卍(まんじ)の紹介:1964年日本映画。谷崎潤一郎の小説を原作として女性の同性愛をあつかう。園子は若く美しく奔放な光子を愛しながらも、彼女に翻弄され続ける。そして園子の夫も光子に翻弄される一人となる。
監督:増村保造 出演:若尾文子(徳光光子)、岸田今日子(柿内園子)、川津祐介(綿貫栄次郎)、船越英二(柿内孝太郎)、山茶花究(校長)、村田扶実子(梅子)、南雲鏡子(清子)、響令子(春子)、三津田健(先生)、ほか
映画「卍(まんじ) (1964年)」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「卍(まんじ) (1964年)」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「卍(まんじ) (1964年)」解説
この解説記事には映画「卍(まんじ) (1964年)」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
卍(まんじ)のネタバレあらすじ:起・観音の顔
「先生…」と、和服の柿内園子は老作家に自分が関係した事件の顛末を語り始める。夫の孝太郎が大阪で弁護士事務所を開いたのをきっかけとして園子は女子美術学院に通って日本画を学び始める。ある日他の生徒たちと共に観音像を描いている園子に校長が、顔がモデルに似ていないと指摘する。園子は、顔は自分の理想で描いたと校長をやりこめて評判になるが、観音の顔のモデルが洋画のコースにいる、織物会社社長の令嬢の光子であるのは衆目の一致する所であり、二人について同性愛のうわさが立つ。しかしそれをきっかけに園子と光子は仲良くなり、園子は光子に夢中になっていく。光子をモデルにして園子の描いた観音について、光子が自分と体が似ていないという。そこで、園子の家で光子は彼女の裸を見せる。園子は光子の体の美しさに取り乱し、光子も「姉ちゃん」と呼ぶ園子に服を脱がせ、その裸の体をほめる。園子は光子を愛するあまり夫をないがしろにするようになっていく。
卍(まんじ)のネタバレあらすじ:承・綿貫の出現
ある日光子から、井筒屋という連れこみ宿で着物を盗まれたという電話が園子にかかってくる。園子は光子のために自分の着物をもっていくが、光子に綿貫栄次郎という「婚約者」だと名乗る男がいることがわかった。光子の裏切りを悔しがり一度は彼女との縁を切ろうした園子だったが、光子が仮病をつかってよりを戻そうとすると、見え透いた芝居と気づいても彼女を許してしまう。二人は、孝太郎には妊娠した光子を見舞うと嘘をついて、井筒屋で逢瀬を重ねるようになる。
卍(まんじ)のネタバレあらすじ:転・変化する三角関係
だが、光子につきまとう綿貫は、二人だけで仲良く光子を愛そうと園子にかけあう。綿貫と園子は互いの血をすすり合い、血判を押して姉弟の契りを結ぶ。しかし、しつこく狡猾な綿貫は秘密にするはずのその誓約書を孝太郎に見せて、園子と光子の中を裂こうとする。夫に問いただされた園子は秘密を一切合切しゃべる。孝太郎は光子との仲の清算を迫る。園子と光子は二人の真剣な気持ちを孝太郎に理解させるために睡眠薬による狂言自殺を試みる。園子は朦朧とした意識の中、光子が男と絡み合っているのを見る。夫の孝太郎と光子が肉体関係をもってしまったのだ。夫は光子との過ちを繰り返す。園子は光子に魅せられる夫の気持ちを理解し、三人で幸福に過ごそうということになる。
卍(まんじ)の結末:消えない疑惑
しかし、園子、光子、孝太郎は互いに嫉妬し合うようになる。抜け駆けして他の二人が愛し合っているのではないかという疑心暗鬼にとらわれる。そこで光子は柿内の家から帰宅する前に光子と孝太郎に睡眠薬を飲ませるようになる。夫婦は睡眠薬で衰弱しながら光子への愛を強める。ところがある日、光子たち三人の関係が新聞に大きく書き立てられる。綿貫から誓約書を買い取ったはずだったが、彼は誓約書を写真に撮っていて、自分が捨てられた腹いせに新聞に見せたに違いない。醜聞は広まり、三人は社会的地位を失うだろう。三人は自殺することにし、園子の描いた菩薩像の前で睡眠薬を飲んだ。だが、翌日、園子だけが生き残ってしまった。すぐ二人の後を追って死のうと思ったが、二人は示し合わせていて自分をのけものにして死んだのではという疑いが起こり、園子は死ぬに死ねない。しかし、今でも光子のことを考えると、憎い悔しい思いより、恋しくて…園子は老作家に話す。
「卍」はまるでドビュッシーやラヴェルのピアノ曲のような妖しくも美しい清冽なる息吹と、爛熟したデカダンスの香りが漂う高雅なエスプリの花束である。またこの作品は破滅型の人間たちの哀しい性(さが)を赤裸々に描いた問題作でもあり、大人になり切れない凡夫たちの切ないトラジコメディ(悲喜劇)でもある。この作品はまるで発禁本の頁を覗いているような、めくるめくばかりの興奮と新鮮な驚きに満ちている。岸田今日子と若尾文子の共演は私にとっては夢であり奇蹟でもある。この映画の中の魔法の鏡に映し出されるものは岸田と若尾のツーショットのみ。後には何も残らない。余計なものは跡形もなく消去されるのである。そんなエロスと美の極致が「卍」という作品の本質である。耽美的でひたすら美しい映像を見ていると映画のストーリーなど、もうどうでもよいではないかとなってしまうのである。岸田今日子は私が最も高く評価する女優である。彼女がただ声を発するだけで周りの空気がガラリと変わる。岸田のナレーションも詩の朗読も「超一級品」なのだ。彼女の目の動きもまた絶妙である。劇中で岸田が若尾文子のことを覗き込む時の「潤んだその目」の何と美しいことか。岸田今日子の紅い唇もエロスの象徴であり、蠱惑的な瞳の輝きと相まって女の魅力の全てが凝縮している。岸田今日子は類稀なる演技派であり女の性(さが)と野生をアピールする偉大なる女優なのである。岸田の恋人役の若尾文子の魅力については今更言うまでもあるまい。私としては二人共に理想の女であり完璧な女優であるとしか言いようがない。映画の中で熱烈なる恋文を披露する短いシーンが出て来る。その手紙に込められた女の執念(ジェラシー)とパッションは尋常ではない。この手紙のエピソードは一種の怪談でありホラーである。一つ一つの手紙のデザインも大層手が込んでいて色彩が豊かでセンス抜群である。細かい所にまで拘りを見せる増村保造のアーティストとしての矜持と執念を受け取った。「卍」は現代の御伽草子であり大人のためのミルクである。そしてフィクションとファクトが入り混じった夢幻世界(桃源郷)を映画化した「卍」は、個人的には増村保造監督の最高傑作であると絶賛し高評価している。