愛のコリーダの紹介:1976年日本,フランス映画。昭和史に残る「阿部定事件」を題材にしたハードコア・ポルノ作品。昭和初期、料亭「吉田屋」の女中として働いていた定は、店主吉蔵に惹かれ男女の仲となる。所かまわず淫蕩に耽る2人の行動はエスカレートし、ついに衝撃的な結末を迎えることになる。過激な性描写のために日本では大幅な修正が加えられ公開されたが、2000年にノーカット版がリバイバルされている。
監督:大島渚 出演者:藤竜也(吉蔵)、松田暎子(定)、中島葵(トク)、松井康子(「田川」のおかみ)、九重京司(大宮先生)ほか
映画「愛のコリーダ」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「愛のコリーダ」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「愛のコリーダ」解説
この解説記事には映画「愛のコリーダ」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
愛のコリーダのネタバレあらすじ:吉蔵と定
舞台は1936年、東京。料亭「吉田屋」で住み込みの女中として働く定は、夜明け前に女中仲間に誘われ主人の部屋を覗き見ます。室内では店の主人吉蔵とその妻トクが情事に耽っていました。定は荒い息を吐きながらその様子をじっと見つめます。仕事中、女中頭から「女郎上がり」と侮辱された定は激怒して包丁を手に暴れ出しました。騒ぎを収めたのは吉蔵です。互いに惹かれ合う2人はトクの目を盗んで情事に溺れるようになりました。しかしトクはすぐに2人の関係に気付きます。暇を貰いたいと部屋を訪ねた定を相手に、トクは吉蔵とのセックスを見せつけます。定はトクをカミソリで殺害する幻想を描く程の嫉妬を覚えました。
愛のコリーダのネタバレあらすじ:淫蕩の日々
吉田屋を出た定は吉蔵と一緒に待合に部屋をとり、芸者達に囲まれて擬似的な結婚式を挙げます。2人は芸者の前でセックスを始め、芸者の方も好き勝手に享楽に耽りました。吉蔵に夢中の定は、一時も彼を離そうとしません。特に吉蔵の性器を気に入っており、セックスの時以外も握ったり咥えたりする程執心していました。「私のものだよ」と愛おしそうに告げる定。しかし金を工面するため、定はパトロンである校長先生の元を訪ねます。その間吉蔵は1人じっと定の帰りを待ちました。ほとんど食事をしない吉蔵を心配した待合のおかみは、定が戻って来る前に逃げ出してはどうかと提案します。しかし吉蔵は無言でおかみを犯しました。その頃、校長先生に抱かれた定は突然「私をぶって」「ひっぱたいて!」と叫びます。校長先生は言われるままに定を叩きますが、定は満足しません。再び淫蕩の日々に戻った吉蔵と定。定は校長先生に「ひっぱたいて」と言ったことを教えます。吉蔵も「ひっぱたいて」と言うので、定は叩きながらセックスに耽るのでした。
愛のコリーダのネタバレあらすじ:愛欲の極限
吉蔵を独占したい定は、鋏を持ち出し吉蔵の性器を切り取ると脅し始めます。吉田屋に戻っても絶対にトクを抱くなと脅す定。吉蔵は笑って約束しますが、吉田屋に帰った彼は当然のようにトクを抱きます。様子を窺っていた定は嫉妬に満ちた目で彼らの部屋を睨みつけていました。3日後、吉蔵が戻って来ると、定は包丁を振りかざして襲いかかります。吉蔵は笑って彼女をいなし、また部屋に篭って抱き合う日々が始まりました。情事の最中首を絞めると気持ちが良いと聞いた定は、セックスの際吉蔵の首を絞めるようになりました。その行為は次第にエスカレートし、定は吉蔵の手首を縛り上げて腰紐で彼の首を力いっぱい絞めます。首を絞めながらすると気持ちが良いと定は笑い、吉蔵も喜んで受け入れます。しかし愛欲の極限を求める定は、最終的に吉蔵を絞殺してしまうのでした。
愛のコリーダの結末:愛欲の果て
定は包丁を取り出し、仰向けに横たわる吉蔵の遺体から性器を切り取ります。血まみれの吉蔵の隣で幸せそうに微笑む定。その後、切り取ったものを大事に抱えて4日間、定は旅館を転々としました。捕まった際の彼女はとても晴れやかな顔をしていたそうです。究極の愛とも言える結末を迎え、この映画は終わりを告げます。
