンクレディ(アラン・ドロン)は、野心に満ちた若い世代を代表する人物で、当初は赤シャツ隊に参加し獅子奮迅の活躍をした後、負傷し、新国王エマヌエーレ二世の国王正規軍に移り、ガルバルディの革命軍を反対に鎮圧する立場になりました。
イタリア王国が、ローマを首都と定めて統一を成し遂げたのは、1871年ですが、ガルバルディの市民戦争の翌年の1861年にアメリカで独立戦争が起こり、更にその7年後の1868年に日本では徳川幕府が崩壊しているという、大きな歴史の変革の時期に差し掛かっていました。
しかし、これらの変革は、地主階級を温存するという、不徹底なものに終わった事で共通しています。
タンクレディが、愛情からだけではなく、政治的、財産上の欲望も絡んで結婚する美貌のアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)は、新興ブルジョワ階級の代表である村長(パオロ・ストッパ)の娘であり、タンクレディと同様に新時代の息吹きと生気に満ち溢れています。
しかし、このアンジェリカは、サリーナ公爵の孤高な熟年の男に魅力を感じていきます。
一方のサリーナ公爵も、若い彼女に対して、人生の終わりに近づきつつある自分を感じ、最後の炎を燃やします。
この映画のラストでサリーナ公爵が主催する舞踏会は、これまでに映画で描かれた中でも最も豪華な舞踏会ともいえるもので、スケールの大きさや見た目の派手さという事だけなら、他にもあったかも知れませんが、それがその細部に至るまで、徹底して本物にこだわった見事さは、類を見ない素晴らしいものがありました。
この舞踏会での、このサリーナ公爵とアンジェリカの精神的に共感する老若二人の華麗なワルツは、この映画のラストを比類なく、美しくも悲しいノスタルジックなものにしているように思います。
そして、この映画の中では、まるでダイヤモンドの輝きを思わせるような、人生の深遠に迫るほどの奥深く心に残ったサリーナ公爵のセリフの数々がありました。
「何だ? 愛か? 愛もよかろう、炎と燃えて一年、後の三十年は灰だよ」、「現状を否定する者に向上は望めない。彼らシシリー人の自己満足はその悲惨さよりも強い」、「続くべきでないものが永遠に続く。人間の永遠など知れたものだが、しかも変わったところで良くなるはずもない」、「我々は山猫だった。獅子であった。やがて山犬やハイエナが我々にとって代わる。そして、山猫も獅子も山犬や羊すらも、自らを地の塩と信じ続ける」、「私達の願いは、忘却、忘れ去られたいのです。血なまぐさい事件の数々も、私達が身を委ねている甘い怠惰な時の流れも、全ては実は官能的な死への欲求の現れなのです」、「おお星よ。変わらざる星よ、はかなき現世を遠く離れ、汝の永遠の世界に我を迎えるのはいつの日か?」——–。
舞踏会という絢爛豪華な宴が終わった後、一人路地裏で膝まづいて、このように祈ったサリーナ公爵は、既に夜明けになっているにもかかわらず、なお仄暗い路地の奥へと淋しく消え去っていくのです。
ニーノ・ロータの優雅で甘美な音楽とは正反対に、赤茶けた自然と民衆の生活は苛酷であり、シシリー島は長年に渡って他国の植民地としての苦しみに耐えてきたのです。
サリーナ公爵が、「二十歳で島を出ては遅すぎる」という程の人間関係の繋がりが深いシシリーは、その後も映画「ゴッドファーザー」などに出てくるマフィアというギャング組織の故郷にもなっています。
このシシリーほどではないにしろ、”イタリアには人があって国がない”と言われており、アングラ的な裏の権力や経済が支配している背景とも見られているのです。
そして、イタリアでは納税に対する義務感が低いと言われていますが、その根本的な原因は、統一された国民共同のものとしての国家感がないからだという事なのかも知れません。
しかし、イタリア人及びイタリア移民の映画芸術というものへの貢献は、ルキノ・ヴィスコンティ監督やフランシス・フォード・コッポラ監督の如く世界的に素晴らしく、偉大なものであると痛切に感じます。