ガンジーの紹介:1982年イギリス,インド映画。弁護士だった青年が、やがてイギリスに植民地支配されていたインドを独立へと導く指導者になり、暗殺されるまでを描いた歴史超大作。アカデミー賞を8部門受賞し、その他多くの映画賞に輝いた本作は、出演したエキストラの人数が30万人を超え、一つの映画作品で動員したエキストラ数の最多記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定された。
監督:リチャード・アッテンボロー 出演者:ベン・キングズレー(マハトマ・ガンジー)、ロシャン・セス(ジャワハルラール・ネルー)、アリク・パダムゼ(ムハンマド・アリー・ジーナ)、エドワード・フォックス(ダイヤー将軍)、ジョン・ミルズ(総督) ほか
映画「ガンジー」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「ガンジー」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「ガンジー」解説
この解説記事には映画「ガンジー」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
ガンジーのネタバレあらすじ:起
1893年、弁護士だったマハトマ・ガンジー(ベン・キングズレー)は、南アフリカで人種差別を受け、現状を打破すべく反対運動を開始し、集会で新聞記事になるほどの事件を起こします。ある日、記事を読んだ白人の牧師であるチャーリーと出会ったガンジーは、NYタイムスの記者に、宗教も人種も関係なく暮らす共同農地を作るところを見せて回ります。そして、再び集会を開いた彼は、非暴力非服従運動を提唱して、イギリスの作る不平的な法律には従わずに戦うことを訴えるのでした。仲間たちとデモ行進を始めたガンジーは程なくしてイギリス軍によって投獄されてしまいます。ガンジーはスマッツ将軍に面会し、全員を釈放させることに成功します。
ガンジーのネタバレあらすじ:承
1915年、ガンジーはインドに帰国し、人々から歓迎されます。彼は、イギリスの植民地であるインドを再建させるために各地を旅しますが、ある日、一人の老人が訪ねてきて、農作物が売れずに地主のイギリス人に対しての地代を払うのもやっとでお金がないのだと彼に訴えます。彼の住む村へ赴いたガンジーは村人たちから熱烈な歓迎を受けますが、治安妨害の罪で逮捕されてしまいます。ガンジーは公聴会で州外退去を命じられますが、交渉の末に無事に釈放されるのでした。国民会議派の集いに参加したガンジーは、新たな法律の施行を阻止すべく、祈りと断食の日を設けて大衆と共にストライキを行うことを提案します。インド全土のライフラインが止まり、ガンジーはまたもや逮捕されてしまいますが、人々の暴動が激しさを増し、イギリスの一般人が殺される事件が発生して胸を痛めます。
ガンジーのネタバレあらすじ:転
インド人は集会を開くことを禁じられていましたが、ダイヤー将軍(エドワード・フォックス)はインド全土に教訓を示そうとして大規模な集会の場で大量虐殺を決行しますが、それはイギリス側から見てもあまりにも酷いものでした。ガンジーはダイヤー将軍を国外退去させ、自らの政府を作ることをイギリス総督(ジョン・ミルズ)に訴えます。総督はガンジーに、集会を認めることと、彼を逮捕しないことを約束するのでした。ある日、ガンジーは総督の娘であるミラベンと出会い、共同農場で共に暮らすことになります。数人のデモ隊員をインド人の警察官が痛めつけたことで暴徒化した人々は、警察官を殺害してしまい、これに責任を感じたガンジーは断食を行います。そのことを知った国民会議派のメンバーは全員運動を止め、彼は再び治安妨害の罪で逮捕されます。数年後、出所したガンジーは法律を変えるために、イギリスが独占する塩を自らの手で作って売ることを総督に伝え、1年以上に及ぶ大行進を行います。政府はガンジーを含む行進の参加者を逮捕しますが、その数は10万人を超えていました。
ガンジーの結末
