暗殺の森の紹介:1970年イタリア,フランス,西ドイツ映画。モラヴィアの小説をベルナルド・ベルトルッチ監督が自ら脚色、彼の出世作となった。ヴィットリオ・ストラーロの撮影が見事で、映画撮影技術の教科書とされている。
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 出演:マルチェロ・クレリチ(ジャン=ルイ・トランティニャン)、アンナ・クアドリ(ドミニク・サンダ)ほか
映画「暗殺の森」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「暗殺の森」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「暗殺の森」解説
この解説記事には映画「暗殺の森」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
暗殺の森のネタバレあらすじ:起
マルチェロはホテルの部屋でイライラした様子で電話を待っていました。やがてベルが鳴り、それに応えると、彼はまだ夜明けを迎えて間もないパリの市街へ。やがて車が来て、彼を乗せます。運転しているのはマンガニェロ。ファシストの殺し屋です。彼とともにマルチェロが狙う相手は自分の恩師であるクアドリ教授。彼が運転する車を彼らは尾行しているのです。
暗殺の森のネタバレあらすじ:承
話は1938年のイタリアへ遡ります。哲学を教えているマルチェロは、盲目の友人イタロを通じてファシストの秘密警察と接触。そして、反ファシズムで知られるクアドリ教授の行動を探ることを命じられます。新婚の妻を連れて教授が亡命したフランスのパリへ。マルチェロは少年時代、元牧師のリーノからゲイの関係を迫られ、思わず射殺した経験があり、それから自分の異常性を嫌っていました。時の権力におもねり、大勢順応者として生きてゆきたいという気持ちが強まり、ファシストに協力する気になったのです。やがて旅の途中でクアドリを監視するだけでなく、暗殺まで命じられます。
暗殺の森のネタバレあらすじ:転
パリに着いたマルチェロは妻と教授の部屋へ。教授には若い夫人のアンナがいて、マルチェロは彼女に一目惚れしてしまいます。もともと妻とは打算的な結婚で愛情などなかったのです。アンナも最初は嫌っていたマルチェロに徐々に惹かれてゆき、2人は密かに心を通わせますが、逃げ出そうにもマンガニェロが常に見張っていて自由な行動は取れません。サヴォアの別荘へ行くことになった教授に同行を誘われますが、マルチェロは断ります。しかし、暗殺には絶好のチャンスと見て、アンナに別行動を約束させた上で、教授一人を殺すことにします。
暗殺の森の結末
翌朝、アンナもクアドリと一緒に出かけたと聞き、マルチェロはマンガニェロと車で追いかけます。アンナだけは助けたかったのですが、山道で夫妻は待ち伏せされ、クアドリは殺し屋たちにめった刺しに、そしてアンナは銃で撃たれます。それから数年後、マルチェロは妻とまだ結婚生活を続け、子供も出来ています。ファシスト政権はもう崩壊していましたが、彼はお咎めなしでした。街を歩いていたマルチェロは、ある男が少年を口説いているのに遭遇。それは殺したと信じていたリーノです。自分のこれまでの行動は何だったのか。彼は呆然とします。
「暗殺の森」感想・レビュー
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若い哲学講師のマルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、13歳の時、彼を犯そうとした同性愛の男をピストルで射殺し、それ以来、罪の意識に悩んでいた。
そして、少年時代の悪夢から逃れるため、彼はファシストとなり、哲学を学び、プチ・ブル娘ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と結婚する。
彼はファシスト党から、反ファシストの教授の暗殺を命じられるが、教授の妻アンナ(ドミニク・サンダ)に心惹かれ、暗殺遂行を躊躇するのだった。
「ラストエンペラー」で世界の映画界に改めてその実力を見せつけたベルナルド・ベルトルッチ監督の、この映画「暗殺の森」は、彼の29歳の時の作品だ。
ベルトルッチ監督は、1962年に若干21歳の若さで処女作「殺し」を発表、その鋭い感性は、イタリア映画界に衝撃を与えたのです。
そして、その後も「革命前夜」「暗殺のオペラ」を発表して実績を重ね、それを武器に「暗殺の森」に十分な予算とスケジュールを得て取り組んだのです。
若手監督にとっては予算とスケジュールの制約は、必ず付きまとう問題だが、ベルトルッチ監督はそれから解放され、一シーン、一シーンが胸躍る官能的な魅力に満ちた作品に仕立て上げていると思う。
この映画「暗殺の森」は、ファシズムが台頭した1928年から、崩壊寸前の1943年までのパリとローマを舞台に、反ファシストの教授暗殺の指令を受けたインテリの”体制順応主義者”(映画の原題)の姿を描いた、優れて”政治と人間”に関するドラマなのです。
