利休の紹介:1989年日本映画。天下統一を果たした秀吉の側近、千利休。茶の湯を通して弟子や名だたる武将と交流した彼の波乱に満ちた半生を静かに描く。
監督:勅使河原宏 出演:三國連太郎、山崎努、三田佳子、松本幸四郎、中村吉右衛門、田村亮、坂東八十助、ほか
映画「利休」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「利休」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
利休の予告編 動画
映画「利休」解説
この解説記事には映画「利休」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
利休のネタバレあらすじ:起・天下を取った秀吉
秀吉と利休、かつて二人が仕えた信長は本能寺の変で没した。その時、本能寺で自刃しようとする信長は、茶室に入るようだったと、遺品の地球儀を持って利休の元を訪ねたステファノは語った。
千利休は本能寺の後、勝家か秀吉かと言われる中で天下を取った秀吉の側近となっていた。黒い茶碗を割るほど好まない秀吉は、金の茶室を作らせ、そこで帝にお茶を出した。そして、その金の茶室の一件を腹に据えかねた弟子の一人は、利休から袂を分かった。
利休の妻、りきは、ねねの茶の湯の指導を頼まれ、ステファノは利休の元で下働きをし、利休は弟子の古田織部を訪ね過ごしていた。
伊達政宗が自分の元に下らない事にしびれを切らした秀吉は、茶会を口実に呼び出し、徳川と伊達への牽制のための小田原攻めの後で首を刎ねようと画策していた。また弟子の山上宗二が北条にいる事から、利休を使って北条を懐柔しようともしていた。
利休のネタバレあらすじ:承・地位を脅かす存在
茶々の妊娠中、側近たちは、武士の物だった茶の湯が女や民衆に広がることで利休が高名になっていく危険性を説いた。それを知らない利休が弟子の元へ訪ねると、画家が来ており、山門に立てるための利休の木像の下絵を描いてもらおう言う話が出ていた。利休を気遣う秀吉の弟は、彼に茶碗の世話を一つ頼んだ。
伊達政宗は小田原攻めの前に利休に弟子入りし、利休の弟子である武将、蒲生氏郷や細川忠興は陣を張っていた。夜、宗二が利休の元を訪ね、利休と茶の道について語り合い、思い残すことは無いと言って、北条幻庵のいる小田原に帰って行った。その時、秀吉の期限のいい時に挨拶に行こうと言ったが、利休を伴わず、一人で秀吉の元を訪れた宗二は、秀吉から召し抱えると言われても、小田原の幻庵との約束があると頑なに拒み、首を落とされた。利休はそれを後から知り、嘆いた。中にはそれを責める弟子もいた。
利休のネタバレあらすじ:転・天下統一のその先
バテレン追放が決まり、居づらくなったステファノに花器を渡し、利休は彼を祖国に帰した。
秀吉は、唐御陣に難色を示す家康が政宗と癒着しているのではないかと怪しみ、茶会で緑色の毒で暗殺する計画がった。それまで秀吉との仲を取り持っていた弟の秀長も亡くなり、利休に緑色の毒が渡された。
そして、細川忠興から急ぎの手紙で、山門の利休の木像に難癖とつけられるのではと知らされ、茶器と一緒に返事を出した。
家康が上洛し、利休が招いてもてなした。その床の間には毒の小瓶があった。毒の件を知っていた細川忠興が身を案じてやって来たが、利休は毒殺には加担せず、家康は利休の家で茶事を終え、三河へ帰った。
利休の結末:軋轢の末
かつて天下を取った際にお茶を飲んだ茶室に、秀吉がやって来て、ここでは罵ってもいい何も言ってもいいと言うが、利休は何も言わなかった。
案の定、山門の木像の事を怒り、唐御陣が明智討ちのようには行かぬと言った事が気に入らないのだ言うと、利休は、異国へ出兵する事、異人と対峙する事、子供が生まれたばかりなのだから自分の身体を大事にと諭そうとした。そして大名の多くは唐御陣を渋っていると言うと、秀吉は怒って帰り、京を離れ、堺屋敷に閉居するよう命じた。
利休の木像は壊されて吊るされた。
堺に向かう船を、古田織部と細川忠興だけが見送った。
利休の元に何とか秀吉に詫びの言葉を取り次ごうとする者から手紙が来たが、頭を下げることは何もしていないと、利休はお礼だけを返した。その態度に怒った秀吉は、切腹を命じた。
茶々との間の息子と地球儀を転がして遊ぶ秀吉と、武者の亡骸の立つ竹林の中を行く利休。
天正十九年二月二十九日、自刃。
以上、映画「利休」のあらすじと結末でした。
利休のレビュー・考察:茶聖のめざしたもの
千利休は何をしようとしていたのか。影の権力者として力を振るおうとしていたのか、それともただ慎ましく己の茶の湯の探求を続けていようとしただけなのか。今となっては真実はわからない。しかし、絢爛豪華な時の権力者の調度や趣味に対して、彼が行っていたのは正反対の、質素な侘茶。千利休の侘びの美学は茶の湯にとどまらず、彼の行動や心遣い、言葉遣いにも表れている。それ故に形式だけの謝罪など、彼にはできなかったのではないだろうか。そんな千利休の美学だからこそ、弟子は受け継ぎ、その精神は現代においても茶道、茶の道は生きた文化として連綿と受け継がれている。
歴史ドラマというものは、厳然とした歴史の流れがあらかじめ決まってしまっているから、物語の筋がどうなるのかを楽しむ余地は少ないものです。