釈放されたガンジーは、インド独立のための会議に参加すべく、イギリスへと向かいます。首相との最終面会を終え、インドに帰国したガンジーは、軟禁生活を余儀なくされます。会議派の一員であるジーナ(アリク・パダムゼ)は、ムスリムの多い地域をパキスタンとすることを提案し、ガンジーは反対しますが、人々の騒ぎを鎮めるためにインドとパキスタンはそれぞれ独立します。1947年、インドとパキスタンは対立し、毎日のように暴動が起きていました。ガンジーは戦いの激しいカルカッタへ向かい、再び断食を行います。病に伏せるガンジーを心配する会議派のメンバーで初代インド首相のネルー(ロシャン・セス)は人々に戦いを止めるよう説きます。そして混乱は遂に収まり、ガンジーは断食を止めてパキスタンへ向かうことを決意します。しかし、1948年。ニューデリーでガンジーは若者に拳銃で撃たれて死亡してしまいます。ガンジーの葬儀は世界中の人々が集まる非常に大規模なもので、彼はその後「インド独立の父」と呼ばれるようになりました。
この映画「ガンジー」は、インド独立の偉大な指導者である、ガンジーの波乱に満ちた生涯を描いた、映画史に永遠に残る珠玉の名作だと思います。
この映画史に永遠に残る珠玉の名作「ガンジー」は、1982年度のアカデミー賞で、「ミッシング」「評決」「トッツィー」「E.T.」などの強力なライバルを破って、最優秀作品賞を筆頭に、最優秀監督賞・主演男優賞・オリジナル脚本賞・撮影賞・編集賞・美術監督/装置賞・衣装デサイン賞の8部門で受賞し、リチャード・アッテンボロー監督が、アカデミー賞の授賞式で、「ガンジーその人こそ、今日この賞を受けるべき人だ」と語った事は意味深いと思います。
俳優出身のサー・リチャード・アッテンボロー監督は、1976年の超大作「遠すぎた橋」の演出では、大作負けの散漫さを示して失敗しましたが、膨大で多岐に渡る軍隊の展開については、非凡さが光っていたと思います。
その彼の監督としての実力が、この「ガンジー」では、多くの群衆シーンに遺憾なく発揮されていたと思います。
アッテンボロー監督が、ガンジーの伝記である、ルイス・フィッシャー原作の「ガンジー」を読んだのは、1962年と言われていて、それから、この映画を撮るまでの20年間、その映画化に賭けてきましたが、問題はガンジーを演じられる役者探しだったそうです。
故ネール首相に相談したところ、ネールは、アレック・ギネスを推して、「イギリス人がガンジーを演じれば、きっとガンジーは大喜びするに違いない。
つまり、これだけイギリスと闘ったガンジーをイギリス人が演じるという皮肉に対して」と語ったと言われています。
しかし、支配者であった旧宗主国イギリスの超大作映画として、イギリス人であるアッテンボロー監督が、この題材を正面から取り上げたこと自体、”贖罪的”な、意味のあることだったろうと思います。
そして、既成の有名な役者を使うことを避けたのは、ガンジーのユニークさがなくなる恐れがあったからで、映画は当時、新人のベン・キングズレーが最終的には選ばれましたが、その際、アッテンボロー監督は、ベン・キングズレーの目が、東洋的な深い輝きを持っていることに注目したのです。
ガンジーに扮するというより、ガンジーに心身共に、完全になり切っているベン・キングズレーは、イギリスで生まれ育ち、母はイギリス人のファッション・モデルでしたが、父はインド系の医者で、キングズレーの本名は、クリシュナ・ランジといい、インド人の血を引いていることを、アッテンボロー監督は後で知ったそうです。
しかし、彼の父がガンジーの生地の出身者であったからか、キングズレーとガンジーとは、肉体的に酷似していたのです。
しかも、キングズレーは、撮影前にカンジーの足跡を追ってインド各地を歩き、ガンジー関連の書物を読破して、ガンジーの心に近づこうとし、この映画のロケで彼がインドを訪れた時、ガンジーが生き返ったのかと人々は驚嘆したと言われています。
この映画の撮影時、キングズレーは37歳で、20代から暗殺された78歳までのガンジーを、激動する時代の流れを追って、サンダルや歯並びまで忠実に再現し、晩年のニュース映画の中でのガンジーが、本人かキングズレーなのか分からなくなってしまう程だと驚嘆されていました。