原作は、現代文学の旗手と言われたアルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」で、1970年代のネオ・ファシスト台頭期に作られている点が、この映画をより重層的にしていると思う。
ベルトルッチ監督の作品には、その後も「1900年」ではドナルド・サザーランドが、「ラストエンペラー」では坂本龍一が演じたファシストが登場しているが、もちろんそれらを肯定的な存在として描いているわけではない。
しかし、彼らが、退廃的な魅力をたたえている点が、ベルトルッチ監督の凄さ、映画作家としての懐の深さなのだ。また、この映画は、映画ファン気質にあふれる映画作家が作った映画であるというのも、忘れられない点だ。
教授が森で暗殺されるクレーン・ショットの見事さ。
まるで5メートルの巨人の目が捉えているようなカメラ・アングルなのだ。このシーンを観ながら、ベルトルッチ監が敬愛してやまない溝口健二やオーソン・ウェルズ、マックス・オフェルスなどの監督の映画に思いをめぐらしながら、改めて彼らの映画を観直すのもいいかも知れない。
とにかく、この映画は全編に渡って、華麗にして官能的な映像にあふれていて、特にダンスホールのシーンや雪に覆われた森での暗殺シーンには陶酔してしまった。
映画は、いくら監督に才能があってもいい映画が出来るとは限らない。
当然のことながら、何といってもいい俳優がいなければ、成り立たないものです。その点でも「暗殺の森」は申し分がない映画と言える。
幼児の悪夢から逃れられず、熱狂的なファシストになる青年にフランスを代表する超個性派俳優のジャン=ルイ・トランティニャンが扮し、退廃的な翳りと虚無をたたえた演技を披露し、その妻に扮したステファニア・サンドレッリの、どこか崩れたような美しさも印象的だったと思う。 -
この作品は数多の映画マニアによって既に語り尽くされている感があるので、ここでは2~3点にテーマを絞って出来得る限りコンパクトに語ってみようと思う。 「暗殺の森」とはいったいどんな映画なのか、と問われれば、私は即座に「計算され尽くした美しい構図と、完璧なまでの色彩設計が見事な美の記録である」と答える。 また「暗殺の森」に匹敵する美しい作品は何ですかと聴かれたならば、躊躇なくそれはヴィスコンティの「ベニスに死す」だと答えるであろう。 そしてこの「暗殺の森」の中でドミニク・サンダ(アンナ)が初めて登場するシーンを見て私は思わず息を吞んだ。なんと、そこには「アンナ」ではなくて「タジオ」が立っていたからである。「タジオ」とは、言わずと知れた「ベニスに死す」の美少年のことであり、それはとりもなおさずビョルン・アンドレセンのことである。 更に掘り下げて言えば、これはドミニク・サンダとビョルン・アンドレセンの「性を超えた魔性の魅力」のことでもある。「性差を超越したところにこそ、真の意味での究極の美が存在する」と言うのが私の持論である。つまり「暗殺の森」のドミニク・サンダと、「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンが正にそれなのだ。 スリムな体型のビョルン・アンドレセンも、伸びやかな肢体のドミニク・サンダも共に身長は173cmである。 このエーゲ海の陽光に照らされたギリシャ彫刻を思わせる二人は、それぞれがアドニス(美神に愛された美少年)とヴィーナス(美神そのもの)と言ってよいだろう。 そしてアンナの陰翳を含んだ鋭い眼差しは正にタジオそのものでもあったのだ。 ところでこの作品の原題(il conformista)の意味は「体制に順応する者」となっていて、これは軽薄で身勝手な「ご都合主義者」のことである。これを一種の「大衆迎合主義:ポピュリズム」とみてもよいだろう。 一般的には誤解する向きもあるようだが、「ファシスト」と言っても必ずしも「右翼」であるとは限らない。 この時代のイタリアでは、ファシストと言えばムソリーニ率いる「右翼軍事政権」のことであるが、「共産主義体制下」においてはその逆で、「体制側の左翼政権」がファシストになる訳だ。 余談だがムソリーニも元々は社会主義者であった。 つまりは「身勝手で優柔不断な人間」(思想信条なき凡夫)は自分の都合で左翼でも右翼でも、そのどちら側にも付くし、平気で裏切り平然と噓をつくという訳である。 それが「大人の保身術である」と言えばそれまでだが。 一見すると端正な顔立ちの知的な貴公子ジャン=ルイ・トラティニャンが、身勝手なご都合主義者を演じるところにこそこの映画の「ミソ」がある。 これはすなわち「表向きの顔」と「素顔」との落差であり、「本音と建前」「光と影」のギャップのことである。 つまりは灯りを投影することで「コインの裏側」を描いて見せたのが「暗殺の森」ということになる。 この作品は「2001年宇宙の旅」など と同様に完璧な構図と色彩によって、永遠に歴史にその名を刻む「偉大なる映画芸術」そのものなのである。
巨匠ベルナルド・ベルトルッチの最高傑作といえる名作。第二次世界大戦下という、激動の時代に翻弄される男女の姿を、美しく哀しく鬼気迫る描写で描いています。華麗なカメラワークに、美麗な音楽。この時代、映画が映画たる何かを持ちこらえていた時代の、珠玉の一作です。