以上、映画愛のコリーダのあらすじと結末でした。
「愛のコリーダ」感想・レビュー
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大島渚の「愛のコリーダ」は、我が最愛の作品なので【二部構成】にしようと思う。二部構成の前段では「愛のコリーダ」の映画レビューを、後段では「愛のコリーダ」をめぐっての「藝術か猥褻か?」などの論争に答えるつもりである。 いつもながらの長文をお詫びしたい。
【第一部】 「愛のコリーダ」は人類が到達した「日本映画の頂点」にして、【世界映画ベスト50】の上位に鎮座 君臨する、映画史上屈指の「大傑作」であると確信している。 そして、その映像の美しさにおいても、「愛のコリーダ」に比肩するべき他の作品が思いつかない。 つまり「究極の様式美」を誇る「日本映画の最高峰」(日本映画の至宝)が「愛のコリーダ」という「傑作映画」なのである。 映画はそれぞれが「別人格」なので、異なる作品同士を単純に比較するのは「愚の骨頂」かも知れない。 しかし敢えて言わせてもらえば、衣笠の「地獄門」(カンヌグランプリ アカデミー名誉賞)や、溝口の「雨月物語」(ヴェネチア銀獅子賞)よりも、大島の「愛のコリーダ」の方が数段上を行っている。 ポルノ映画と同列に語られるくらいの「露骨な性表現」を鑑みれば、これはもう他に類を見ない「孤高の作品」と言ってよかろう。 周知の通りこの映画は「阿部定事件」を真正面から描いた人間ドラマ(愛憎劇)であり、唯一無二の(極上の)「藝術作品」でもある。 1976年(今から半世紀:約50年前)にこの映画が撮られたことは驚異であり、正に「エポックメイキング」な「大事件」なのである。 大島渚はこの作品の完成を外国に頼らざるを得ない現実が悔しかったに違いない。 「日仏合作」と言えば国際的な響きがして外見上はそれなりに立派だが、大島渚にとっては甚だ屈辱的であった筈だ。 究極の「和の様式美」を誇るこの偉大なる作品が、「フランス版が純正の正規品」で「日本版が出来損ないの修正版」であることが情けない。 私は公開された当時は高校生であったので、映画館へ足を運ぶことはなかった。 因みに日本ではフィルムをズタズタに切り、修正をかけ、原型をとどめない形で公開されたそうだ。 その後はVHSの「裏ビデオ」として出回っていたが、余りにも映像が粗悪なので見る気がしなかった。 なんと不幸な作品なのだろうか。 そして藤 竜也が「狐のお面」を被って帰って来るシーンは「インパクトがあり」すこぶる印象的であった。 「定」との出逢いを撮ったさり気ない一コマであるが、撮影技術と傑出した演出のセンスの良さをみて、「大島渚の稀有な才気」と「突出したその力量」に感服させられたのである。 また藤 竜也の才気あふれる存在感と「粋で いなせな」所作や振る舞いはもう絶品である。そして藤 竜也の顔がアップになると、その顔の美しさと男の色気が最高潮に達する。 藤 竜也を起用した大島の眼力には恐れ入る。 つまりは藤 竜也(吉蔵)が松田暎子(定)をリードすることで、この作品は「ブラッシュアップ」されているのだ。そしてこれが大島渚の卓越した「演出手法」なのである。 女たちの色とりどりの雅やかな着物の妙趣。或いは美しい線と面で構成された純和式建築の見事な佇まい。それらを追ってゆくカメラの視線。その、どれもこれもが、「神の領域」に達している! ところで私はかつて「にっぽん昆虫記」の映画レビューの中で、究極的にはこの世には「裸の男」と「裸の女」しかいないと言った。 「愛のコリーダ」の吉蔵(藤 竜也)と、定(松田暎子)の関係が正に「ソレ」なのである。人は衣服を脱ぎ捨て「全裸になること」で、ありとあらゆる虚飾やしがらみから「解放される」のである。 藤 竜也と松田暎子が口づけを交わすシーンは、映画史上最高の「最も美しいキスシーン」だと思う。息を吞む美しさとは、きっと、このことを言うのであろう。 