詩聖タゴールに、”マハトマ(偉大なる魂)”の敬称を贈られたモハンダス・K・ガンジーは、商業階級の名門の家に生まれましたが、映画は時代的にいって、ガンジーが、青年弁護士として南アフリカに渡った頃からを追っていますが、イギリス留学当時の二十歳前後の彼は、紳士になるために、ダンスやバイオリンまで稽古しましたが、しかし、母に誓った禁酒と菜食主義は守り抜きました。
その彼を南アフリカの人種差別運動に目覚めさせ、その後の”非暴力抵抗運動”の発端の場となったことは、インドにとって運命的な出来事でした。
彼が理念とした、”サティアグラハ(真理把握)”とは、「非暴力こそ真実への道」であり、「非暴力の抵抗」とは、「精神と人格とに訴えて、相手に屈服を余儀なくさせることである」との立場に立って、”非暴力・不服従・非協力運動”によって、”権力者の暴力・非真実”に対して、果敢に立ち向かおうとするものですが、この一筋の道が開かれたのは、南アフリカであり、その地での、”アシュラム(修道農場としてのコンミューン)”の体験も、その後、インドで活かされるようになるのです。
1915年、22年ぶりに故国インドへ帰ったガンジーは、早速アシュラムを開き、また各地を精力的に行脚して、インドの苛酷な実情に触れることに努めるのです。
そして、イギリスの横暴な植民地主義に対抗して、断食や”ハルタール(全市でのストライキ)”や、”スワデシ(外国製品不買運動”、そのためのイギリス製衣服焼却運動、塩の自力生産を唱えての行進と、次々に非暴力抵抗運動を各地に展開していくのです。
その間、ガンジーは、インド風の腰布をまとい、手紡ぎ車に象徴される”スワデーシー(古来の手工業復活)”の運動を広げていきます。
また、ヒンズー教徒とイスラム教徒の融和に腐心し、一つのインドを独立の理想としたのです。
それだけに、ガンジーは1947年8月15日のインド、パキスタンの分離独立には絶対反対で、晴れの独立式典には参列しませんでした。
そして、両教徒の協力を祈って断食したガンジーは、「断食の目的は、常に相手に最上の感情を呼び起こすことである」という確信も空しく、1948年1月30日の夕刻に、ヒンズー教右派国粋団体マハ・サバ党の青年ヴィナヤク・ゴーシュによって暗殺されました——。
映画は冒頭、ガンジーが三発の弾丸を裸の痩身に射ち込まれて、「ヘーイ・ラーマ(おお、神よ)」と呟いて倒れる、暗殺の場面に始まり、それに終わります——。
その葬列の場面は、ガンジーの死後33年記念日に撮影され、エキストラ10万人を含めて35万人が集まる、映画史上最大の群衆シーンとなっていますが、1948年の実際の葬儀には250万人の人々が参列したと言われています。
凄惨な群衆シーンの最たるものは、”アムリツァールの虐殺”と呼ばれるもので、イギリスのダイヤー将軍が、その指揮するインド人部隊に、公園に集まっていた無抵抗の市民に向かって発砲を命じ、1,516名の死傷者を出した修羅場の場面です。
イギリスの塩税と塩専売に反対しての”塩の行進”は、既に還暦を迎えたガンジーが、サバルマティーのアシュラムからダンディ海岸までの241マイルを24日間に渡って、毎日1時間の手紡ぎをしながら、長さ54インチの竹の杖をつき、サンダル履きで、民衆の先頭に立って歩き通したデモ行進であり、この映画の最大の山場となっています。
そして、民衆の作った製塩所が軍隊に包囲され、無抵抗のインド人が同じインド人の兵士によって容赦なく打擲される場面は、非常に悲惨ですが、非暴力が暴力を圧倒する”真理の闘い”には、映画ならではの迫力があります。
民衆の先頭に立って、手織りの白布をまとい、争うことなく、ひたすら歩き続けるガンジーの姿は、非暴力を効果的な戦略とする、現実的で行動的な民衆の指導者としての力強さと、世界の世論を喚起するために、マスコミを最大限に利用しているしたたかさと、そして飄々とした、何とも言えない人間的なユーモアと、今日的な明るいシンプルさというものを感じさせてくれます。
しかし、こういう人が、”この世に実在した”とは、既に信じられない時代となってしまったことに、一抹の不安と寂しさを覚えてしまいます。
ガンジーが語った言葉の中で、私が一番好きなものは、作家ロマン・ローランとの対談の中で語った次の言葉です。
「真理—それは私たちに語る内面の声である」。