青春の殺人者の紹介:1976年日本映画。「両親殺し」という重いテーマを題材に、20代で映画を撮ると明言していた気鋭の映画監督、長谷川和彦が殺人犯との意識の共有に挑んだ作品です。長谷川は、自らの青春を象徴する映画だとして、思いの丈を画面内に全力投球しています。その意気込みにみごと応えているのがアンチヒーローを演じた水谷豊です。助演陣には、体当たりの演技が瑞々しい原田美枝子。母親役の市原悦子は、密室空間内での愛憎劇を舞台演劇そのままに披露します。その他、豪華ゲストが新人監督の第1回作品に持ち味を添え、同年「キネマ旬報」ベストテンの日本映画ナンバーワンを受賞します。
監督: 長谷川和彦 出演者:水谷豊(斉木順)、原田美枝子(ケイ子)、内田良平(順の父)、市原悦子(順の母)、白川和子(ケイ子の母)、桃井かおり(石川郁子)、江藤潤(宮田道夫)、地井武男(日高徹)ほか
映画「青春の殺人者」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「青春の殺人者」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
青春の殺人者の予告編 動画
映画「青春の殺人者」解説
この解説記事には映画「青春の殺人者」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
青春の殺人者のネタバレあらすじ:起
昭和。些細な諍いが発端でした。順(水谷豊)は思います。「俺はいま、誰よりもケイ子(原田美枝子)を愛している」。なのにオヤジはケイ子の悪口を言って、俺に恥をかかせようとしている。「おまえ、いつまであの女にたぶらかされているつもりだ」。なんだと、黙れ!「ケイ子の悪口を言うな!俺をいつまでも子ども扱いするな」。こいつを黙らせなければ・・・。
順の両親は、順と生活を共にしているケイ子が気に入りません。もともとは「スナック」を開く順のために、店のウェイトレスとして両親が連れてきた女でした。順の幼なじみのケイ子は、小さな頃から人見知りをせず、気立てのいい娘だったと両親は信じていました。ところが、いまでは裏切られた思いです。
スナックを開いてから間もなく、ケイ子は順と一緒にスナックへ泊まりこむようになりました。そればかりではありません。順はケイ子の言いなりです。蛇が獲物を絡めとるようにと、両親は口を揃えます。「俺が金を出した店だぞ」と父親(内田良平)。「あのアマ、とんでもないアバズレだよ」と母親(市原悦子)。ケイ子を非難する両親の口調は日に日に悪辣になってきています。
順の実家は千葉県の京葉工業地帯へ続く国道沿いにあります。両親は、大型トラックやダンプカーのタイヤ修理を専門に扱う修理店を営んでいます。住居兼事務所に接した棟続きのガレージと、大型車を停めるスペースをもつだけの小さな仕事場ですが、暮らし向きは悪くなく、ひとりっ子の順は両親に従順な子として、何不自由なく育ちました。
青春の殺人者のネタバレあらすじ:承
順はいま実家へ帰っています。「今晩は親子3人水入らずで」と、母親が買物から帰ってくると、順が行く手を塞ぎます。「見るな!」。「順ちゃん、あんた!?」。母親が目にした光景は、血みどろで倒れている夫の姿でした。すでに息絶えています。ケイ子を淫乱呼ばわりする父親を黙らせるため、順が包丁でひと突きしたあとでした。
夫の死を認めた母親は、一転してそれまでの従順な妻から、溺愛する息子を性の対象として見る「女」へと変身します。結婚後、働き詰めで旅行すらままならなかった日々、来る日も来る日も労働に明け暮れて女としての幸せを実感することがなかった日々。しかし夫を亡くしたいまなら、「女」として順をケイ子から奪い返せるという倒錯した考えにいたっています。
しかし順は母親の「女」を拒否します。すると母親は、自分の「女」をあえて避ける順の態度の奥にケイ子を見て、ケイ子へ嫉妬を募らせます。順をひき止め、いとおしむ思いから、順をケイ子のもとへ帰さない方途として、母親はとっさに順の殺害を企てます。
髪振り乱して走る包丁の切っ先が、繰り返し順を追ってきます。しかし愛憎相半ばする「母」への思いは、父親へのそれとは異なります。逃げ惑う順に母親を恨む思いはなく、正気に戻る瞬間を、逃げてただ待っています。母はとうとう屈します。一転して順に「死」を要求します。順も母の願いを聞き入れます。羽交い絞めにしたままの母の体を順はメッタ刺しに殺害します。
青春の殺人者のネタバレあらすじ:転
スナックへ戻った順は、ケイ子にことの次第を打ち明けます。しかし、聞き入れてはもらえません。「気の弱い順チャンにそんなことができるはずはない」。大方、両親に言いくるめられてきたのだろうと、高をくくります。そうではなく、「はやく俺から遠ざかれ」と順が言ってもケイ子は聞く耳をもたず、結局会話は交わることがありませんでした。