昨今はネットの普及で「ポルノ映画」が珍しくなくなった、それでも尚、私は「ハラハラ ドキドキ」しながらこの映画を見ていた。 超一流のスタッフの前で、「銀幕のスター」が自分の性器まで曝け出して迫真の演技を披露する。 そしてこれが半世紀も前のことだとは! もはや絶句するしかあるまい。 50年近くも経っているのに、いったいその後の日本はどうなっているのか! いまだに「愛のコリーダ」のオリジナルバージョンが映画館で上映できないとは……。これはもはや「知性の自殺」に匹敵する「愚行 蛮行」である。 私の願いはただ一つ、この偉大なる作品がより多くの日本人によって正当に評価され、オリジナル版(フランス版)の「愛のコリーダ」が日本の映画館で上映されること。それに尽きる。 そうして敬意を込めて大島渚の供養をすべきだと私は思うのである。
【第二部】 〈 藝術か猥褻か?〉 単直入に言えば「猥褻」という概念そのものが根本的に間違っている。我が国の刑法では「健全な社会風俗に反する」ものが猥褻なのだと言う。 しかし私は日本の刑法そのものが「本末転倒」であり、「全くの逆」ではないかと戒めたいのである。 なぜなら、刑法が「個人の価値判断の領域」に踏み入ることによって、逆に人間の自然で「健全な生活」を脅かす「蛮行」になり兼ねないと考えているからだ。 かつて昭和の時代に特定の映画や小説(『チャタレイ事件』や『四畳半襖の下張り事件』や『愛のコリーダ』など)をめぐって「藝術か猥褻か?」などの論争が巷を賑わしたことがある。 しかし、仮に藝術であろうがなかろうが他人がしゃしゃり出て「表現の自由」を奪ってはならない。 また藝術であるか否かは特定の者が決めるべきことではない。 例えば「有識者」とか「学識経験者」などの意見を聞いたとしても何の意味もない。クラシック音楽が嫌いな人に「ブルックナー」の良さを幾らアピールしても無駄である。 また演歌を嫌っている人に「都はるみ」や「北島三郎」をお薦めしたところで迷惑なだけだ。芸術・芸能・娯楽作品などは最終的には「好きか嫌いか」で判断すれば良いのであって、他人や部外者の意見や価値観などはどうでも良い。 だから「藝術か猥褻か」も他人が決めることではないのだ。当事者が「これは藝術です!」っと言えば済むだけの話なのである。 ところでストラヴィンスキーの「春の祭典」は私の最も好きな演目であるが、初演時には(裸ではなく衣装を着ていたが)多くの観客から「ブーイングの嵐」が湧き上がり、やがて「喧嘩」にまで発展してコンサートホールは「騒然」となったようだ。 ところが現在は、欧米などの先進国では「春の祭典」を含めたバレエやオペラの公演時に「全裸のシーン」が普通にあったりもする。 つまり日本は未だに先進国ではないらしい。 藝術(アート)と言う概念そのものが「極めて曖昧」であり、時代の流れや環境の変化、また地域(或いは民族)よっても異なった認識をされているものなのである。 私はそもそも「バレエやオペラ」が高尚な芸術で、「ストリップや大道芸」(パフォーマンス)が「猥雑で下賤な見せ物」であるとは考えていない。 鑑賞者の中の「たった1人」であっても、その人が「これは素晴らしい芸術作品だ!」っと認識したなら、その作品はその人にとっては「最高の至宝」となる。 なので中学校の「ホームルームの多数決」ではないけれど、「多数派」か「少数派」であるかも一切関係がない。従って「高尚か猥雑か」などの論争は全く意味を為さないのである。 「鑑賞者の自由な解釈や様々な評価」に基づいて、それぞれが自由に遊ぶことが出来ることこそが「藝術の魅力」なのである。 なので私は全ての鑑賞者を受け入れる「懐の深さ」こそが「藝術の最大の魅力」ではないかと考えている。
アダルトゲーム(エロゲ)原作のTVアニメ、school days(スクデイ)の驚愕の最終回となった12話(本来は地上波ローカル局で放送予定のはずがとある未成年による凶悪殺人事件(名探偵コナンで鎧兜を着せられた遺体の話みたいに)が起きた影響でボツにされた)もほぼ同じくだりだった。