織田信長の後には豊臣秀吉が、秀吉の後には徳川家康が天下を獲る定めになっているし、話の中で石田三成がいくら智略の限りを尽くしたところで、彼が政権を取り損ねて殺されたのは周知の事実です。
野上彌生子原作の歴史小説「秀吉と利休」を基にして作られた、この勅使河原宏監督の「利休」も例外ではありません。
主人公の千利休が、秀吉から死に追いやられる結末はわかっているし、愛弟子の山上宗二が惨殺されるのも、利休の反対を押し切って朝鮮出兵が強硬されるのも、歴史のままです。
そして、三成が利休に家康の毒殺を命じる創作エピソードにしても、家康が生き永らえるのは必然だから、果たして実行するかどうかのスリルには結びつかないのです。
だから、我々観る者は、結果よりもその途中のプロセスを、ドラマとして楽しむというスタンスで観るわけです。
なぜ、秀吉は寵愛していた利休を殺したのか、その歴史上の「なぜ」が、この映画の最大のテーマになっているのです。
利休の権威が増大するとか、一面で堺の豪商である、彼の経済力に対し恐れを感じたという説もあれば、豊臣政権内部での権力抗争で、反対勢力からの讒言に遭ったとの説もあり、朝鮮出兵などでの反対意見の進言が、秀吉の逆鱗に触れたとする説などが、後世の歴史家から言われています。
しかし、この作品では、芸術の頂点に立つ利休と、政治権力の頂点に立つ秀吉との心理的な葛藤に焦点を絞って描かれています。
尾張の貧農から身を起こして天下人となった秀吉には、芸術と、それから皇室の権威への凄まじいまでのコンプレックスがあった、としています。
それが、茶の湯に金をとめどなくつぎ込む執着、黄金の茶室で、帝に茶をふるまった際の秀吉の異様な興奮、そして、貧しい農婦でしかなかった実母の大政所を飾る禁裏勤めをしていたと称する偽りの履歴、といった形で描写されるのです。
皇室の権威の方は、いくら関白太政大臣になっても、それ以上はどうしようもありませんが、芸術だと金の力で牛耳れば、いちおう格好はつくものです。
巨大なパトロンとして、あらゆる芸術家たちの上に君臨することで、芸術を司どろうとするのです。
しかし、それは所詮、擬制の支配でしかなく、同じ茶の湯の土俵上では、秀吉は利休の足元にも及ばないのです。
この映画の冒頭の茶室の場面、夏の払暁、秀吉を迎える利休は、庭に咲き乱れる白い朝顔を一輪だけ花筒に活け、残りの全てを門弟に命じて摘み取らせておきます。
そうやって、唯一の存在にした一輪の朝顔が、茶室の柱で客人を迎える趣向は水際立っています。
また、二人が最後に対決する茶室の場面でも、秀吉が素材として与える梅の枝を、無造作に花を散らし、水盤に投げ出した大胆な技で圧倒し、権力者がいくら寛大ぶってみせても、決して屈しない芸術精神を意志強く表明しているのです。
秀吉自ら、茶碗を評してみせたりして半可通ぶり、斯界の第一人者・利休を力で支配しても、芸術に関しては、遠く及ばないのをはっきりと自覚しているのです。
どんな世俗的な栄光を得ても、また権力を握っても、芸術的才能を得ることはできないということを——-。
だが、秀吉=権力、利休=芸術と単純に対比するわけにもいかないのです。
秀吉には、天下を獲った男ならではの力量と人間的魅力があり、それには十分、人の心をとらえる価値があるのです。
また利休の方には、純粋に芸術の道を求める姿勢にとどまらぬ、権力への志向が潜んでいるのです。
秀吉につき従うこと自体、精神の完全な自由を犠牲にして、名誉と力を得る行為だし、黄金の茶室という「わび」とは無縁の趣味に、どこか美を感じてしまっていると述懐もするのです。
あくまで、芸術に殉じた弟子の山上宗二の純粋さとは、距離ができてしまっているのです。
そして、その利休の側のジレンマと対置されるからこそ、太閤秀吉の芸術コンプレックスとの対照が際立ってきて、この二人の巨人の人間関係の奥行きを深めているのだと思います。
利休の三國連太郎、秀吉の山崎努、もうこれ以上の適役は考えられないほどの二人の名優の演技が、圧倒的に素晴らしく、権力と芸術が真っ向から激突する重量感溢れる、このドラマに厚みと深さを与えているのだと思います。
他の役にも重厚な配役がなされてはいるものの、それらのベテラン俳優たちの印象がすっかり霞むほど、二人の演技が抜きん出ていると思います。
顔に刻まれた深い皺の間に永年の芸の蓄積と、人間的な深みを感じさせる三國連太郎は、後頭部ひとつにも強烈な存在感を主張させ、微動だにせぬ後ろ姿の風格だけで、芸術家の強固な魂を表現してみせます。
また、一方の山崎努は、老境を迎えた成り上がりの権力者の恍惚と不安の交錯を、育ちの卑しさを滲ませながら、カリカチュアにならぬ、ぎりぎりの絶妙なリアリティで演じきってみせ、これまた実に見事です。
草月流の三代目家元でもある勅使河原宏監督は、特に美術に贅を尽くしてみせます。
大ベテランの西岡善信の細密な設計によるセットの中で、織部茶碗など実際の桃山時代の第一級の美術品を使う絢爛たる豪華な書画骨董が、本物の輝きを発していると思います。
この茶道のみならず、陶芸、華道、造園、建築、工芸、そして舞踊や能に至るまで、ふんだんに提供される本物の美の重みが、利休と彼をめぐる桃山文化人たちの芸術生活を引き立てているのだと思います。
各種芸術に造詣の深い勅使河原宏監督をはじめ、脚本には画家で芥川賞作家の赤瀬川原平、衣装にワダエミ、音楽に武満徹と現代日本の代表的芸術家を参加させているのも、「芸術」について追及しているこの映画に相応しいと思います。