順はふたたび実家へ戻ります。いまはケイ子との諍いよりも、死体の始末を急がなければなりません。血染めの遺体ふたつを毛布にくるみ、縛り終えたところへケイ子がやって来ます。ケイ子は家中に飛び散った血糊を見て総毛立ちます。順はケイ子を巻き込みたくありません。しかしケイ子は順にすがる以外に行くところがないと訴えます。
明け方、ふ頭の桟橋から両親を海に投げ入れた順は、その足で房総の海へ出ます。車の助手席にはケイ子がいます。ケイ子は重苦しいはずの一連の作業が、訳もなくあっさりと片づいたことに新鮮な驚きを覚えます。
ケイ子が脇にいることで順も「両親殺し」の重苦しさから一時解放されます。つがいになったばかりの若鳥のようなふたりは、共犯者意識を共有したことでさらに離れがたくなっています。しかし順の心の奥底の鬱屈した思いは沈んだままです。順は行く先を選択します。ひとつは自首、もうひとつは自死。スナックへ帰る道すがら検問に出会います。
青春の殺人者の結末
検問は、成田空港建設に反対する過激派を阻止するための取締りです。順は検問所で、警官に「両親殺し」を打ち明けます。すかさずケイ子が順を遮り、「このひと気違いですから」と順の「暴走」を食い止めます。ざわつく検問所の警官たちも戸惑いを隠せません。しかし「女の言うことが本当なら」と面倒を避け、やがて順は検問所を追い払われます。
自首をケイ子に邪魔された順は、スナックへ帰りますが、心は落ち着きません。果物ナイフで手首を切り、死ですべてをご破算にしようと試みますが、自棄になりきれずケイ子に阻止されます。さらに順は、腕ずくでケイ子を追い出すと店へ火をつけます。炎が上がり、辺り一面が燃え盛るなか、それでもドアを蹴破ったケイ子が命がけで順を救います。
燃え上がる一軒家の前で茫然と炎を見つめる順とケイ子。炎を目がけて消防が次々と飛びこんできます。順はケイ子を置いてそっと国道へ出ます。闇夜に映る炎を背にした順は徒歩でトラックターミナルを目指します。1台の大型トラックの幌に順は飛び乗ります。
闇夜を往くトラックの先に浮かぶ無数の街路灯。等間隔に灯る明かりひとつひとつをトラックが超えて行きます。荷台に乗る順。もうケイ子は追ってきません。幾重もの明かりが時を打ち、ひとつひとつケイ子との距離を遠ざけて行きます。
以上、映画「青春の殺人者」のあらすじと結末でした。
この映画「青春の殺人者」は、中上健次の小説「蛇淫」の映画化作品で、1969年10月に千葉県で実際に起こった事件をもとにしています。
父母の厳格な教育方針と溺愛の中で、身動きできなくなった一人の青年。
彼がついに父をそして母を殺し、社会から疎外されていくまでを、冷徹かつ衝撃的に描いた長谷川和彦監督のデビュー作ですね。
製作に今村昌平、脚本に田村孟、撮影に鈴木達夫と、新人としては異例の超一流のスタッフが脇を固めています。
人間が人間を殺すという行為は、それが例えば戦争などの場合のような大量殺人であれ、あるいは恋のもつれといったような、個人的な殺意による、一人一殺のような場合であれ、必ずや動機といったものがあるものです。
その動機が、ドラマとしての発端となり、殺人行為そのものを描きつつ、被害者なり加害者なりの心理描写を通して、人の命の尊さとか、人間が自分以外の他人の生命を左右してしまうことの恐ろしさを訴えることが、”殺人”をテーマにした物語の常套でした。
当然のことながら、殺人行為そのものが、そもそも非日常的な出来事であることも論をまちません。
ところがこの作品は、外出から帰って来た母親が、自分のいつもの居場所である台所で、おびただしい血の量に仰天するところから話が始まり、動機とか、殺人行為のプロセスなどは一切、排除されている。
母は「拭くだけでは、とても間に合わない」と、血の海の中でつぶやいたりするのだが、台所という日常的な空間の中に、死体という非日常的なものを持ち込んで来た、この発想が秀逸だ。
息子が、自分の父親を殺害するという行為は、はた目にいかに唐突にうつろうとも、あるいは無分別なことに見えようとも、当事者にとっては、ごくごく自然な、当然の帰結であるということの説明なのだ。
つまり、世間の人が目をひんむくような、どのような出来事も、それは決してある日、突発的に表面化したものではない。
川の川底に徐々に積まれていった土が、ある日、洲となって形を表わすように、日常の中で、毎日の生活の中で、少しずつ少しずつ積まれていったものの結果なのだと思います。
つまり、日常の中には、常に非日常なるものが醸成されているということなんですね。
分別をわきまえ、大人になるということは、その非日常性を自分の中で抑制し、コントロールしながら、日常になじんで生きていくということであろう。
父を殺し、また母をも殺し、放火という罪を犯して、特異な行為へと身を投げた青年は、大人になることを拒否し、永遠に子供であろうとした男の物語だと言ってもいいと思います。
若き水谷豊が、そういう未熟な青年の姿を、実に的確に演じて見せていると思います。